『居眠りは年寄りの自然』と題された黒井千次さんの小随筆を新聞で読んだ。最近の僕が「年寄りの特権」と呼んでいる”居眠り”についてさすが大作家、見事に表現されている。「食事をすれば眠くなり、テレビをつけては居心地の良いと自分が思う椅子の中で居眠りの世界へ…」と年寄りの日常が書かれている。特にこの頃のように不要不急の外出の自粛を云々されている時には、それを守って自粛中の僕の日常が覗き見されているようにすら感じさせる書き方である。
黒井氏は「80余年も生きてきたのだぞ——その間に心臓は不規則に打つ事はあっても、一度も止まった事はないのだぞ——疲れるのは仕方がないではないか」と叫んでいる。だから居眠りは自然で、生きていることの表現なのだと。居眠りの背後には通り過ぎた目には見えない個人の膨大な年月や出来事など他人には分からない背景が隠されているのである。僕もまた若かりし頃のさまざまなぼくの冒険の夢を見ながらしばしウトウトと居眠りを貪るのである。
さて、年寄りとは違って小中高校生のストレスは飛び跳ねて活動できないことに起因している種のものだ。彼らは昼寝などしている暇はない。とにかく身体を動かしていたいのだ。テレビのニュースを見ているとなんとも諦めに近い感情を抱くほどこの自粛要請を無視しているのは特に高校生以上の若者だ。不要不急の外出自粛などどこ吹く風、「街を見てみたかった」、「気にはしていたがやっぱり友達と会いたかった」、「ストレスを発散したかった」、などとインタビューに答えているのである。不要不急の意味が全く理解できていないのだ。この種の人達には「少しの間辛抱してくれないかな」、「我慢の連続が人生と言えるかもしれないのだよ」、と語りかけてみたいと思う。Please be patient for a while! (しばらくの間、辛抱してくれないかな)。本当は自粛を叫ばれている時にこそできることがあるのだ。若者に昼寝をしろというのではない。黒井氏や僕がしているように昼寝に若かりし頃を想うように、これから先の自分の姿を考える重要な時であることを認識してほしいなと思うのである。
黒井氏は「80余年も生きてきたのだぞ——その間に心臓は不規則に打つ事はあっても、一度も止まった事はないのだぞ——疲れるのは仕方がないではないか」と叫んでいる。だから居眠りは自然で、生きていることの表現なのだと。居眠りの背後には通り過ぎた目には見えない個人の膨大な年月や出来事など他人には分からない背景が隠されているのである。僕もまた若かりし頃のさまざまなぼくの冒険の夢を見ながらしばしウトウトと居眠りを貪るのである。
さて、年寄りとは違って小中高校生のストレスは飛び跳ねて活動できないことに起因している種のものだ。彼らは昼寝などしている暇はない。とにかく身体を動かしていたいのだ。テレビのニュースを見ているとなんとも諦めに近い感情を抱くほどこの自粛要請を無視しているのは特に高校生以上の若者だ。不要不急の外出自粛などどこ吹く風、「街を見てみたかった」、「気にはしていたがやっぱり友達と会いたかった」、「ストレスを発散したかった」、などとインタビューに答えているのである。不要不急の意味が全く理解できていないのだ。この種の人達には「少しの間辛抱してくれないかな」、「我慢の連続が人生と言えるかもしれないのだよ」、と語りかけてみたいと思う。Please be patient for a while! (しばらくの間、辛抱してくれないかな)。本当は自粛を叫ばれている時にこそできることがあるのだ。若者に昼寝をしろというのではない。黒井氏や僕がしているように昼寝に若かりし頃を想うように、これから先の自分の姿を考える重要な時であることを認識してほしいなと思うのである。
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