夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

餃子とカレーと麻婆豆腐と愛犬と

2009年03月20日 | Weblog
 これは私の三大料理である。あ、愛犬は違います。愛犬を除いた三つの事です。これらは家族が文句なしに褒めてくれる。餃子など、息子は商売になる、とまで言ってくれる。私自身、そう思っている。味は良いし、焼き具合は良いし、見た目も抜群。カレーはタマネギを丁寧に炒め、リンゴのすり下ろしはもちろんの事、醤油、ソース、ケチャップ、チョコレートなどを始めとして、様々な物を入れる。それらが微妙なハーモニーを醸し出す。麻婆豆腐も麻婆豆腐の素などは使わない。ショウガもニンニクも丁寧にみじん切りにする。
 料理は愛情である。家族に少しでも旨い物を食べさせたい、その思いがあればこそ、面倒な事も出来る。中国産のニンニクやショウガなど、どんなに安くても絶対に使わない。豆板醤と甜面醤は仕方が無い。
 何でこんな事を言い出したのかと言うと、我が家の愛犬ポンタがこれらを喜んで食べるからである。カレーも麻婆豆腐も中辛である。それを三歳になったポメラニアンが喜んで食べる。くれくれ、と言うから試しにやってみた。まさか食べるとは思わなかった。だからこちらは面白半分だった。辛さに辟易して、参ったと言うと思った。
 餃子はニンニクもニラもたっぷり入っているから、食べさせるつもりは毛頭なかった。だが、ちょっと用があって、私が自分の分を二つだけ残して席を立った。椅子をテーブルの下に入れてなかったのが悪かった。席に戻ると、犬がブーブーと怒っている。これは何か悪い事をした時の牽制であるのは分かっている。怒られる前に、俺は何も悪い事はしてないぞ、と牽制球を放つのである。馬鹿だねえ。黙っていれば分からないものを。
 ははあ、と思ってテーブルの上を見渡して、すぐに分かった。取っておいた餃子二つが見事に姿を消している。味の出来が良いから、ラー油を垂らした酢醤油を付けなくても旨いんだ。
 カレーは、ご飯が大好きな犬なので、試しにご飯に少々のカレーをまぶして与えた。ぺろりと平らげてしまった。息子に話すと、自分もやってみて、「あああー、カレー食べてるよ」と悲鳴を上げる。
 麻婆豆腐も同じだ。カレーよりももっと辛い。自分で豆板醤と甜面醤の案配を目分量で入れているから、その都度辛さは違うが、辛い事に違いは無い。テーブルの上にこぼしてしまったのを食べてしまったから、妻が試しにご飯に混ぜて与えた。おいおい、と私は止めたのだが、それをぺろりと平らげた。夜中に喉が渇いたって知らないぞ。
 
 ポンタは私にべったりである。どこに行くにも付いて来る。仕事中は仕事部屋に居るし、寝る時は私の布団の上である。掛け布団のど真ん中にどっかりと居座っているから、寝返りを打とうにもどうにもならない。朝になって、私が寝ていれば、何時になろうが、一緒になって寝ている。起きればすぐに飛び付いて来る。
 妻は、あんたを飼い主ではなく、友達だと思ってるのよ、と言うが、妻と私が言い争いになって、互いに大声を上げると、ポンタは決まってもの凄い勢いで妻に吠え掛かる。今にも噛みつかんばかりの勢いである。俺の飼い主をいじめちゃいかん、と言っているのである。私が飼い主でなければ、妻が飼い主になるはずだ。本当の飼い主で実質的にも買い主である息子はほとんど家には居ないので、単に怖いお兄さんに過ぎない。飼い主にはなり得ない。以前のポメラニアンは仲裁をするように、両方に等分に吠えた。どっちも悪いんだ、と。
 飼い主に猛然と吠え掛かるとは思えないから、結局、私が飼い主と言う事になる。その飼い主の作った物を喜んで食べる。と言うと出来過ぎになる。まあ、はっきり言えば何でも食べる犬なのである。飼い主に似て、酒にも目が無い。ビールだけは駄目だが、あとは何でもござれ。酒の瓶を床に置こうものなら、すぐにやって来て、瓶の口の所をぺろぺろ舐める。
 以前、赤ワインを飲みながら寝ころんでテレビを見ていた。するとぴちゃぴちゃと音がする。何と、ポンタがグラスのワインを舐めていたのだ。渋い赤ワインをである。
 
