以前書いた、8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」かという記事に、コメントをいただきました。
実はこの記事、教室にいらした親御さん方から、「どういう意味かよくわかりませんでした」という感想を寄せられていたので、「伝わりにくい書き方になっているのかな」と思いつつも、息子との会話をそのままの形で残しておきたかったのでそのまま放置していたものなのです。
そんないわくつきの記事にていねいなコメントをいただいたのがうれしくて、後でまた読み返せるように記事としてアップさせてもらうことにしました。
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私は“責任をもって自分の人生をおくると大切なことが見えてくる”と実感していますが、逆に“責任をもって自分の人生を生きていない”とはどういう状態なのだろうと考えていました。
そして、ここのところ、責任をもって自分の人生を生きていないとは、どこか他人として生きていて、多数派を良とする考え方、集合体の一部であり、場の分割として生きている状態であると考えるようになりました。
少し前に河合先生の本を読んだことをきっかけに、日本はリーダーに力を持たさないで場を大事にするなど、突出したものを良とせず、暗黙の了解で多数派が占める考えを優先し、討論(争い)を嫌う民主主義タイプ、対して欧米はリーダーが全体を牽引するけれども、その過程で突出した個の意見があがってきたら討論する民主主義タイプという構図を意識するようになりました。
欧米での考えは実際のところわからないのですが、少なくとも今の日本の子育ては、子育てをめぐる場の雰囲気に自分の子育ての方向性をゆだねてしまって、自分の考えをないものにしているということに気がつきました。
そんなことを考えていると、以前先生が書かれた、息子さんとポケモンゲームと民主主義についての対話の記事を思い出しました。
「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。
ゲームにしても、投票制にしたとたん、個人個人が自分で思考して進めようとするのではなく、全体の流れに乗って、合わせていくことに慣れてきて、自分の発想で問題を解決したり、別の視点から考えてみようとしたりしなくなるから。
政治でも今のシステム方の中で、個人個人が自分の意見をどう扱うか、どう向き合うか、どう責任を持つか、捉えなおす必要があるんだろうな」
「多数決が暗に力を持ち出すと、創造的ないい意見が埋もれていることもよくある。
でも、本当にそれが問題なのは、自分の意見と自分が同調している多数派の意見との境目が薄れるにつれて、自分の精神が本来持っている可能性とかが、力がないもののように感じられることじゃないかな。
ゼロから何かを作り出すことなんかできない、個人の精神から何か生まれてくるなんてありえない、なんてスタインベックの人間観とは真逆の思考に陥るってことだけど」
つまり、多数派が正解であり、自分の意見には力を感じない現在の社会に身をおくと、“責任をもって自分の人生を生きていない”につながりやすいのだろうなと気がつきました。
気がつくのは簡単でも、抜け出すのが難しい。
子どもの将来の問題、自分自身の仕事、老後の暮らし、経済的なものも含めて将来のことを考えると、先が見えなくて、すっきりしない不安感がある。
どうにかなるよと超越しきれずなにか軸となるものが欲しくて、大多数に合流したり目の前にある強力なメソッドにすがりたくなる。私自身を見つめるとよくわかります。私の中にそういう自分がいますから。
(少し違うかもしれませんが、子どもが難題を目の前にして、くじけそうになるときも、きっと同じようにざわざわしているのでしょうね。)
でも私はそういう自分も抱えつつ、生きていくしかないだろうと考えています。
要所要所でバランスを取りつつ、本当の自分をみつけるしかないと考えています。
それが自分に責任をもった生き方なのだと考えています。
また、個々が創造的な意見を持つようになるよいきっかけはないだろうかと考えました。
先生は「トーク・トーク カニグズバーグ講演集」を引用されていましたが、私の今のところの考えは、“本に限らず、魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い(柳田邦男さん?の言葉)が、
