虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「天才」についてのイメージ

2010-02-10 09:32:00 | はじめに
天才や偉人について知ることや学ぶことは、
わが子や多くの子どもたちを「天才」に作り上げようと
願うこととはずいぶんちがいます。

天才という言葉に過剰反応する人というのは、
天才と呼ばれた過去の人物の型破りな生き方や、
天才であっても多くの欠点を抱えたひとりの人であった事実を、
勝手に自分のイメージで脚色しているように感じます。

キュリー夫人やヘレンケラーやライト兄弟の一生などを
自分の人生に重ねて、その簡単にあきらめないねばり強さや
どんな境遇でも学び続ける強さなどは無視して、

天才と言われる人が何したこれした~と自分より
下だと思って安心できるゴシップ的な話題ばかり集めてきて、
天才は~~と愚痴ばかりこぼすのをよく聞きますから。

天才とは、ひとつのことを伸ばすために、他の価値観を捨てていく生き方だという捉え方は、
オリンピックなどの世界で「人工的に天才を作ろう」と無理する場合に
親のエゴが生む考えを指していて、
実際の「天才」という言葉とは線引きしなくてはならないものだと思います。

私はこれまで「天才」とたたえられた人々は、『自分の境遇』

つまり能力、強み、環境などの『自分がもっているもの』を、
自分の力で(親に作ってもらうのでなく)
最大限に生かそうとし続けることができた人なのだと思っています。

例えば、みんなが良い大学を目指すことを教育の目標にしたとすると、
頭脳活動に向いた遺伝子を受け継いだ子や
コツコツがんばる学習欲を強みとする子が有利ですよね。
おまけに経済的にめぐまれていて、
他より早くから競争をはじめ、他の子よりたくさん学習し、
他の子より寄り道せず、他の子より学習だけに専念し、より有利な受験アドバイスをもらい、それに逆らわず、スムーズに受験をし終えればそれは可能なのでしょう。

でも、現実には、努力家なんだけど、考えるのが苦手とか、
頭はいいんだけど、コツコツすることができないとか、
能力は申し分ないけど経済的に恵まれないとか……だれもが
完璧な境遇ではないわけです。

そこで、途中までは、がんばったけど、勝ち組になれないから、
もういいや~って、自分を高めることも、勉強することも、
放り投げてしまうか、

それでも自分の境遇の中でベストをつくしていくか、

に分かれると思います。

これまで天才と呼ばれてきた人は、どんな境遇でも、自分の手札が最悪でも、
自分を見捨てず、あきらめず、育て続けた人です。
ヘレンケラーなんて三重苦です。
それでも自分の可能性を追求し続けたところがすばらしいのだと思います。

一般の人だと、ちょっと他より記憶力が悪いとか、
ちょっと小学校の学習でみんなより出遅れたとかで、自分をあきらめてしまいがちです。
でも天才として名を残した人は、
欠点を抱えたまま、自分の強みを追い続ける強さを持っていたのでしょう。

そうしてその人にスポットライトがあたったとき、
「天才って、ひとつの能力だけ伸ばすために、弱点を克服することを犠牲にしてきた人でしょう?」と簡単に結論づけてしまいがちです。
でも、実際には、もともとハンディキャップを持っていて、それにもかかわらず、自分を精一杯生かしてきた~
けれども、やっぱりハンディーはハンディーとして
成功しても残っている
そうしたナチュラルな人なのだろうと感じています。

だいたい、秀才を育てるとか、英才を育てるとか、天才を育てるとか、
まるで、ロボットの人工知能を操作するように
大人が子どもを自分の思う何かに作り上げようとすること自体に
疑問があるのです。

天才の話にしても、生きた先輩たちの道から、
大人も子どもも気づきや感動を得るなら良いのですが、
それを勝手にメソッドにして、「天才作り」を目指しちゃうと
間違った方向に行ってしまうのでしょうね~

以前書いた過去記事です。良かったら、読んでくださいね。

☆「天才」という言葉♪ 1
☆「天才」という言葉♪ 2

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どうして子どもたちの学習意欲がどんどん落ちていくのでしょう?