 飼い主と言ったが、どうも我が家には飼い主はいないらしい。強いて言えば、何の面倒もみないが、息子が飼い主かも知れない。渋々ながら、言う事を聞くからだ。私はどうも親だと思われているらしい。だから甘えるし、時にはわがままになる。そうなると妻は? よそのおばさんか。
 
 思うのだが、犬は頭では考えない。本能ですべてを見抜いている。だから騙せない。人間も、もっと本能を生かせば良い。本能と言っても欲望の事ではない。潜在能力と言うか、人間に本来備わっている物を見分ける力の事である。素直に物を見れば、真の姿が見える。そうした事をしないから、欲に目が眩んで物を見ているから、おかしな事、変な事、駄目な事、ずるい事、卑怯な事、許せない事、汚い事、そうした数々の悪事を見逃してしまうのである。

世の中は川の流れだ

2009年03月19日 | Weblog
 東京のJR王子駅でトイレの汚水を川に流していた。東京都はそれを2年も前から知っていて放置していた。しかもJRは旧国鉄時代からずっとで、もう40年も前からだと言う。呆れて物が言えない。
 ホームで全面禁煙のたばこをホームで売るJRの汚さを書いた。自社の発電で制限以上の川の水を取った(盗った)。ね、やはり同じでしょ。川の流れなんだから、同じなのである。汚水は流域を汚した。文字通り「汚い」のだ。
 先日田中真紀子氏が「真実を見よう」と言っていると書いたら、真紀子氏がテレビに出られる訳が無い、とのコメントを頂いた。そうかも知れないが、彼女が黙ったら喜ぶ人が居るはずだ、と私は書いた。そして気が付いた。彼女は呼び掛け続ければ良いのである。それは田中家の財産がどのようにして築かれたかをもまた白日の下にさらす事になる。
 
 私は世の中の出来事で、新聞などが分からない記事を書いている事を採り上げて、何で記事が分からないのかを追究する本一冊分の原稿を書いた。分からない理由を色々と考えていると、ある一つの事実が見えて来る。我々に与えられているわずかばかりの情報では、それが真実であるかどうかは分からない。だが、自分自身の頭でさんざんに考えた結果なのだから、真実に近いはずだ、と言う趣旨である。
 それを人は「邪推だ」と言うかも知れないが、邪推で結構、この自分が考えた事なんだから、それで良いではないか。自分で考えずに他人の意見をそのまま取り入れてしまうから、間違いがそのまま通ってしまう。
 採り上げた内容は二年も三年も前の物が多い。だがそれが良いのだ。なぜなら、これまた川の流れなのだから、しかもその流れは非常にゆったりとしているから、三年前に流れたその残滓が今もまだ残っている可能性がある。そこにまた新しい汚物が流れて来て、ああ、またあいつが流したのか、と言う事が分かり、「あいつ」の正体が分かると言う寸法である。
 だから、内容は少しも古くはならない。古くなればなったで、判断の材料がそれだけ増えている事になる。
 この原稿が一つの出版社で認められなければ、新たに書き足す事があれば付け足して、削る事があれば削り、また別の出版社に持ち込む。ある出版社は、採用不採用は当社の考えなので、駄目でも別の所に当たって欲しいと勧めている。
 
