虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

見えないものが見えるように 触れられるように  6

2015-01-06 09:36:52 | 日々思うこと 雑感

わたし 「お母さんは今やっている仕事が好きだし、自分にあっていると思う。

それに、小さい教室で自由がきくからこそできることがあるって感じてる。

算数や工作を教える時には、経験からくる慣れや自信を持ってもいるわ。

でもね……。

 

このところ時間がなくて休みがちだけど……

教室でやったことや気づいたことをブログに記録しているでしょ。

飽き性でコツコツ続けるのが苦手だから、持続しているってものが見える形で残る

だけで満足というのもある。

それに何より、ブログをコミュニュケーションツールにして、

アイデアを伝えたり、いっしょに疑問を共有したり、意見を交換したりできるしね。

 

……そんなふうに、いいことばっかり並べながら、なんかぐちぐちと言いたいような

煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろう

なってことなのよ。

だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる

形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。

 

ただ、このまま放っておくわけにいかないって焦ってもいるのは、

パッケージ化された体験がどんどんあたり前になりつつある、という事情もあるの。

お母さんの教室も、

『活動とそれをしたらどんないい結果を得られるか、先々どう役立つか』という視点で、

どんなパッケージを提供してくれるんですか、と暗にたずねられているように感じる

ことが増えてる。

それに対して、相手が満足するような答えを返すことはできるし、

たいてい、相手に満足する結果を手にしてもらうこともできはする。

教えることは得意だし、工夫しながら微調節を繰り返してきた仕事でもあるから。

それが、さっき、いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としてもパッケージ化された体験を意識しながら仕事をした、

と言った理由。

 

最近は、赤ちゃんからスタートするプリント学習の教室とか、

3年保育といわずもっと幼い時期からの集団保育も珍しくないから、

家庭での体験の先に集団生活があるんじゃなくて、

集団生活のために家庭が待機場所としてあるように見える子もめずらしくないの。

だから、お母さんは、教室といったって、家庭や近所の大人や友だちとの関わりや

会話や活動に近いものを目指したいのよ。

 

でも、それは自分のしていることの質を考えないことではないの。

外から見ると、行き当たりばったりで、漠然と時間を過ごしているように見える時も、

その状況で追える最善を考えてはいるから。

ある面、質を高めるほど、気づくことが増えるほど、

自分が扱えるものの種類が増えるほど、

こういうことをしています、とひとことで表しにくいところがある。

その一方で、細かいことに配慮するほど、相手が気づきにくいものを提供しているわけで、

わかりやすい説明が必要になってくるのにね」

 

わたしの自分でも整理のついていない愚痴もどきを聞いた息子は、

「あーお母さんが教室でしているのは、何かのメソッドって感じじゃないからなぁ」

と言って笑いました。

 

息子 「ほら、何かをマスターさせるための教授法じゃないよね。

それに、朝食を食べると授業に集中できる、とか、自然と触れ合うべき、

外遊びは頭にいい、とかいった正しいと思う考えを実践していくのとも違うよ。

じゃあ、何をしているのかというと、相手に見えなかったものを見えるようにしたり、

感じられるようにしたり、触れられるようにすることじゃないかな。

 

算数の表とか、まわりの長さとか、旅人算は何を計算しているのか、とか

マス目の入った数字の羅列やプリントに印刷された線や公式という名前の

暗記物にしか見えなかったものを、

日常の感覚で直観的に把握できる形に変えることとか。

工作にしても、おもちゃとか身の回りにあるものの内部の動きを可視化させて、

子どもが自分の考えを目で追えるようにすることが目的になっているしさ。

お母さんたちの相談に乗るとしても、

カウンセリング的な役割を果たしているのではなくて、

子どもについて見えなかった面が見えるように手助けしているんだと思うよ。

子どもを知るためのパラメーターの種類がやたら少ない人がいるから」

 

わたし 「パラメーターの種類が少ないってどういう意味?」

 

息子 「能力値を体力10、集中力8 みたいに表したらって例えだけど、

○○ができる能力とか、スポーツ教室の級みたいに

すごく少ないカテゴリーでしか自分の子どもを把握していない人がいるってことだよ」

 

わたし 「ああ、わかったわ。

それと、★の話を聞いて、自分が教室でしていることをひとことで表すと、

確かに、見えないものが見えるように、触れられるように……ってことだなと

いうことも。でも、それを自分のしていることとして、ひとことで説明するのは

無理そうだけどね」

 

 


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4 コメント

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Unknown (ワーキングマザー)
2015-01-07 11:00:15
“煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろうなってことなのよ。だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる形にまとめてアピールするとなると、活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。”

