「発達障害と診断されることはないけれど
社会性の発達にちょっと気になるところがあった」という子や
「発達障害と診断されたけれど
学習面や人との関わりにさほど問題が感じられない」という子が、
過度に危険な行為を繰り返すことがあるのを気にかけています。
本人は相手の興味を引きたくてふざけているのでしょうが、
相手の顔に物をぶつける真似をしてみたり、嫌がることをしつこくやり続けたり、
目打ちやカッターなど危険な道具を使っている子に、わざとちょっかいをかけてみたり、
高いところから物を落としたり、危険な場所で友だちを押すような行為です。
また高学年くらいになって、残虐な殺人シーンなどがたくさん出てくるゲームや、
グロテスクなものや殺人方法などへの興味を、周囲にしつこくアピールしたりする子の
存在も心に引っかかっています。
どちらにしても、そうした行為の動機は、
こちらに構ってもらいたい、相手をしてもらいたい、
甘えたいという気持ちであることは、子どもの姿から伝わってきます。
会話からわかる本人の心性は、見た目よりずっと幼いのです。
人との関わり方をほかに知らない子にとって、
嫌がらせをしたり、周囲を驚かせるような危険なおふざけにふけることは、
刺激を求める気持ちが満たされ、
不安感や緊張感をまぎらわすのに役立つことでもあるのでしょう。
そうした人との誤った関わり方を続けるうちに、
相手や自分を傷つけるような関係の作り方が習慣化したり、
衝動のまま振舞う行為がエスカレートしたりすることはよく見られるので、
親や周囲の人の対応はとても大切だと思っています。
といっても、親御さんから「どんなふうに対応したらいいでしょう?」と相談を
受けても、はっきりしたお返事ができないままになっています。
習慣化させたりエスカレートするのを防ぐための対応は、わたしの中でははっきり
しているし、実際に深く一人の子と関わる時間があれば、それなりの効果があるのは
実感しているけれど、
それを安易に言葉で伝えると、よりいっそう問題をこじらせるのではないかと
案じているのです。
ブログだと、誤解を避けながら多方面からの見方を伝えることができるので、
記事にさせていただくことにしました。
先日、息子と二人で夕食を外でとることになったので、
危険な行為を繰り返したり、残虐なものに興味を持つ子らへの対応について、
意見を求めました。
先入観のない客観的な意見が聞きたかったし、息子ならさほど古くない記憶として
小学生時代の自分の心や友だちの姿を振り返ることができるでしょうから。
息子「小学校の同級生にはそういう子がけっこういたな。
一概に決め付けられないけど、血を見るような危険なことをやってみようとしたり、
死ぬことに強い関心を示したりするのは、
普段の生活に現実感がないからじゃないかな?
現実味が乏しい暮らしをしていると、いろいろなものを破壊して、
現実の現実らしさを目の当たりにしたいって思うのかもしれないじゃん。
スリルを味わえることとか、自分の限界まで疲れ切るほど何かに打ち込む体験とか、
失いたくないという自分にとって大切なものなんかが、もっとあればいいのかな?
殺人や死にこだわるのって、生きている実感を求める気持ちの裏返しのように
思えるよ。周囲の人の態度や感情が本物かどうか壊れるまで傷つけて、
確かめたいって思いもあるんじゃないかな?」
わたし 「現実感の欠如?そういえば、そうかもしれない。
危険なちょっかいを繰り返す子や、グロテスクな趣味を自慢する子に接していると、
その子の心の中の世界も、その子をめぐる外の世界も、
中身のないラベルだけでできているように感じる時があるから。
好きな遊びや物をたずねても、
あぁ、これがこの子を毎日ワクワクさせているんだな、
これがこの子なんだな、生活の中にその子らしさがギューッと詰まっているように
感じるような答えが返ってくることはまずないの。
好きなもの?ない、わからん、しらん、と言うか、それほど関心がない様子で
アニメの名前を言う感じ。
高学年なら、青酸カリとか15禁映画とか17禁ゲーム、グロエロスプラッターなんて、
周囲をギョッとさせる目的でだけ返事をしているみたい。
社会性の発達が気になる子は、細かい感情の変化は相手のも自分のも
気づけないようなところがあるから、
気分を高揚させてくれる激しい刺激を求めることがよくあるの。
相手との距離感がつかめなかったり、相手が嫌がっているのに気づけないことも
あって、相手を不快にさせるような危険なおふざけもよくするわ。
でも、相手が嫌がるようなちょっかいが多い子も、
いずれこの子はこれを卒業していけるだろうって感じる子と、
大きくなるにつれて、周りの人の心をざわざわさせるような発言を面白がるように
なるんじゃないかと心配になる子とがいるのよ。
お母さんの子どもについての相談や近況報告を聞いて、
先々、あまり心配のいらない子か心配な子か感じることがよくあるわ。
構ってもらいたさからくるお友だちへのちょっかいを目にしたお母さんが、
それをやめさせることだけを考えて終わるのでなくて、
実際に家でその子とおしゃべりしたり、ちょっかいを面白がる気持ちを創造力に
変換するような遊びで関わってあげたり、子どもの微妙な心の変化を見守っていたり
するのを聞くとこの子はきっと大丈夫と思うのよ。
でも、このまま放っておいてもいいでしょうか?という質問が、
もしわたしが大丈夫と答えたら、その子がお母さんから注目され、一緒に何かを楽しみ、
どんなことにどんな感情を抱いて生活しているのか、には無関心なまま、
ただ子どもに変わってほしい、期待にそってほしい、理想像に近づいて欲しいという
望みを突きつけるんじゃないかって感じる時、先のことが不安になる。
子どもの構ってもらいたいちょっかいは、
危険なものはきちんと叱らなきゃいけないわ。
でもそれだけじゃない。
いろんな子が幼い頃からだんだん育っていく姿を見ていると、
ちょっかいの先に、構ってもらいたさが子どもと共に成長しようという
誰かの気持ちがある環境で満たされたか、
子どもが変じゃないか、外から悪い評価を受けないかチェックする行為だけが
続いていったかによって、子どもの未来は違っていくんじゃないかと感じるわ」。