全く以て意味不明…。
「ビッグ・フェラー」の更に上を行く意味不明さでした。
っていうか、この作品、もっと小さな劇場、それこそ、行ったことないけどベニサン・ピットでやるような作品じゃないの?それをドラマシティよりも遥かに大きい日生劇場でやった意味が分からない。ドラマシティですら大きいって思ったよ。
でも、美術は非常に良かった!まさしく、大好きなTPTワールドでした。
本当は今日は、午後から過去の正当化第一段を実行する予定だったんですが、今回は、せっかくのデヴィッド・ルヴォーの作品の大阪上演だから見逃したくないと思ってこちらを優先しました。。
ぶっちゃけ書くと、こんな内容なら、イキウメの「関数ドミノ」にすれば良かったと後悔してます。←すみません、書きすぎましたm(__)mまんざら、わたくしの解釈間違ってなかったようなので、今はもう後悔はしてません。
を前提で感じたことを書きます。内容は全く分かってませんので悪しからず…。
なんかね、まるで夢遊病者のように、自分(舞台の登場人物個々)で自分を見ているような会話が摩訶不思議でした。まるで、幽霊を相手に会話をしているような関係でもあり、相手が自分で、自分がまた他の一人であるかのようなトライアングルな関係で、余計意味不明。何が本当で何が嘘かわからない記憶の曖昧さがあった…かな…?
私自身がそうなんだけど、自分の過去のブログを読むと、数年前になったら何を書いているのか自分でも分からなくなってることがある。
書いている時は誤字脱字がないか何度も読み返しているから、その時は自分でもちゃんと自分が云わんとすることは分かっているはずなのに、数年後にはもう分からない。曖昧に書いた文章なんて尚更分からない。
自分自身の記憶ですら曖昧になるんだから、他人の言動に対する記憶なんて更に曖昧になるはず。あの時○○言ったor言わなかったで、喧嘩にはならなくても、言い合うことはあると思うんよね。
自分ではちゃんと記憶に留めていると自信があっても、あやふやになっていることは多々ある。自分にとっては大事なことでも、他人にとってはどうでもよかったら、尚更忘れられてしまう。ま、忘れられて有難いこともあるけどね。
過去の記憶が曖昧になるということは、同時に、過去の出来事なら証拠がなければ嘘も本当になることもあり得る。何が真実かなんて時の経過と共にあやふやになる。
って考えると、今回のルヴォーの演出は、美術プランや音響のイメージから、テレビ画面で観た東北の震災の津波の映像が一瞬脳裏をよぎった。
台詞ではさざ波って言っていたけど、音響効果はそんな可愛らしい波の音ではなかった。津波のような怒涛の音。恐ろしさを感じた。
美術はとてもスタイリッシュで綺麗なんだけど、背景の殺風景な暖炉や机、木が震災後の瓦礫の山を余計イメージさせる。
ルヴォーの意図は全く分からないけど、なんか、日本人に対する売り言葉的なものを感じた。震災でまだまだ大変な人がいるのに、お前たちは平和に暮していていいよね…みたいな。過去が完全に過去になってしまい、次第に記憶から抹消されるんだよ…みたいな忠告やそんな現実を突き付けられたような感じがした。
演技的にも、突然怒ったり、泣いたり、役者さんの中では何かを感じての演技だったとは思うけど、その涙や怒りの理由が全く分からない。
本当、ドラマシティで観るような、ましてや日生劇場で観る作品じゃない。
小劇場の小さな空間で繰り広げられるべき演出プランを日生劇場でやったのか不思議でならない。オペラグラスがなくてもいい空間で上演すべき作品だったと思う。劇場選びの意図が全く読めない。
演技に関しては、もうさ、若村麻由美さんが、とんちゃんに見えて仕方なかった。それくらい演技パターンがそっくりで驚いた。突然涙声で喋ったり、不思議な人だった。
麻実さんもめちゃ怪しい存在で、麻由美さんの役でもあり、またそうでないような存在感。この役も意味不明だった。
麻由美さんの役の夫役の堀部圭亮さんも、他人の男に焼きもち焼いているようで、実はその男は自分だったかのような意味不明な役柄でした。突然妻を揶揄するような発言も意味不明だった。
ご三名とも演技が上手いとか下手とか言い表わせないくらい意味不明な役柄だったから本当にちんぷんかんぷんでした。ほんと謎だらけだった。
今日のまとめ:意味不明な舞台だったけど、TPTの世界観は好き。もっと小さな劇場で観たかった。
