雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

髭彦閑話23―浅い現実主義と深い理想主義

2010-06-08 15:19:29 | 髭彦閑話

鶴見俊輔が『思い出袋』(岩波新書)の中で、かつて白樺派を「理想主義」と書くべきところを「観念論」と書いて、花田清輝から批判されたことを記している。
太平洋戦争の開戦前後、15歳から19歳までをアメリカで暮らした鶴見には、idealismを日本語でどう言うかがわからなかったのだ。
日本の哲学用語では、「現実主義」と対になる「理想主義」と「唯物論」と対になる「観念論」を区別していたのだが、そういう議論をする年代に鶴見は日本を留守にしていた。
そこで、手持ちの哲学小辞典をひき、つい「観念論」としてしまったのだという。

それから半世紀以上経ってマルクス主義の権威が地に堕ちた現在、日本に住み続けている大多数の人々にとって、もはや「唯物論」と対になるその「観念論」という用語もほぼ死語と化してしまった感がある。
それに比して、「現実主義」と対になる「理想主義」のほうは、「現実」と対になる「理想」とともに、辛うじて今も現役である。
ただし、白樺派の大正デモクラシー期や戦後民主主義のある時期までとは正反対に、現代の日本においては「理想」も「理想主義」も用いられるとしてもせいぜい冷笑的にしか用いられない。
その意味では、「理想」も「理想主義」も半ば死語に近い。

そう考えれば、自民党のタカ派や右翼的評論家などから冷笑され、罵倒されながらも、鳩山前首相が「理想」をしばしば口にしていたのはまさに異色である。
先日辞職を表明した民主党の両院議員総会でも、自分の「理想」の正しかったこと、しかし「現実」はその「理想」をすぐに実現するには余りにきびしかったこと、それでも自分は将来の「理想」実現に向け精一杯の努力を傾けた貴重な一歩を踏み出したこと、にもかかわらず国民がそれに「傾ける耳をもたなくなった」ことなどを、縷々演説したのはまだ耳に新しい。

僕はこの演説を聞き、その後菅に首相が代るのを見て、次のような歌を詠んだ。
 ―<鳩山から菅へ首相の代る。茶番にあらずや>
 「聞く耳をもたぬ」の主語が国民とのたまひ去りし首相ありけり
 理想にも空しきものとパワフルな二つがあるを首相知らざる
 依存から自主への理想空しかり武力を基に語るかぎりは
 列島を武力によらず守る道求めぬかぎり平和来らず
 ガンジーやキングのごとき政治家の出でよせめても湛山ほどの
                          (100604日々歌ふ)

そこで言いたかった本意を補うために、6年前に書いていまだ発表していない「歴史・平和教育の試練と向き合う―若い世代にバトンをわたすために―」という拙文の一部を、かなりの長文ではあるが以下に載せておきたい。
なお、全体の章立ては以下の通りである。

 はじめに
 1.高校三年生の「最後の授業」で
 2.東大闘争の経験を問い直す
 3.「暴露・告発型」授業の反省
 4.オルタナティブ=もうひとつの選択肢の視点
 5.子どもたちの内面的危機と歴史・平和教育
 6.非暴力による平和
 おわりに