 三年程前から「邪推」を続けているせいで、私は物を見る力が自分では付いて来たと思っている。以前は、書かれている事をその通りに受け取っていた。分かっても分からなくてもそのままだった。分からないのは自分の考えが足りないのだと。何よりも欠けていたのは、分かっていない、と言う事実を分かっていなかった。上っ面だけを見ていたからだ。そして多くの人々がかつての私と同じだと思っている。
 昔読んだ本を読み直してみて、とんでもない事が書かれているのを発見して驚いている。何でこんな馬鹿馬鹿しい事を真に受けていたんだ、何で気が付かなかったんだ、と我ながら悲しく悔しい。でも、気が付いただけ増しなのだ。
 駄目本を具体的に例を挙げて斬っている原稿も書いているが、書き手がよほど有名でないと、多分、日の目を見ないでしょうね。
 
 突然話が変わるが、今「増し」と書いた。「増し」は文字通り「増える」である。だから「日増しに暖かくなる」とか「一割増し」などと言う。そしてその言い方が「どちらかと言えば、その方がいい」との意味にも使われる。比べてその方が色々な面で「増している=優れている」のである。だから「その方が増しだ」と書くのが当然で、それでこそ意味が明確になるのである。
 ところが、手元の用字用語辞典を見ると、ほとんどが「一割増し」は良いが、「そのほうが増し」は仮名書きにせよ、と書いてある。そして、「日増しに」はどうすれば良いのかは書かれてはいないのだ。なぜなら、仮名書きだ、と言う理由がいい加減だから、「日増しに」などの「一割り増し」とは違うが、さりとて「その方が増しだ」とも違うような言い方になるとどうして良いか分からなくなるのである。
 いい加減な本が大きな顔をして売られている、と書いた所で、日本語のいい加減な表記の話になった。別にそうした意図があった訳ではない。たまたまそうなっただけだが、このように、いい加減は身の回りに蔓延しているのである。ごくごく当たり前の顔をして図々しく登場しているのである。それを見過ごしにしているのは、我々自身がいい加減だからである。

新聞の信頼度って意外に高いらしい

2009年03月18日 | Weblog
 「生活者一万人アンケート」を野村総研が定期的に行っていると言う。東京新聞の14日夕刊のコラム記事だ。記事の内容その物は「オフレコの真実」と題して、西松建設にまつわる漆間官房副長官と新聞記者の対立に言及している。まさに「オフレコ」なので証拠は無いが、十数人のプロの記者達が「言った」と報じているのだから間違いないだろう、とあるが、多くの人が同感だろう。
 オフレコとは文字通り「記録にとどめない」であり、それは漏れてはならない事項だからであり、従って真実に近いはずである。その約束を守るのは取材者としては当然の義務である。それを破った。その事自体は問題がある。ただし、真実を国民には明かさず、取材者にだけ暗黙の了解で話す事もまた問題である。
 私も漆間氏を信じていないが、この記事で面白かったのは、そのアンケートによる「職業別に見た国民の信頼度」だ。
 最も低いグループに属するのは国会議員の10・9%と官僚の19・4%。
 信頼度の高いのは医師の80・6%と新聞の78・4%。
 国会議員に対する信頼度がたったの11%とは驚きだが、さもありなん、と納得してしまう。そこが悲しい。それに対して官僚が19%もあるのもまた驚きである。口先だけではなく、実行しているからか。それにしても国民年金を使い込む、無駄な物を造って浪費する、国民を犠牲にして大企業の肩を持つ、まあまあ、挙げたら切りが無い悪者どもばかりなのに、日本人は本当にお人好しである。
 医師の信頼度が高いのは頷ける。
 