2010-02-10 08:26:41 | 教育論 読者の方からのQ&A
春休みの算数教室、これまでにコメントへの書き込み(申し込み)をしてくださった方と、以前から春休みのレッスンのお約束をしていた方で、
募集枠が埋まってしまいました。まだ募集も呼びかけていないのに、募集を終了してしまってすいません。
くわしい算数クラブの日時は、明日にでも書かせていただきます。


『アインシュタイン・ファクター』の内容について、もう少し紹介させてくださいね。
私たちの意識的な思考は、脳の自己表現活動を司る構造から生まれてきます。

そこには、話す脳の力を与えてくれる言語中枢、

読んだり他人の言うことを理解する脳の力を与えてくれるウェルニッケ中枢、

文字や絵をかく、スケッチする、踊るといった表現機能が扱われているサプリメンタル・モーター・エリアという部分があります。

脳は、心の中で湧き上がる印象から知覚を引き出し、認識しやすいように具体的な形を与えてくれます。
かつて、その『流れ』は、自然に外に向けられていました。

しかし残念なことに、近代学校教育の99パーセントは、
情報を脳の中に詰め込もうとしています。
こうしたことが続いていけば結果的に、脳内ににぶい渋滞がおこり、知覚力や学ぶ力を次第に失っていくはめに陥ってしまうのです。

現代のように、たくさんの子どもに一度に教育しなくてはならない必要から生まれた教育でなく、
『人に良い教育をする』という目的の中で生まれた古代の教育、
ソクラテス・メソッドは、人口十万人足らずの小さな都市、
古代アテネの人々に偉大な芸術や学問を生み出させました。

そうした大きな成功を生んだ教育者の仕事は、

生徒自身がもっている微妙な知覚や洞察力を引き出すこと

でした。
先生が鋭い質問をいくつか生徒に投げかけ、彼らに自分の近くとアイデアを試し、弁護し、説明するよう仕向けます。
こうして生徒が自分の洞察力を養い、自分の言葉で表現するようにしたのです。
またその時代の教師は教えることを通して、観客から自分のアイデアや知覚に対する確信を得ていました。

現在の学校が、今のような教育のシステムをとっているには、
さまざまな利点もあるのでしょうし、多人数に効率的に教えていくには、
妥協しなくてはならない部分もあるのでしょう。

しかし、家庭教育や、脳が作られていく時期の幼児教育までが、

学校教育を模した『インプット』を中心としたものでいいのでしょうか?

☆『アインシュタインファクター』と、子どもの感受性と天才の関係

の記事で紹介した『自我境界線』は、
子どもにトレーニングをさせるほど厚くなるそうです。
つまり幼児期に大人が子どもに、
「~してはいけません」「これはこういうものです」と言うほど、知的で感情豊かで五感からたくさんの刺激を受け取りたいと感じている幼児の脳を、
不自由にしてしまうのです。

だからといって気ままにさせて、しつけなくていいというわけではありません。

ポイントは、

想像力の発達を抑えるほどには境界線を厚くしないで、
社会教育や勉強を教えること

なのだそうです。
要は、バランスですね。

この『想像力の発達を抑えるほどには境界線を厚くしないで、
社会教育や勉強を教えること』は、
虹色教室でも、ずっと目指してきたことです。





大人は、あれこれ子どもに注意を与えるうちに、
自分が口うるさく言い過ぎているために、子どもが大人の言葉を真剣に聞かず、子どもの脳が大人の指示を無視するようになっていても、
「注意していること」に満足しがちです。
ひとつひとつの子どもからのフィードバックについて
きちんと観察せずに、
習慣で動いているのです。

『アインシュタイン・ファクター』の中には、
人のもつ自己表現を他人の言うことを聞く方向に効果的にもっていく
『フリー・ノーティング』という方法が紹介されています。
興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。

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