                       *

4.オルタナティブ=もうひとつの選択肢の視点

  <「もうひとつの近代日本」像の掘り起こしと教材化>

 「暴露・告発型」授業についての反省から僕がたどり着いたのは、加害の事実と共に脱亜入欧的でない「もうひとつの日本」を教材化することでした。
 明治以降の日本が第二次大戦まで、欧米帝国主義に最初は追随し、後にはそれと争って、アジアやミクロネシアなどに対する侵略戦争と植民地支配をくり返してきたことは、残念ながら事実です。その明白な事実を否定するのは無知か、願望か、そうでなければ意図的なデマゴギーです。
 日本人ならば自国のそうした負の歴史を否定するのが当然ではないか、などという議論があります。しかし、そうした議論が通用するのは、日本(人)の中だけでしょう。もしそれが「常識」だというならば、それこそ「日本の常識は世界の非常識」・「アジアの非常識」と言わなければなりません。(ちなみに、憲法第九条の平和主義はたしかにまだ世界の常識にはなっていませんが、「世界の非常識」なのではありません。世界の常識を超えているだけです)
 だからといって、明治以降の日本人すべてが侵略戦争と植民地支配を肯定し、欧米にだけ目を向けてアジアの人々を無視・侮蔑してきたわけでもありません。
 日本のある種の政治家たちは事あるごとに「アジアの非常識」ぶりを発揮して、侵略戦争と植民地支配を肯定する「妄言」をくり返しています。彼らはいわば確信犯です。そのたびに、韓国や中国の人々の怒りが爆発します。憤激の余り、日本(人)が全歴史を通じて本質的に侵略的であり、好戦性・侵略性こそが日本の国民性であるかのような批判も巻き起こります。
 近年の交流の積み重ねによって、さすがに知識人の中ではそうした批判の仕方は克服されつつあります。しかし、挑発的な「妄言」が執拗にくり返されるかぎりは、韓国や中国の一般の人々がこうした日本(人)批判を抱くことは避けられないでしょう。しかも、良し悪しは別として、それによって彼らのナショナル・アイデンティティは強まりこそすれ、揺らぐことはないのです。
 しかし、日本の子どもたちにとってはそうではありません。もし日本(人)が全歴史を通じて本質的に好戦的、侵略的であるとしか思えなかったら、子どもたちが悲しくなったり、反発して居直ったりするのも当然です。まさにそれは、彼らのナショナル・アイデンティティに関わる切実な問題だからです。しかも、考えてみればそれは僕自身の切実な問題でもあったのです。

