グレタ・ガルボ版を観ました。DVDがめちゃ安かったので出会い買いしてしまいました。←めちゃ安い出会い(笑)
今更ですが…。実は、今まで本も映画も舞台も観たことも読んだこともなかったんですよ。ニコールの「ムーラン・ルージュ」が大好きと言いながら、元ネタを観たことがなかったという有様…。
ぶっちゃけ、私が思っていた主人公と違っていて、キャラ設定としては、「ムーラン・ルージュ」やミュージカル「マルグリット」の方が感情移入しやすく、ストーリー的にも緊迫感がありましたね。この「椿姫」は、もちろん泣ける要素は持っているけど、そのままの舞台だったら、正直退屈かも…と思った。
でも、観て良かったです。
この作品のキーワードは正しく“試練”。ピアフの人生にも似ていて、放蕩三昧で小我の象徴の主人公マルグリットが、アルマンに出会うことで大我の愛を学ぶという展開なんですよね。自業自得やん!と思わせつつも、試練を乗り越える勇気、死ぬ最期の最期まで守り続けた真の愛、アルマンの純粋な愛に感動しました。「ムーラン・ルージュ」や「マルグリット」にはないスピ要素が描かれてましたね。
美輪さん、この作品どう舞台化したんやろね…?中だるみしそうな展開が気になるとこですが…。観なかったことにちと後悔…。
現実の世界における死は、時にはリアルに残酷さを遺すけど、フィクションの世界における死は時には美しきものを残してくれますね。芸術というフィクションの世界にのみに許された美しきものですね。
ほんま「ミス・サイゴン」、あれアカンで!あそこまで生きたなら、どんな手を使ってでも最期まで生きられたやろ!? ふとキムの生き様を思い出してしまいましたm(__)m自殺より病気の方がまだ許せるわ!なんで自殺やねん!?ホンマ、ありえん脚本やわ!←しつこいm(__)m…元ネタの「蝶々夫人」が自殺したからってキムまで自殺させなくても良かったんじゃないの…?
って思うと、「ウエスト・サイド・ストーリー」は上手く脚色してたと思う。マリアを死なせないとこに凄く意味がある。マリアが生きることで人種差別は終わらないこととダブる。もしあそこでマリアに後追い自殺させたら、元ネタ「ロミジュリ」同様お涙頂戴で終わってしまう。現実問題から視点が逸れるからマリアは生かして正解だと思った。
今日のまとめ:美輪さんの「黒蜥蜴」楽しみ!戯曲読み直しました。また感想書きます。
追記:どうでもいい詩モドキが思いついたのでここに残しておきます。本当にどうでもいい詩です。
タイトル:屁理屈
この世でオリジナルは空気だけ。大地の母なる地球も他の惑星の一部分。海の水は空気中の酸素と水素が結合したもの。酸素がある惑星は他にはないから酸素や他の元素を含む空気だけがオリジナル。
あとのすべては皆何某のパクリ。太古の樹木も大地の恵みを養分とし、人間も、お父さんやお母さんの一部分をパクった姿。だから完全なるオリジナルの人間なんてこの世には存在しない。
皆誰かの何かの一部分。考え方も生き方も、たくさんの誰かから何かからパクった一部分。それらが蓄積され、または蓄積していき新たなアイデアが生まれる。決して完全にオリジナルな生き方や考え方なんてものはない。
皆誰かの何かの一部分。一人でなんて生きていけない。皆みんな、誰かの何かののパクリ人生。
あたかも一人で生きてきたかのような思い上がりな態度をとる輩ども。一人で生きていけるなら誰も苦労せんちゅうねん!でも、皆誰かの何かのパクリ人生だから、パクった分だけ苦労もいっぱいなのは当たり前。だって泥棒なんだも~ん。←お前はとんちゃんのおユキか!?m(__)m
でも、その苦労もまた誰かの何かのアイデアをパクれば楽になる。
だから人生は苦労と楽の繰り返し、回る回る苦労と楽の螺旋階段。まさに映画「リング」と「らせん」のようなもの。
結局何が言いたいのか…?