潜在的にもっている個々の考えを解き放ち、創造的な生き方につながるのではないか“というものです。
最近、河合先生や柳田邦男さんの本を読むことがありました。その中で、私自身、心が震えたり、身体の中に奥行きを感じる体験をしました。
すると、本の内容とは直接関係ないことで、私の中の創造性が動き出しているのを感じたのです。
私は本を読むことが創造性につながることが多いのですが、誰もがそのような何かを持っていて、きっと子供の頃夢中になった損得を考えないような一次体験をすることが、個々の創造性を自由にして、自分が求める自分を生きることにつながるのではないかと考えました。
少し話しが変わりますが、「人間は創造力をもった唯一の種である。
(略)
音楽においても、芸術においても、詩においても、数学においても、哲学においても、有効な協力というものはない。ひとたび創造の奇跡が起これば、集団はこれを組織だて、拡大することはできるが、集団が何かを創造することは決してない。
尊いのは個々の人間の独自の精神である」
とスタインベックの引用がありました。
ここでいう創造力とは少し違うかもしれませんが、自分を生きている人たちの集合体の中では、対話がうまれ、集団による創造がおこることもあるのではないでしょうか。
息子さんが “奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値”とおっしゃっていましたが、集団の中で奇跡的な絆がうまれたとき、集団の創造も不可能でないと考えました。
きっと複数で絵本を創作するときや、音楽活動の場では、集団での有効な協力による創造の奇跡が起こっているのではと考えました。
最近私自身言葉を口にしたり、文字にしたりするときに、立体的なものにして伝えようとしていると感じることがあります。
また子ども達を中心とした集団の中で絆がうまれている場では、原因と結果など平面的な伝言とは違う、もっと奥行きのある、私たちそれぞれの生き方考え方や、自覚していないもっと多くのものも乗せて、立体的に伝えることができるのではないかと考えています。
実際に人類の進化の過程、文化の伝承や科学の進歩などの現場では、現世代までの集団における創造の連鎖を次世代の創造につなげているのだと考えています。
ですからある意味私も集合体の中での創造の現場にいるといえるのではないかと考えています。
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<8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か>の記事も下に紹介しておきます。
8万人が同時に「ポケモン」をプレー?配信サイトで大実験……とCNNニュースでも取り上げられているゲーム映像配信サイト『ツウィッチ』の実験が数日前からおこなわれています。
ゲームボーイ用ソフトのポケモンを「社会実験」と称して改造した人がいるらしい。
主人公のレッドをチャット欄にコマンドを書きこむと動かせるようになっています。
レッドは、参加者が増えるにつれ、動きが取れなくなっていました。
その混乱ぶりを見た作成者が、75%の賛同を得たら、現状通りのコマンドが反映される「無政府状態」モードか「民主主義」モードに切り替えることができる、という修正を加えたのだとか。
その話題を耳にして以来、わたしもこの「ポケモン」ゲームの行方が気になりだして、朝、息子と顔を合わせる度に、「ポケモン、どうなってる?クリアできそう?」とたずねるようになっていました。
この実験が始まった当初から、日に数回、このサイトに加えて、この話題で盛り上がっている海外と日本の掲示板の両方をチェックしている息子が、「まだまだ、クリアするのは無理かもな」と答えてから、こんなことをつけ加えました。
息子 「無政府状態が行き詰ってにっちもさっちも行かなくなると、大勢が民主主義に傾くんだけど、少しするとそれが窮屈になってまた無政府状態に戻るのを繰り返しているからね。
これ、海外でプレーしているからこんな流れになっているけど、プレイヤーのほとんどが日本人だったら、「無政府状態」か「民主主義」かモードが選べるようになった時点で、デモクラシー派がずっとゲームを引っぱってくことになって、あっという間にクリアーしてしまうんじゃないかな?