 さて、新聞が78%。ほとんど医師に近い。この数字を見て、私はへーえ、と感心してしまった。記事の書き方は微妙である。信頼度に関して「反対に信頼度の高いのは医師(80・6%)、新聞(78・4%)とある」と続き、直後に「国民の勘は鋭いから、発言論争の真実も見抜いているだろう」とある。
 つまり、国民は鋭い勘で新聞に78%もの信頼度を持っている、と言う展開にならないだろうか。意地悪な見方だろうか。
 で、私はついでにテレビに対する信頼度も知りたかった。インターネットで検索するが、記事で取り上げている野村総研のアンケートがいつのどのようなアンケートなのか分からない。色々と見て、中に一つ、メディアの信頼度に言及している報告があった。それによると、2006年と古いのだが、テレビに対する信頼度は、「非常に信頼する、やや信頼する」で男性64・5%、女性61・0%となっている。
 「やや信頼する」まで入れてしまっているから、あまり信用ならない。「やや信頼する」は「信頼しない」よりちょっとだけ良いくらいの事である。結局、「どちらかと言うと信頼する」ぐらいの感じではないのか。それでさえ60%を少し上回る程度なのである。
 同じアンケートではなさそうだから、新聞とテレビの数字を比較しても意味が無いだろうが、テレビの信頼度が低いのはこれまた頷ける。
 
 このアンケートの答え方だが、例えば新聞に対して、10の記事に関して約8割の程度で信頼している、と言うのか、新聞その物に関して約8割の人が全面的に信頼している、と言うのか、どちらだろう。普通は後者のやり方だろう。
 私なら、10の記事に関して6割くらいの程度で信頼していると言う所である。とても全面的には信頼出来ないし、政治や経済の記事以外は信頼出来ると思っているからだ。とは言っても、政治や経済の記事が4割あると言うのではない。文化面や社会面なら、信用出来ない記事があったって構わないと思っている。見方、感じ方はそれぞれ違うのだから。
 しかし、政治や経済は我々の生活に直結している。だから信用の置ける内容でなければならないのだ。そうした意味で、はっきりとは言えないが、まあ、半信半疑と言う所なのである。
 国会議員に対する信頼度での11%だが、これも100人の国会議員の中で11人は信頼出来ると言うのか、国会議員を信頼出来るとする人が100人中11人なのか。
 これは新聞と同様、似ているようだが、大きく違う事だと思う。前者は信頼出来る議員が1割は居る、後者は議員を信頼している人が1割しかいない、と言っている事になる。
 考えてみたら、国会議員が信頼出来ますか、出来ませんか、と質問するのはとても危険である。十把一絡げになる。そして答はイエスかノーになる。だが、あなたは国会議員の中にどのくらいの割合で信頼出来る人がいますか、との質問ならかなり正確な答えが出るはずである。
 だが、たいていのアンケートが前者のイエスかノーのスタイルだったと思う。それが、「大いに・やや・普通に」イエスである、との選択肢と「やや・大いに」ノーである、との選択肢がある程度の事である。そうした曖昧な回答を小数点以下一位まで出して数字にすると、これが曖昧ではなく、明確な答に見えてくるからまか不思議である。
 だからマスコミはアンケートを頻繁に取るのである。世論調査もまた同じである。

全面禁煙のホームでたばこを売るJRの汚さ

2009年03月17日 | Weblog
 東京と九州を結ぶブルートレインが遂に無くなった。別れを惜しむ人々で一杯だったとテレビや新聞が伝えている。新幹線やバスに客を取られての引退だと言う。客が少なくなったから、無くなる。経済的に考えればそうなる。しかし世の中は金だけではない。金では買えない旅情とかもろもろの物は一体どうなってしまうのか。採算は合わないのだが、何とかやっている、と言うような事があったっていいじゃないか。客が少ないなら編成を短くするとかして、そして新幹線で儲けた利益をそこに注ぎ込んだって良いではないか。何でトータルで考えないのだろうか。JR東日本の顧問が書いた本には民営化して一日52億円の赤字から1日26億円の黒字になったと書いてあるらしい。私は読んでいないが、広告で知った。そんな巨額な黒字が出ている事自体が信じられないが、そうした利益に比べたら、ブルートレインの赤字なんて雀の涙だろう。
 トータルで考えない答は歴然としている。わずかでも利益が減るからである。そこそこの利益では飽き足らず、もっともっと、と欲張っている。
 JR西日本は鉄道の運行の安全より、利益を優先していた。まずは利益があって、その次に安全があったのである。それをあの福知山線の尼崎脱線事故で、ようやく見直した。それはきちんと新聞の記事になった。
 JR東日本は新幹線が通ると、歴史ある信越本線をぶった切った。東北本線もぶった切った。切り捨てた部分は第三セクターに任せた。利益の望めない所は自分では経営せず、力の無い地元に押し付ける。それがJRのやり方である。第三セクターはやって行けないから運賃が上がった。
 利益優先だから、JR東日本は信濃川だったか、許可されている以上の水量を自社の発電所に回した。それがばれて、この秋の列車の運行に支障が出ていると言う。
 