先生のこの考えに納得する部分はあります。
先生のおっしゃる通り、個別のニーズに応える部分の根底は同じであっても、安易に自分たちのパターンにそのまま当てはめるてしまうのは危険だと感じているし、昔の先生のブログと今のブログの根底は同じであっても少しずつ表現が変わって、うまく言葉にできないですが、さらに経験が深まり、より慎重に、より鋭敏になってきているにも関わらず、時間の変化の部分を考慮せず、安易に一辺倒に扱ってはいけないなと感じているからです。
わたしにとって先生のブログを読んで色々考えることは、子育ての中核になっていると言っても過言でないです。
その膨大な情報の表面に現れることだけを再現することに躍起になると本質的なことを見過ごすのではないかなと思っています。でも無秩序な情報の中から秩序を見いだすことができれば、この膨大な情報の一つ一つが生きてくるのではないでしょうか。
また先生の考えは先生の考えとして、一旦心にとどめて、自分の考えを展開することは可能だし、私自身、できているかはわかりませんが、そのようにしているつもりです。その他の書物や他の方の考え方も同様です。
私は基本的に、多くの情報は本質的なものに近づく情報に収束させるタイプなので、比較的混乱はないのかもしれません。確かに状況によって見えないものが見えなくなったり、触れなくなったときは、先生の考えやその他書物、各種のHow toなど奥底に流れる本質的なものに気付かないまま、お手軽に表面上のやり方に固執したり、あれやこれやと試してみたりとしがちなのかなあとは思います。

でも子どもたちと先生の様子を勉強させて頂くたびに、私も見えないものが見えたり触れるようになってきていると実感しています。子どもたちもたくさんの種を植え付けてもらっているなと実感しています。これは子どもたちを表面上の評価やできるようになったばかりに焦点をあわせていると気付かないのだろうなと実感しています。
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なるほど… (tamaki)
2015-01-07 08:42:56
ここまで読んで「なるほど」とタイトルと内容がつながりました!

「見えないものを見えるように」とはそういうことでしたか。

確かに、わたしから見ると、先生の立ち位置って橋をかけているんだなっておもうことがあります。

わたしはコアな?内向直観タイプというか、普通の人があまり興味ない「見えない世界」のことを考えるのが大好きな変わった人間ですが(もちろん霊とかそういうことじゃありません…)なおみ先生は教室をやり続けることで、前線でいろんな子どもやお母さんたちと日々接してらっしゃいますよね。小さいといえど、教室というビジネスをやることで最前線に立って、親子のニーズに応えている。

だからもともとの素質もあるのだろうし、立場として見えない部分と見える部分の橋渡しをしてらっしゃるな、とすごく感じます。

わたしみたいに見えない世界どっぷりの人と見える価値観の世界に住む人とでは全然話しが通じない、と思うのですが、なおみ先生は通訳のようにその2つの世界を行ったり来たりしているイメージです。

このブログを読んでいて発見したのは、こどもにとって「見えない世界」の栄養がとても大事なんだな、ということ。

ただ、その2つの世界はまったく違うものだから、見える世界に上手に対応できればできるほど、自分の中のコアなメッセージとの矛盾にもやもやしてしまうのかもしれませんね。わたしからするとその2つの世界を行き来しつつ、ビジネスを成り立たせているなおみ先生の能力がすごいとおもいますが。

わたしは逆にこのブログを拝見していて、コアなメッセージがたくさんの記事に埋もれていることで、守られている面もあるな、と感じていました。

なおみ先生が前線で進化し続けているからこその過渡期なのでしょうか。
どっちの方向に向いていくのかはわかりませんが、どちらにしても応援しています!
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途中で切れていました! (KOYAMA)
2015-01-07 08:22:57
↑大した内容ではないのですが、続きの文を再送信させていただきますm(__)m ↓

新年早々また母は反省中ですが、明日からまた3学期が始まります。明るい娘がのびのび育ってくれるよう今年も私なりに頑張りたいと思いますので、先生もご無理のない程度に今後もブログでメッセージを発信していただけると、一読者としてとてもありがたいです(^^)
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明けましておめでとうございます (KOYAMA)
2015-01-06 23:20:24
本年もよろしくお願いいたします(^^)

今回の記事を読ませていただいて、ふと去年買おうと思ったキネティックサンドのことが頭をよぎりました。

「室内用砂あそび」というキャッチフレーズで、何かのTV番組で紹介されていて思わず欲しい!と12月の娘のBDプレゼントかクリスマスプレゼントに買おうと思ったものです。

ただ、何故だかわからなかったんですが欲しかったのに買う気がしなかったので結局購入しないままでした。

でも、今回の「パッケージ化されて人から与えられた体験」とか「自分自身の体験」などの言葉を目にして、「そっかぁ、私はこれを娘に与えて砂遊びの代用にさせるのが嫌だったんだな」…と気づきました。
(※お持ちの方、スミマセン。私がそういう与え方しかきっとできなかった気がするので・・・この商品自体を批判している訳では決してないですm(__)m)

砂遊びって、どの位の水を足すと丁度いいとか土のどの部分を使えば固まりやすいとかから始まって、土の中に何だか触りたくないものが入っていて友達とキャーキャー言ったり、ビール瓶の割れたのを見つけて親に危ないと叱られたり、たまたま入っていた葉っぱや棒があればそれを使ってお墓に見立てたり、まだ出来上がってなくて後で続きをしようと思っていたのに誰かに踏まれて壊されていたり・・・先が読めないハプニングが沢山あって、完成してもしなくても色んな体験があって楽しかったのを覚えています。

なのに、汚れず触感もよさそうなこの新商品を見たとき、そんな過程など全く思い出さずにうちの娘はこれでどんなものを造って、どんな風に想像力を刺激されるんだろうと、結果にのみ興味をもってしまいました(>_<)

新年早々また母は反省中ですが、明日からまた3学期が始まります。明るい娘がのびのび育ってくれるよう今年も私なりに頑張りたいと思いますので、先生もご無理のない程度に今後もブログでメッセージを発信していただけると、一読者としてとてもありがたいです(^^)



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