夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

畠山被告に高裁で無期懲役の判決が下った

2009年03月31日 | Weblog
 死刑ではなく無期の理由は、極刑に処するだけの理由が無い、である。冗談じゃない、と私は怒り狂ってしまった。被告は自分の娘だけではなく、2軒隣の男の子まで殺害した。殺害の理由は、地域の子供を狙った犯行と思わせるためだったと言う。被告と男の子には殺人に関わる関係は何も無いのだから、自分の犯行を騙せると考えたらしい。
 そんな事を考える人間が、初犯である、計画性が無い、などのつまらない理由で死刑を免れる。つまり、立ち直る事が出来ると判決は言っている。犯行は一時の気の迷いだった、と言っている事になる。無期懲役は改悛の情ありと認められれば、十四五年経てば、たいてい出所出来ると聞いている。一審では「将来の仮釈放の判断は十分留意するように」と異例の言及をしたと言うが、そのような判決以外の事項が果たして将来において拘束力を持ち得るのか。
 厭がる娘を橋の欄干に乗せ、それを突き落とす。そんな無慈悲な事が、たとえその瞬間は錯乱状態にあったとしても、出来る。そうした錯乱状態が長く続くはずが無い。続くなら、とうてい普通の人間とは言えない。被告は錯乱状態だったとして、そこから戻り、赤の他人の犯行と見せ掛ける事を考えた。この時点で、全く錯乱とは関係が無い。冷静に計画をしている。それでも計画性が無かったと言えるのか。

 これでは、殺された方はたまらない。つまらない事で殺され、そのつまらない事が正当化されてしまう。つまり、極端に言えば、殺された事が正当と認められてしまうのである。ねえ、判事さんよ。何であんたはそんな無責任な事が出来るんだ?
 前にも書いたと思うが、この卑劣な人間が二度とこのような犯罪を犯さないと断言出来るのか。責任を持てるのか。こんな事を言うと、人間の善意を信じろと言うのかも知れない。もちろん、私は善意を信じたい。だが、この被告のような人間を目の前にして、この被告の善意を信じる事の出来る人は、はっきり言って馬鹿である。自分が殺されてみれば、それが分かるだろう。
 ねえ、これも前に言ったと思うけど、殺す側はいいよねえ。一人や二人じゃ死ななくても済むんだ。自分自身は生きて居られるんだ。でも、殺された側は二度と生き返らないんだよ。こんな不公平があるもんか。
 金銭関係の犯罪では、金を盗んだ奴が盗み得になるだろうか。人身事故を起こした運転手が損害賠償を支払うのは当たり前じゃないか。たとえ保険で賄われるとしたって、被害者に賠償金が支払われる。
 それなのに、殺された被害者は何の保障も受けられない。遺族が金を受け取ったって駄目だ。賠償するなら、命を返さなくちゃいけないじゃないか。それは現代の科学技術では出来ない。仕方が無いから、自分の命で購うのではないのか?

 殺した人間が命を捧げたって、失われた命は戻らない。そんな事は百も承知。それでも、そうでもしなければ、あまりにも不公平ではないか。せめて残った命だけでも全うさせたい、と思うのは分かる。殺した人間を殺したって何の利益も生まれない。だが、そうした考えは根本的に間違っていると私は思う。
 人間として生きると言うのは自分の責任を果たす事だ。他人の命を尊び、自分の命もまた大切にする。それが人間の生き方である。それが出来ない以上、それは人間とは呼べない。人間の皮を被った単なる生物に過ぎない。人間を殺して、単なる生物を生かす。そんな事が当たり前のように通っている。戦慄すべき事だと思う。