お寺の仏具といえば木魚、そして‘ケイス’と呼ばれる木魚大の鐘。漢字の‘殸’の下に‘金’と書き、子とあわせてケイスと読むらしい。家庭に仏壇のある人はご存知と思うが、お鈴(リン)と呼ばれるあのチーンと鳴らす道具のでかい版をそのように呼ぶらしい。
土曜日の街歩きになぜか四天王寺周辺を選んだ。あの聖徳太子の四天王寺の五重の塔は今改修工事の真っただ中だ。それでも一般に開放されていて足をふみ入れた。大きなケイスが置かれていて、参拝される人は「コン、コーン」とこれを打ってお祈りの合図をする。僕は割とこの音が好きで、線香の匂いと共になぜか手を合わせたくなる。何も特別な祈りをすることはないが、手を合わせるだけでホッとする安心感を覚える。
次々と人が訪れて、このケイスを打って手を合わせ,次は隣の金堂の読経の中でまた手を合わす。われわれはみんな迷いながら生きているんだとつくづく思う。必死になって生きている証拠がこの手を合わす行為の中に秘められていると思っている。忙しさに忙殺されて暮らす日々の中で、“忙”(リッシン偏は「心」、「亡」は無くす)だから心を無くす毎日にふと現実をはなれる“無”の一瞬は大切だ。
お寺にはやはり年配の人が多くて、神社には若い人も良く足を踏み入れているという。単に年齢の違いで寺社に足を向ける人を分けるつもりはないが、どこかで手を合わせたくなるのが人間だと思う。僕は特に宗教的に生きているわけではないが、寺社で手を合わせる度に思い出す好きな英語の格言がある。
Everybody for himself and God/Buddha for us all.
(人は皆自分のために、神や仏はみんなのために)