  <柳宗悦との出会い>

 ちょうどそのころに柳宗悦の朝鮮に関わる思想と行動を知ったことが、僕にとっては大きなヒントと転機になりました。
 左翼の中ではいわゆる階級闘争史観に基づくきわめて図式的な歴史像がまだ残っていて、僕もその影響を受けていました。明治以降の歴史のすべてを、帝国主義的な天皇制国家権力とそれに抗する共産主義者を中核とする労働者・農民・知識人の闘争に収斂させ、共産主義者の思想と行動こそ明治初期の自由民権運動(左派)の革命的伝統を受け継ぐものとして描き出すような歴史像です。
 そうした見地からは、大正デモクラシーの評価は一般にかなり低いものでした。戦前の急進化した左翼から「吉野のデモ作」とバカにされたという吉野作造なども、ある時期までほとんど評価されませんでした。まして、戦後に保守の政治家になった石橋湛山などは評価の対象外でした。柳宗悦のような非政治的で自由主義的な一美学・宗教学者の思想と行動も、もちろん同様でした。
 僕が柳宗悦に出会ったのは、ちょうど戦後歴史学が階級闘争史を人民闘争史、民衆闘争史などに名称を変えながら、軌道修正を図っている時期でした。何人かの先駆的な研究者が、それまでの階級闘争史観ではすっぽり抜け落ちていた「もうひとつ」の日本があったことを、明らかにし始めていました。柳宗悦に限らず、僕が教材化した人物はそういう研究に負っていたのです。
 せいぜい民芸運動の指導者としか考えていなかった柳宗悦の実像を知って、僕は驚き興奮しました。柳は、無名の職人の手になる朝鮮の工芸品の美を発見して以来、朝鮮民族への深い敬愛の念を抱くようになりました。朝鮮を侮蔑の目でしか見ていなかった当時の日本では、それは稀有のことでした。日本の植民地支配の暴力と民族性抹殺の政策に、三〇歳になったばかりの柳がたった一人で挙げた凛とした抗議の声。そこに僕の知らなかった「もうひとつの日本」を発見して興奮したのです。また、それを知ろうとしてこなかった自分の無知と傲慢を恥じました。(柳宗悦『民藝四十年 』岩波文庫、一九八四年)
 柳宗悦の背後から現れた浅川兄弟というまったく未知の存在には、さらに深い感動と共感を覚えました。柳に朝鮮の工芸品の美と朝鮮民族への敬愛の目を開かせ、柳とともに朝鮮の工芸品の収集と研究、朝鮮民族美術館の設立に力をつくした在朝鮮の伯教(のりたか)・巧(たくみ)の兄弟。弟の巧は志半ばの四十歳で仆れましたが、周囲の朝鮮人に心から敬愛され、「朝鮮を愛し、朝鮮の土となった日本人」として今もその墓が守られていたのでした。(高崎宗司『朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯』増補版、草風館、一九九八年)
 保守の政治家で首相になってすぐ辞めた人物という程度の認識だった石橋湛山(たんざん)の実像には、文字通り驚嘆しました。『東洋経済新報』の政治・経済ジャーナリストだった三〇代半ばの湛山は、やはりたった一人で論陣を張り、民族自決の世界史的趨勢を見すえて朝鮮の植民地支配の不当性をきっぱりと主張していました。その後も湛山は、日本が欧米帝国主義に先駆けて朝鮮をふくめたいっさいの植民地と勢力圏を放棄し、世界の弱小国の盟主となって欧米にもそう迫れと主張しました。そうすれば、植民地の奪い合いのための戦争はなくなり、軍備も不要となって、日本は日本列島の上だけで平和に発展できると言うのです。実に骨太で明確な「もうひとつの日本」の構想と主張でした。(松尾尊兌編『石橋湛山評論集』岩波文庫、一九八四年)
 そこには、輝かしくも誇るに足る、世界と人類に開かれた「もうひとつ」の日本があったのです。荒々しい大勢に抗して侵略戦争と植民地支配を独特の視点と表現で批判し、平和的で人道的な「もうひとつ」の日本を構想・願望して、朝鮮やアジアの人々と対等に向き合おうとした日本人。そうした先駆的な実例をもっと掘り起こして、子どもたちと共有したい。僕はそう考えるようになったのです。
 柳宗悦を起点に、浅川兄弟、石橋湛山、柏木義円(よしまる)、内村鑑三、相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻などを、次々に教材として取り上げていきました。その視点から、中江兆民や植木枝盛(えもり)なども新たな角度から取り上げました。こうした教材による授業は、「自虐的」反応を見せかねないまじめな生徒や、反応が鈍りかけた生徒に対してたいへん有効でした。
 子どもたちは、内村鑑三と中江兆民以外は名前さえ知りません。ですから、戦前の帝国主義・軍国主義の時代にも、たとえ少数ではあれ「もうひとつの」日本を願って行動した、こういう日本人がいたことを知って驚き、感動します。そして、誇りが生まれます。
 日本中が侵略戦争と植民地支配を肯定し、思想・言論の自由がなかったあのきびしい時代でさえ、そういう選択と行動が可能だったのだとすれば、現在の自分たちにだって何かできるかもしれない。子どもたちの中に、そういう未来に向かっての心地よい緊張を伴った意欲と展望が生まれました。そこから改めて、日本の加害の歴史をも勇気をもって直視しなければという意志も生まれます。
 こうした実践については、一九九〇年に「福沢諭吉の視点から柳宗悦の視点へ―日朝関係史のバクロ型授業を乗り越える試み」(『歴史地理教育』四六五号、一九九〇年一二月)という報告を書きました。これは後に、歴史教育者協議会=編『歴史地理教育実践選集』第二七巻 (新興出版社、一九九二年)と石山久男/渡辺賢二編『展望日本歴史2 歴史教育の現在』(東京堂出版、二〇〇〇年)に載録されました。後者の編者である石山久男氏は同書のコメントで、こう述べています。
 目良誠二郎「福沢諭吉の視点から柳宗悦の視点」は、抵抗の視点をアジアとの連帯の視点にまでひろげ高めた実践である。それによって、日本のアジア侵略の実態を暴露し断罪することでよしとするのでなく、日本人のなかにも、そのような欠点を克服する力と可能性があることを示し、克服しようとする意欲と展望を生徒たちのなかに育もうとしたのである。これからの歴史教育の方向を示したものといえよう。