 タイトルのたばこ販売だが、JRが経営するキオスクの売り上げの3割をたばこが占めていると言う。だからもったいなくて、販売をやめられない。禁煙は人々の健康のために取られている措置である。なのに、金儲けのためにはそんな事は考えていられない、と言うのがJRの本音である。
 鉄道の本分はもちろん、列車の運行である。安全で便利な運行である。そのホームを利用して物を売るのは、乗客の利便のためであって、儲けのためであってはならないはずだ。まあ、客の利便のついでに儲けるのは良いとしても、ついでなんだから、儲けにこだわる必要は無いのである。禁煙になるのだから、たばこの販売から撤退するのが当然の筋道である。
 国も汚い。利益になるなら国民の健康などどこ吹く風。規制を骨抜きにして恥じない。国鉄の民営化は単に金儲け主義の企業を、それも天下の大企業を増やしただけである。サービスが良くなったと馬鹿な事を言う人もいるが、良くて当たり前。以前が悪過ぎただけの事だ。そんな悪いサービスで職員はきちんと高給を取っていた。その証拠が一日26億円の赤字なのである。そうした面の是正が民営化の目的のはずである。利益はあった方が良いが、決して利益だけが目的ではないはずだ。
 
 こうした事から分かるのは、誰も彼もが金儲けに夢中になっているとのお寒い現実である。自分が儲かるのなら、他人がどんな不便を被っても構いはしない、と言うのが正直な所だろう。質量不変の法則と言うのがある。金儲けが出来るのは、その金を支払う人々が存在しているからだ。つまり、ある金が、一方からもう片方へと流れる。それだけの話である。金の全体量は増えもしなければ、減りもしない。だから儲ける人間が居れば、損する人間が居る。金を出した側を損をしたと思わせないように、様々なサービスが提供されている。そのサービスが、果たして出した金に見合うだけの物になっているか。
 見合っていれば、金を手にした人間も儲かってはいないはずである。
 金と言う名の物質と、心と言う名のはっきりと目には見えない存在に分かれてしまうからこそ、釣り合っているかどうかは分からなくなる。そこが金儲けの重要ポイントになる。金なら数えられるから簡単には人を騙せない。しかしながら、心なら数える事は不可能だから、簡単に騙されてしまうのである。もちろん、見る目のある人が見れば、いとも簡単に見破れる事ばかりである。
 見る目のある人、それは、人間とは何か、幸せとは何か、といったような事を常に考え、本質的な事を理解出来る人である。
 残念ながら、立法府にも行政府にも司法府にもそうした人材が不足している。多くの経済学者やマスコミにも人材が不足している。もちろん、日本をリードするような大企業にも不足している。日本列島全体が人材不足なのである。宗主国であると威張っているアメリカがそうなのだから、アメリカの風向きばかり気にしてアメリカに倣え、を合い言葉にしている日本は立ち行かなくなるのである。

小学校の謝恩会に出席した

2009年03月16日 | Weblog
 今週から日曜日はブログを休む事にしました。と言うのは平日は外での仕事があり、帰って来れば家庭の事情で、私が家事をこなさなければなりません。買い物もその一つです。それやこれやで平日に時間をやり繰りしてブログを書くのが結構大変なのです。そこで、日曜日を書きためておく日としました。ただ、世間の動きと関連もあるので、そうとばかりも出来ない苦しさはあります。しばらく様子を見る事にします。
 今、今週からと書いた。カレンダーは日曜日から始まっている。でも小学校の頃、曜日は月火水木金土日と数えた記憶がある。だから当時は「今週から」と言えば、22日の日曜日を指していたはずだ。いつから変わったのだろう。因みに私が習ったフランス語では、曜日はやはり月曜ランディから始まっていた。最後がサムディ・エ・ディマンシュ、土曜日そして日曜日である。
 