「ビッグ・フェラー」の更に上を行く意味不明さでした。
っていうか、この作品、もっと小さな劇場、それこそ、行ったことないけどベニサン・ピットでやるような作品じゃないの?それをドラマシティよりも遥かに大きい日生劇場でやった意味が分からない。ドラマシティですら大きいって思ったよ。
でも、美術は非常に良かった!まさしく、大好きなTPTワールドでした。
本当は今日は、午後から過去の正当化第一段を実行する予定だったんですが、今回は、せっかくのデヴィッド・ルヴォーの作品の大阪上演だから見逃したくないと思ってこちらを優先しました。。
ぶっちゃけ書くと、こんな内容なら、イキウメの「関数ドミノ」にすれば良かったと後悔してます。←すみません、書きすぎましたm(__)mまんざら、わたくしの解釈間違ってなかったようなので、今はもう後悔はしてません。
を前提で感じたことを書きます。内容は全く分かってませんので悪しからず…。
なんかね、まるで夢遊病者のように、自分(舞台の登場人物個々)で自分を見ているような会話が摩訶不思議でした。まるで、幽霊を相手に会話をしているような関係でもあり、相手が自分で、自分がまた他の一人であるかのようなトライアングルな関係で、余計意味不明。何が本当で何が嘘かわからない記憶の曖昧さがあった…かな…?
私自身がそうなんだけど、自分の過去のブログを読むと、数年前になったら何を書いているのか自分でも分からなくなってることがある。
書いている時は誤字脱字がないか何度も読み返しているから、その時は自分でもちゃんと自分が云わんとすることは分かっているはずなのに、数年後にはもう分からない。曖昧に書いた文章なんて尚更分からない。
自分自身の記憶ですら曖昧になるんだから、他人の言動に対する記憶なんて更に曖昧になるはず。あの時○○言ったor言わなかったで、喧嘩にはならなくても、言い合うことはあると思うんよね。
自分ではちゃんと記憶に留めていると自信があっても、あやふやになっていることは多々ある。自分にとっては大事なことでも、他人にとってはどうでもよかったら、尚更忘れられてしまう。ま、忘れられて有難いこともあるけどね。
過去の記憶が曖昧になるということは、同時に、過去の出来事なら証拠がなければ嘘も本当になることもあり得る。何が真実かなんて時の経過と共にあやふやになる。
って考えると、今回のルヴォーの演出は、美術プランや音響のイメージから、テレビ画面で観た東北の震災の津波の映像が一瞬脳裏をよぎった。
台詞ではさざ波って言っていたけど、音響効果はそんな可愛らしい波の音ではなかった。津波のような怒涛の音。恐ろしさを感じた。
美術はとてもスタイリッシュで綺麗なんだけど、背景の殺風景な暖炉や机、木が震災後の瓦礫の山を余計イメージさせる。
ルヴォーの意図は全く分からないけど、なんか、日本人に対する売り言葉的なものを感じた。震災でまだまだ大変な人がいるのに、お前たちは平和に暮していていいよね…みたいな。過去が完全に過去になってしまい、次第に記憶から抹消されるんだよ…みたいな忠告やそんな現実を突き付けられたような感じがした。
演技的にも、突然怒ったり、泣いたり、役者さんの中では何かを感じての演技だったとは思うけど、その涙や怒りの理由が全く分からない。
本当、ドラマシティで観るような、ましてや日生劇場で観る作品じゃない。
小劇場の小さな空間で繰り広げられるべき演出プランを日生劇場でやったのか不思議でならない。オペラグラスがなくてもいい空間で上演すべき作品だったと思う。劇場選びの意図が全く読めない。
演技に関しては、もうさ、若村麻由美さんが、とんちゃんに見えて仕方なかった。それくらい演技パターンがそっくりで驚いた。突然涙声で喋ったり、不思議な人だった。
麻実さんもめちゃ怪しい存在で、麻由美さんの役でもあり、またそうでないような存在感。この役も意味不明だった。
麻由美さんの役の夫役の堀部圭亮さんも、他人の男に焼きもち焼いているようで、実はその男は自分だったかのような意味不明な役柄でした。突然妻を揶揄するような発言も意味不明だった。
ご三名とも演技が上手いとか下手とか言い表わせないくらい意味不明な役柄だったから本当にちんぷんかんぷんでした。ほんと謎だらけだった。
今日のまとめ:意味不明な舞台だったけど、TPTの世界観は好き。もっと小さな劇場で観たかった。