掲示板見ていても、ほんとに、日本人というか、アジア圏の人は真面目だな。
どっちがいいか正しいかってのは抜きにして……
つまり、ぼくは無政府状態がいいとはちっとも思っていないわけだけど……それでも、日本の掲示板で誰もかれもが一致団結して、「民主主義」モードに切り替えて、より短い時間でクリアすることだけを当然視する様子を見て、
多数決の状態で、より早くクリアすることを目指すんだったら、一人でプレイするのとどう違うのか、疑問を感じたよ」
わたし 「そうよね。多数決で進むゲームなんて、少しも面白くないわね。
プレイするにしても、見るにしても」
息子「そうなんだ。より効率的にクリアーすることだけを最高善としてしまうと、何万人もの人がプレイすることの意味が見失われそうでさ。
日本の掲示板では、誰も少数派を安易に切り落とすデメリットを口にしないし、投票制で多数決することに慣れすぎて、デメリットがあることすら忘れているようでもあるよ。
そういえば、中学の時、こんなことがあったんだ。
K先生が体育館クラス全員で一斉に手を打たせてから、初めてみんなの心がひとつになったと言ったんだ。
自分は、初めてこの「パン!」を聞いたときに心の底から感動した……とも。
でも、ぼくは、それは無理矢理に強制されたから指示に従っただけで、みんなの心が一つになったという表現はちょっと違うな、と感じたんだ。
何万ものがプレーしている状態で無政府状態を続けると、大多数が正しく効率的にゲームが進行することを望んでいても、自分勝手に振舞う人や他人の意見を聞かない人がめちゃくちゃにしてしまうのは事実だよ。
でも、この実験が、どんなにひどいことが起きても裁かれないような状況でも、奇跡的にうまくいくことがあるってことも示しているんだ。
結果として同じでも、そんな風に個人個人が自由意志のもとで行動した上で先に進むのと、1人の指示……それが多数決という指示だったとしても、それに従って、先に進むのでは、ずいぶんちがうんじゃないかな」
息子 「実際に完全に多数決派に主導権を譲らない限り、ゲームに決着がつくのかすら怪しいんだから、日本の掲示板の意見は正しいといえば正しいんだろう。
海外のゲームの進行具合は無茶苦茶といえばその通りだしね。
ぼくも、どっちがいいって思ってるわけじゃないんだ。
ただ、今までツウィッチで起こってきたことを見て、絶対絶命のピンチに直面したときの、向こうの人の切りかえの早さというか、柔軟性にはびっくりしたよ。
日本人が同じ実験をしていたらもっと早くクリアしていたかもしれないけど、ここで行き詰ってしまったら投げ出してしまうだろうなって場面があるんだけどね。
みんなが自由意志で自分勝手にプレイしながらも、そうした緊急事態にやたら強いというか、何とか持ちこたえていくところがすごいと思ってさ。
これまでも、みんなで同時にポケモンゲームをするのと同じようなことを、日本でも真似ようとしたことはよくあったんだけど、いつも盛り上がりに欠けて、失敗していたんだ。
それって、やっていることの根本にあることを理解しないで、形だけを真似ようとしてきたからかな、って感じたよ。
今回の実験で言うなら、ゲームだからより短時間にクリアするという唯一の正解とそれ以外の不正解という捉えではない。
どうして何万人なのか、このゲームにどんな意義があるのかも考えてみるということだけど」
わたし 「何万人もの人が同時にプレイするとなると、もし、最終的にクリアできなかったとしても、クリアできない状態が長引けば長引くほど、ある意味、シュミレーションの結果としては面白いわね。
何万人もの人が、一人ですればすぐにクリアできるようなゲームに多くの時間を浪費するとしたら、その価値は確かに短時間にゲームを終えることではなく、良いことも悪いことも含めた、ゲームのプロセスで起こったことのはず」
息子 「そうだよ。といっても、事件がたくさんあるほどいい、大勢でやるから上手くいかないほうが盛り上がるってことじゃないんだ。
統率が取れたり、取れなかったりして先が見えない状態が続けば、不満が出てくるのは当然だよ。
そうしたストレス下にあるときや、それを奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値といえるのかも。
これがゲームであるからには、多数決状態に固定されたまま心を一つにしていると錯角して意識通り進んでいても、不満はあるはずだしね」
わたし 「民主主義は大事だけど、多数派が必ずしも正しいわけじゃないし、たとえ多数派の意見の方が本当に正しかったとしても、小数派の意見をないもののように切り捨てていいわけじゃないわ。
そういうこと、親子間でもよくあると思うのよ。
特に相手が幼い子の場合には。
大人と子どもは多数派と少数派のような力関係ができてしまうから、そこで優位にある大人側が正しさを振りかざして、まるで子どもに自由な意志などないかのように扱ってしまうこともある」
息子 「ゲームを早くクリアしたい気持ちと同じように、何歳までに何ができて、何歳までに何ができるか、ということだけを正解と思ってしまうと、そうなるのかな」
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