夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

凶悪事件の時効撤廃

2009年03月02日 | Weblog
 凶悪事件の時効撤廃を願う16事件の遺族達が「宙(そら)の会」を発足させ、集会を開いた。「宙」には「無限の時間」の意味があると言う。
 時効とは正式には「公訴時効」と言うそうだ。公訴つまり起訴出来なくなる。犯罪が発覚しても時効後なら罪を問えないと言う訳だ。軽い罪ならともかく、凶悪犯罪に罪を問えないのははなはだ不合理である。
 しかし見直しへの慎重論は強いと言う。法律的には時効の理由は書かれていないが、これが理由だと言う幾つかの説があると3月1日の東京新聞が伝えている。それを読んでびっくりした。
 最も驚いたのが、次のような理由だ。
 「犯人が処罰されずに日時が経過した場合、犯人が社会で築いた人間関係を尊重すべきだ」
 犯人が処罰されずに日時が経過したのは、単に犯罪が巧妙だったからに過ぎない。あるいは一時外国に逃げていた、などもあるだろう。その間に「犯人が社会で築いた人間関係」だと? そんな人間関係がどれほどの価値があると言うのか。そんな理由が通るとでも思っているのだろうか。
 その次に驚いた理由は次の通り。
 「時間の経過で証拠が散逸し、正しい裁判をするのが困難」
 証拠が薄弱で起訴が出来るのか。正しい裁判などと言う前に、起訴の根拠が問われるのではないのか。裁判が出来なければ当然無罪になるだろう。あるいは、別のもっと軽い刑で処罰されるのだろう。そうした場合に、時効などが問題になる訳が無い。
 記事には三つの理由が挙げられているのだが、その三つ目も感覚を疑ってしまう。
 「被害者を含む社会一般の処罰感情が希薄化する」
 何言ってんだ。殺人事件なら、被害者は殺されている。処罰感情があろうはずも無い。たとえ殺されていなくても、被害者の感情が希薄化するなどと、どこからそんな無責任な事を考え出す事が出来るのか。被害者の遺族でさえ「犯人に対する気持も、娘を思う気持も当時と何も変わらない」と、娘を殺された母親は語っている。
 こうした話に「社会一般の処罰感情」などを持ち出すのがおかしいのである。社会一般にとっては言うまでもなく、他人事である。一時的には同情の涙を流しても、ある期間が過ぎれば簡単に忘れ去ってしまう。いや私は忘れない、などと言える人が果たしてどれほど居るだろうか。たとえ事件を覚えていても、被害者の、あるいは被害者の遺族のような感情があるはずも無い。

 凶悪犯罪で、一番重要なのは、犯人と被害者または被害者の遺族なのだ。被害者の遺族が出て来るのは、被害者が殺されたからである。遺族は殺された被害者の代理人として登場するのである。分かり切った事を繰り返す。重大な傷害事件なら、犯人と被害者の問題である。殺人事件なら、犯人と被害者の遺族の問題である。
 この両者の問題を解決すべく、解決など出来はしないのだが、解決に向けて努力するのが検察と弁護人、そして最終的に裁判官になる。その途中の段階で、時間切れですよ、と無責任で被害者にとって残酷な宣告をするのが「時効」である。はっきり言えば単なる責任逃れじゃないか。世田谷一家殺人事件のように証拠が残っていても犯人逮捕に結び付かないような難事件もあり、それを警察の責任にする事は出来ないのは承知の上で言うが、結局は捜査の力が及ばなかったのである。それを「時効」と言う免罪符で逃れる事が出来ると言うのか。
 驚いた事には、何度も驚いているが、殺人などの時効が25年になったのは、何と05年の刑事訴訟法改正なのだ。それまでは15年だった。25年だって、20歳で事件を起こせば、25年を何とかやり過ごせば、45歳以降は正々堂々と暮らせると言う訳だ。現代の長生き社会では、健康ならあと30年や40年はまともな人間として暮らせるのである。15年だった時などは、何と35歳で大道を歩けるのである。何と理不尽な事か。
 言うまでも無いが、深い傷を負わされた人間は生涯、その傷と向き合って生きなければならない。殺された人間は何も言えず、ただただ沈黙しているしか無い。遺族は悲しみを生涯胸に秘めて暮らさなければならない。それなのに、発覚をある一定期間逃れさえすれば、元のままの傷付かない人生が送れるなんて、凶悪犯にあまりにも甘過ぎる処置ではないか。凶悪犯に時効を許すなら、許す人間も同罪である。