 縁あって、小学校の謝恩会に出席した。私は自分の謝恩会の記憶が全く無いし、息子の謝恩会に出た記憶も無い。多分、普通の日なので、母親が出席したのだろう。今回も父親の出席は一人だけだった。出てみて驚いた。とても大がかりなのである。来賓と先生方と職員、そして六年生とその親。場所は講堂。
 まずは子供達の寸劇で先生への思い出が語られる。そして子供達の楽器の合奏。電子ピアノはもちろんの事、マリンバ、ビブラフォン、ドラムまである。我々の子供の時はあんなに楽器なんか無かったね、と囁き合った。全員が何らかの楽器の演奏が出来る。素晴らしい事だ。そして子供達の合唱。
 合唱は先生達も親達もその技を披露する。うん、ちゃんとハモっている。
 良かったのは、先生が二人ずつくらいの生徒を名指しで色々と思い出を語った事だ。それは六年生全員が30人そこそこだからこそ出来る。我々の小学校時代のように、一クラス50人とか60人とか居て、それが4クラスも5クラスもあっては、とてもじゃないが、出来ない相談だ。多分、今の方がずっと学校が多いのだろう。
 そして最後に我々一人一人に生徒一人一人が花束を贈呈してくれるのである。お菓子の入った籠も一緒である。聞くと、籠も手製だと言う。花束をもらった我々は、子供と親が向かい合って並ぶその中を見送られる。何とも気恥ずかしい事だった。
 
 子供を見守るのは大人の役目である。だが、本当にそれが出来ているか。教師が子供を叱ると、教育委員会に言うぞ、と脅す子供が居ると言う。普段から家庭でそうした話が出ている証拠である。叱られて親が学校に文句を付けに来るとの話も読んだ事がある。子供同士の喧嘩にも親が出て来る。昔は「子供の喧嘩に親が出る」と子供達が笑って蔑んだ。今は親が子供からも蔑まれるようになってしまった。
 子供のしつけの出来ていない親などざらに居る。みんな自分の事、そして仕事に夢中になっている。そんなにも金が欲しいのか。夫が失業したりしていれば妻が働くのは話は別だ。毎日のように遅刻する子供が居る。親は、ちゃんと起こしているんですけど、と言う。起きていないから遅刻している。起きていなければ、起こしている事にはならない。一応、形だけは起こしているのである。実が伴っていない。
 こうした事が怖いのは、そうした子供達が今度は親になるからである。もちろん、出来の良い子供も一杯居る。だから世の中は何とかなっているのだ。
 