  <少数は例外か>

 こうした僕の問題提起や実践に対しては、一部の人から「例外を不当に一般化するもの」ではないかという批判を受けました。近代日本においてはあくまで帝国主義・軍国主義が一般的であって、柳宗悦や浅川巧のような存在はその「例外」にすぎないというのです。したがって、こういう「例外」的な存在をことさらに大きく取り上げることは、日本近代の侵略性を隠蔽することになるという批判です。
 一九九一年にソウル大学で開かれた「日韓歴史教育セミナー」に招かれて、僕の実践について報告をしたことがあります。その際に、コメント役の歴史教育研究者・李存煕(イ・ジョニ)氏から直にそうした批判を受けました。交流が始まったばかりの段階です。僕のような問題意識を韓国側に理解してもらうことは、予想以上に困難でした。

  <浅い現実主義と深い理想主義>

 問題なのは、こうした韓国人の批判をそのままくり返すような日本人の批判です。そうした批判をどう考えればよいでしょうか。
 ヘーゲルの有名な命題に、「理性(合理)的なものは現実的であり、現実的なものは理性(合理)的である」というのがあります。詳しいことははぶきますが、僕はこの命題をヘーゲルの意図とは別に、「自然と人間、社会という現実を本当に深くとらえた思考・思想はいずれ現実となる。また、自然と人間、社会に本当に深く根ざした現実はいずれ人間の深い思考・思想によってとらえられる」というふうに理解しています。現実にも思考・思想にも浅いものと深いものがある、と言ってもよいかもしれません。
 悪しき現実を追認し、正当化するしか能がないような「現実主義」の「現実」は、実は浅い現実なのです。こういう現実主義者は、理想主義者を現実無視の夢想家として軽蔑します。しかし、理想にも浅い、深いがあります。深い理想とは、浅い現実の底に隠されている深い現実をとらえて実現しようとすることです。深い理想は深い現実に根ざしているのです。その意味では、真の理想主義は真の現実主義にほかなりません。同時にそれは人類の夢にもつながります。
 浅い現実主義には何の理想もないので、醜悪です。浅い理想主義には深い現実的な根拠がないので、軽薄です。醜悪な現実主義を克服するには、軽薄な理想主義は役に立ちません。深い理想主義が必要です。
 歴史における「少数」の存在を、単に「少数」だからといって「例外」とみなすのは、とても乱暴です。現実に深い根拠をもった深い理想を掲げる「少数」もあれば、たいした意味もない「例外」もあるからです。僕が日本近代から掘り起こして子どもたちと共有したいのは、もちろん前者です。「少数」ではあっても、人類史という現実に深い根拠をもつ思想と行動の実例です。
 そうした事例として僕の個々の選択が正しかったかどうかには、議論の余地があるでしょう。しかし、その是非の具体的な根拠も示さずに、韓国人の批判だけをタテにして、あたかも「少数」はすべて「例外」で、だから僕の実践は「例外を不当に一般化するものだ」といった批判は、問題の所在をまるで理解していない一面的な批判です。子どもたちの中に歴史のオルタナティブへの意欲と想像力を育てるため、日本の近代史の中にその貴重な芽を見いだそうとする僕の方法への、内在的な批判にはなっていません。
 僕が提起し、実践してきたのは、朝鮮の植民地支配を軸とする日本近代の残酷なアジア侵略の歴史を、少数の日本人の美談や善行でやわらげることではありません。その逆です。日本の子どもたちが「自虐」的になったり、反発したりしないで、そのつらい歴史を直視する勇気と意欲を育てることです。