ただの屁理屈m(__)m
今更ですが…。実は、今まで本も映画も舞台も観たことも読んだこともなかったんですよ。ニコールの「ムーラン・ルージュ」が大好きと言いながら、元ネタを観たことがなかったという有様…。
ぶっちゃけ、私が思っていた主人公と違っていて、キャラ設定としては、「ムーラン・ルージュ」やミュージカル「マルグリット」の方が感情移入しやすく、ストーリー的にも緊迫感がありましたね。この「椿姫」は、もちろん泣ける要素は持っているけど、そのままの舞台だったら、正直退屈かも…と思った。
でも、観て良かったです。
この作品のキーワードは正しく“試練”。ピアフの人生にも似ていて、放蕩三昧で小我の象徴の主人公マルグリットが、アルマンに出会うことで大我の愛を学ぶという展開なんですよね。自業自得やん!と思わせつつも、試練を乗り越える勇気、死ぬ最期の最期まで守り続けた真の愛、アルマンの純粋な愛に感動しました。「ムーラン・ルージュ」や「マルグリット」にはないスピ要素が描かれてましたね。
美輪さん、この作品どう舞台化したんやろね…?中だるみしそうな展開が気になるとこですが…。観なかったことにちと後悔…。
現実の世界における死は、時にはリアルに残酷さを遺すけど、フィクションの世界における死は時には美しきものを残してくれますね。芸術というフィクションの世界にのみに許された美しきものですね。
ほんま「ミス・サイゴン」、あれアカンで!あそこまで生きたなら、どんな手を使ってでも最期まで生きられたやろ!? ふとキムの生き様を思い出してしまいましたm(__)m自殺より病気の方がまだ許せるわ!なんで自殺やねん!?ホンマ、ありえん脚本やわ!←しつこいm(__)m…元ネタの「蝶々夫人」が自殺したからってキムまで自殺させなくても良かったんじゃないの…?
って思うと、「ウエスト・サイド・ストーリー」は上手く脚色してたと思う。マリアを死なせないとこに凄く意味がある。マリアが生きることで人種差別は終わらないこととダブる。もしあそこでマリアに後追い自殺させたら、元ネタ「ロミジュリ」同様お涙頂戴で終わってしまう。現実問題から視点が逸れるからマリアは生かして正解だと思った。
今日のまとめ:美輪さんの「黒蜥蜴」楽しみ!戯曲読み直しました。また感想書きます。
追記:どうでもいい詩モドキが思いついたのでここに残しておきます。本当にどうでもいい詩です。
タイトル:屁理屈
この世でオリジナルは空気だけ。大地の母なる地球も他の惑星の一部分。海の水は空気中の酸素と水素が結合したもの。酸素がある惑星は他にはないから酸素や他の元素を含む空気だけがオリジナル。
あとのすべては皆何某のパクリ。太古の樹木も大地の恵みを養分とし、人間も、お父さんやお母さんの一部分をパクった姿。だから完全なるオリジナルの人間なんてこの世には存在しない。
皆誰かの何かの一部分。考え方も生き方も、たくさんの誰かから何かからパクった一部分。それらが蓄積され、または蓄積していき新たなアイデアが生まれる。決して完全にオリジナルな生き方や考え方なんてものはない。
皆誰かの何かの一部分。一人でなんて生きていけない。皆みんな、誰かの何かののパクリ人生。
あたかも一人で生きてきたかのような思い上がりな態度をとる輩ども。一人で生きていけるなら誰も苦労せんちゅうねん!でも、皆誰かの何かのパクリ人生だから、パクった分だけ苦労もいっぱいなのは当たり前。だって泥棒なんだも~ん。←お前はとんちゃんのおユキか!?m(__)m
でも、その苦労もまた誰かの何かのアイデアをパクれば楽になる。
だから人生は苦労と楽の繰り返し、回る回る苦労と楽の螺旋階段。まさに映画「リング」と「らせん」のようなもの。
結局何が言いたいのか…?
ただの屁理屈m(__)m