 隣の家のご主人は、エレベーターや廊下などで会って、お早うございますと挨拶しても、うんでもすんでもない。小学生の子供がいてもおかしくない年齢のようで、私の方が遙かに年長である。幼児だって、こんにちは、などの挨拶が出来ると言うのに。管理人に、私の所は犬が吠えてうるさいので、嫌がられているのかなあ、と言ったら、そんな事ないよ、あの人は銀行勤めだから、そうなんじゃないの? と言われた。それで私はほっとはしたが、でも合点は行かない。潰れそうになってどこかと合併しただらしのない銀行じゃないか。なんで他人を蔑むような態度に出るのか。銀行が駄目になるはずだ。
 折から「銀行の言うままになっていると、潰されますよ」とか言う本が売れているらしい。内容の大方の予想は付くが、読んでみたいと思う。
 縁あって、小学校の謝恩会に出席した。私は自分の謝恩会の記憶が全く無いし、息子の謝恩会に出た記憶も無い。多分、普通の日なので、母親が出席したのだろう。今回も父親の出席は一人だけだった。出てみて驚いた。とても大がかりなのである。来賓と先生方と職員、そして六年生とその親。場所は講堂。
 まずは子供達の寸劇で先生への思い出が語られる。そして子供達の楽器の合奏。電子ピアノはもちろんの事、マリンバ、ビブラフォン、ドラムまである。我々の子供の時はあんなに楽器なんか無かったね、と囁き合った。全員が何らかの楽器の演奏が出来る。素晴らしい事だ。そして子供達の合唱。
 合唱は先生達も親達もその技を披露する。うん、ちゃんとハモっている。
 良かったのは、先生が二人ずつくらいの生徒を名指しで色々と思い出を語った事だ。それは六年生全員が30人そこそこだからこそ出来る。我々の小学校時代のように、一クラス50人とか60人とか居て、それが4クラスも5クラスもあっては、とてもじゃないが、出来ない相談だ。多分、今の方がずっと学校が多いのだろう。
 そして最後に我々一人一人に生徒一人一人が花束を贈呈してくれるのである。お菓子の入った籠も一緒である。聞くと、籠も手製だと言う。花束をもらった我々は、子供と親が向かい合って並ぶその中を見送られる。何とも気恥ずかしい事だった。
 
 子供を見守るのは大人の役目である。だが、本当にそれが出来ているか。教師が子供を叱ると、教育委員会に言うぞ、と脅す子供が居ると言う。普段から家庭でそうした話が出ている証拠である。叱られて親が学校に文句を付けに来るとの話も読んだ事がある。子供同士の喧嘩にも親が出て来る。昔は「子供の喧嘩に親が出る」と子供達が笑って蔑んだ。今は親が子供からも蔑まれるようになってしまった。
 子供のしつけの出来ていない親などざらに居る。みんな自分の事、そして仕事に夢中になっている。そんなにも金が欲しいのか。夫が失業したりしていれば妻が働くのは話は別だ。毎日のように遅刻する子供が居る。親は、ちゃんと起こしているんですけど、と言う。起きていないから遅刻している。起きていなければ、起こしている事にはならない。一応、形だけは起こしているのである。実が伴っていない。
 こうした事が怖いのは、そうした子供達が今度は親になるからである。もちろん、出来の良い子供も一杯居る。だから世の中は何とかなっているのだ。
 
 隣の家のご主人は、エレベーターや廊下などで会って、お早うございますと挨拶しても、うんでもすんでもない。小学生の子供がいてもおかしくない年齢のようで、私の方が遙かに年長である。幼児だって、こんにちは、などの挨拶が出来ると言うのに。管理人に、私の所は犬が吠えてうるさいので、嫌がられているのかなあ、と言ったら、そんな事ないよ、あの人は銀行勤めだから、そうなんじゃないの? と言われた。それで私はほっとはしたが、でも合点は行かない。潰れそうになってどこかと合併しただらしのない銀行じゃないか。なんで他人を蔑むような態度に出るのか。銀行が駄目になるはずだ。
 折から「銀行の言うままになっていると、潰されますよ」とか言う本が売れているらしい。内容の大方の予想は付くが、読んでみたいと思う。

北朝鮮の人工衛星打ち上げで北朝鮮に付けが回る?

2009年03月14日 | Weblog
 北朝鮮の人工衛星打ち上げの予告が問題になっている。一番の問題が乗せる物を核弾頭にも出来ると言う事だ。次には同国が危険空域としている所だ。そこを飛ぶ航空機に危険が及ぶし、日本だって、途中で何かが落ちて来るかも知れない。北朝鮮の技術に大幅な信頼は置けない。
 こうした事は各紙でも採り上げているだろうが、東京新聞のコラム「筆洗」(今日14日)の結論に疑問がある。
 現在宇宙には直径10センチ以上の物だけでも1万数千個の宇宙ごみがあると言う。運用を停止した人工衛星やロケットの一部、衛星が衝突して飛び散った破片などだ。それが時速3万キロと言う速さで飛んでいると言う。
 後の事を考えずに無闇に人工衛星打ち上げて来た付けだ、と、私は読み損なったが、物理学者の池内了んが書いていると言う。有人宇宙船に衝突する危険が最近あったそうだが、こうしたごみは地球の引力に引かれて落ちて来て、大気圏内で燃え尽きるなどと言う事はないのだろうか。「宇宙清掃公社」の機能を果たす衛星を、との提案もあるそうだから、やはりごみとして障害になるのだろう。
 こうした前提の下に、先のコラムの結論について考える。その結論は次のようになっている。