  <何を恥じ、何を誇りにするか>

 ことばを換えれば、子どもたちが日本近代と近代日本国民を全否定しないで、なお日本近代のアジア侵略を深く恥じるような学習をどう組織するか、ということでしょうか。日本近代の何を恥じ、何を誇りにするか。侵略と植民地支配の帝国日本の歴史を栄光の歴史として誇るのか、それともそれに抗した「もうひとつの日本」の歴史を誇りに思うのか。
 それは僕たち大人自身の問題でもあります。まさにその視点から、僕は柳宗悦・浅川兄弟・石橋湛山などを教材化したのです。彼らがどのような限界を持とうが、平和で人道的な「もうひとつの日本」を求めた彼らの基本的な思想と行動を、僕は同じ日本人として誇りに思います。
 日本の歴史の中にも、人類共同の文化の宝庫を豊かにするような本当に誇りうるモノ・コト・ヒトを発見し、子どもたちと共有したい。そして、他国の歴史の中にも本当に尊敬に値するモノ・コト・ヒトを発見し、共有したい。僕はそう考えます。
 歴史・平和教育には「誇り」といった非理性的な要素を持ち込むべきではない、という声が根強くあります。しかし、すべての「誇り」が非理性的なわけではありません。偏狭で独善的な自国・自民族中心の「誇り」は、たしかに非理性的で危険です。自惚れや慢心・独善の「誇り」は有害ですが、誰にも人間としての理性的な「誇り」は必要です。むしろそのような「誇り」があってこそ、僕たちは自分の怯懦や愚かさを恥じることもできるのではないでしょうか。
 この問題は、いわゆる「愛国心」論議にも通じることです。愛の対象とされる「国」や「日本」が事実とは異なる妄想や偏狭で独善的なものなら、「愛国心」ほど危険で醜悪なものはありません。権力者たちはこの手の「愛国心」を、しばしば子どもたちや国民に強制しようとします。サミュエル・ジョンソンが「悪党の最後の隠れ家」と喝破した「愛国心」は、まさにこれです。
 しかし、真の問題は「愛国心」ということばではなく、「国」が何を意味しているかにあります。それが真に誇りうる「もうひとつの日本」を意味するのであれば、「愛国心」はむしろ必要で有益でしょう。日本人だけでなく、韓国人・在日朝鮮人・アメリカ人等々の子どもにとっても同じことです。各自の国・民族の歴史の中に真に誇りうるものを事実に基づいて見出してこそ、その悲惨と汚辱と愚劣さの歴史をも直視し、恥じることもできるのだと思います。
 「愛国心」ということばに強い拒否反応があるのは、過去・現在にわたる歴史の中でニセの「愛国心」が強制されてきた苦い経験が実際にあるからです。同時に、国民や子どもたちの中に真に誇りうる「もうひとつの日本」が広く共有されていれば、それに代わる別の「愛国心」を積極的に構想できるはずです。ニセの「愛国心」を批判するだけでなく、僕たちはこの点も考える必要があるのではないかと思います。
 こうして、僕のごく当たり前の提起が思いがけない注目を集めることになりました。



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8 コメント

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坂雲管理人さま、届いています (髭彦)
2010-06-26 23:01:48
メールにはこれからご返事を差し上げますので、よろしくお願いします。
返信する
『坂の上の雲』放送を考える全国ネット (坂雲管理人)
2010-06-26 20:06:50
髭彦さま
早速のお返事まことに有り難うございます。
実はもう一つお願いがあってメールしたのですが、届きましたでしょうか。
返信する
坂雲管理人さま、光栄です (髭彦(目良誠二郎))
2010-06-26 18:10:30
実は、去年、出版されたばかりの中村正則さんの『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店)を本屋でたまたま手にしたところ、朝鮮「永世中立化」の道に関する僕の議論が紹介され、それを踏まえて日清戦争の不可避性と、帝国主義的侵略の道か半植民地化の道しか当時の日本になかったのかどうかが、検討されているのを見て驚きました。
今回のお申し出は、それに続く驚きです。
引退した社会科の一教師の経験と試行錯誤に基づく、しかも何年も前の議論です。
もしなんらかのお役に立つのであれば、どうぞ遠慮なくお使いください。
むしろ、光栄です。
安川寿之輔さんをはじめ、どうぞ諸先生方によろしくお伝えください。
会のご健闘をお祈りします。
返信する
『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク (坂雲管理人)
2010-06-26 16:54:19
私『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク の管理人です。
特に4.オルタナティブ=もうひとつの選択肢の視点ーーーの部分は当会の目的意識と重なるところが多いものですから
http://kakaue.web.fc2.com/
に紹介させていただきたいと思います。
できれば
4.オルタナティブ..以降の所を転載したいのですが?。
よろしくお願いします。
返信する
一読者さん、ありがとうございます (髭彦)
2010-06-10 22:19:57
韓国でも、最近は柳宗悦や浅川兄弟について、単なる「例外」としてとはちがう積極的な評価が広がってきているようです。
偏狭なイデオロギーやナショナリズムから自由であるとともに、今実際に属している日本や韓国の国民であることを、過去の歴史をしっかりとふまえたうえで自覚し、相互理解して行けるようになりたいと思います。
柳宗悦や浅川兄弟は、日本人の側からのそうした偉大な先駆者だったのだと僕は思っています。
返信する
佐平次さん、ありがとうございます (髭彦)
2010-06-10 22:01:36
自民党内閣の「醜悪な現実主義」に「浅薄な理想主義」で対抗しようとした鳩山内閣でしたが、その鳩山首相を支えた小沢が本流の「醜悪な現実主義」者でした。
その跡を継いだ菅首相は、どうやら鳩山と小沢の中間を行くつもりのようです。
いずれにしても、そこに「深い理想主義」の気配はまったくありません。
おそらく、菅内閣は限りなく「醜悪な現実主義」に近づいて行くことでしょう。
「深い理想主義」の政治家が現れるまで、まだまだ時間はかかりそうです。
その出現を望む国民が増えるのを期待するのみです。
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Unknown (一読者)
2010-06-10 17:55:58
こんにちは。お写真の美しさに見入るばかりでしたが、今回はかつての教育実践のお話なのですね。

20年前のことのようですが、当時の韓国の一部の先生方のご批判は、心情的にはわかる気がいたします。が、「高潔な人物や平和の使者はいつの世にもいる」、ということを掘り起こして伝える教育は、両国にとって有意義に違いありません。こうした傑物がどんどんとりあげられて広く知られ、友好ムードにつながることは、悪いことのはずがありません。それが歴史の負の側面を隠蔽したり傷ついた感情を逆撫でするような鈍感な自己肯定・賛美としてでなく、深い洞察と思いやりに下支えされていれば、感情的反発は起きにくいと思います。

時代も変わりました。今の時代、韓国には日本に親近感を抱く人がたくさんいます。日本にも、「韓国は昔自分たちが侵略した国」という見方ではなく、友好的隣国だ、という見方をする人がたくさんいます。それが立脚すべき今の現実だ、と思います。

どこの国と国であれ、歴史には肯定的側面も負の側面も当然あります。知った上で妙な意識抜きで未来志向で交流するのが人間同士として理想、と思います。

イデオロギー抜きの、(良心的であれ)妙な思い込みから解放された、新しいグローバルな教育が望ましいのではないか、と思います。

ひとくくりにはできませんが、日本人を根っから好戦的とは到底思われません。柔和な民族だと思います。わが国の子供たちに民族的誇りを、というよりは、「歴史は多角的に見るべきであり、画一的な発想から脱すべきだ」と考える観点から、先生の取り組みは大変すばらしいものだったと思います。
返信する
Unknown (佐平次)
2010-06-10 10:10:33
ありがとうございます。
今こそ、まず民主党のリーダーたちに読んで欲しい。
私も柳や浅川の評伝を読みます。
このままではとても恐ろしいことになりそうです。理想主義者であるはずの鳩山や菅が自民党の最右翼も鼻白みそうな行動に出ている。
保身こそ歴史を動かしてきた隠れたエネルギーなんですね。
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