 折しも、北朝鮮が自称「人工衛星」の打ち上げを予告した。日本列島を飛び越すといい、宇宙ごみを増やす以前に、危険極まりない話だ。周辺国の制止や国連決議を無視して強行すれば、自国につけが回ってくるだけだろう。

 この「自国に回ってくるつけ」がどのような事なのか、私には具体的に分からない。各国が後先構わず打ち上げたその付けが宇宙ごみである事は分かる。その付けは打ち上げた国に限らず、全世界に付けとして回って来る。付けが、打ち上げた衛星にごみが衝突する事なのであれば、これからは衛星の打ち上げも活発になるだろうから、まさに「付け」である。先に打ち上げた国々とこれから打ち上げる国々はほぼ同じだろうから、そう言えるはずだ。
 だが今回の北朝鮮の打ち上げは、そうした世界中への付けにはなるが、北朝鮮への付けとは必ずしもならない。この付けは、「周辺国の制止や国連決議を無視して強行すれば」との前提で成り立っている話である。つまり、単なる打ち上げではない。世界中の反対を押し切って、と言うのだから、その付けは北朝鮮への制裁でしかあり得ないのではないか。
 多分、コラムはそう言いたいのだと思う。付けが回るとは、報いがあるとの意味である。世界を敵に回したのだから、自分が今度は敵になる、それが報いである。各国が勝手に衛星を打ち上げたから、その各国に衛星が徒(あだ)となる、それが報いであり、付けである。自分に回って来なければ、付けとは言えない。
 だから北朝鮮が世界中から敵と見なされる事を具体的に示さないと、この話はおかしくなる。それにはまずは制裁処置があり得ると言う事を明確に言うべきである。北朝鮮への制裁はなぜかいつもトーンダウンしてしまう。最初は景気がいいが、必ず尻つぼみになる。日本は北朝鮮に拉致被害者が居ると言う事情がある。それは韓国にしたって同じなのだが、なぜか韓国は太陽政策などと言うのを掲げて、北と仲良くしようとした。同じ民族なんだから、拉致されてもそれほどの不幸とは思わないのか。だとすれば、ひどく鈍感な国だ。
 小泉は北朝鮮に行って、中途半端なそれこそ後に悔いを残すような取引をして、自分の政権の底入れに使った。なんで日本は腰が引けているんだ。アメリカに気兼ねして、多分、中国にも気を遣っているに違いない。自分の国の事なんだから、正々堂々と主張すべきではないか。
 政権担当者にとっては、拉致被害者は赤の他人なのだ。だから一向に身を入れて考えようとはしないのである。そんな事よりも、自分の身の方が大事なのである。

 今回の打ち上げは、日本にとってはまさに危機である。北朝鮮が危険区域としたのは、日本海と日本からそう遠くはない太平洋上なのである。日本が衛星の打ち上げで、どこどこが危険区域になりますよ、などと言った事があるだろうか。
 衛星の打ち上げについて私は詳しくは知らない。だが、新聞のコラムであれば、こうした数々の疑問が出ないような書き方をすべきである。北朝鮮に回って来る付けが何であるかを明確にすべきだ。
 私の考え過ぎですか?

皇室にはプライバシーは無いのか

2009年03月13日 | Weblog
 「週刊誌を読む」のタイトルで、週刊誌の批評をしているコラムがある(東京新聞)。そこに9日、「皇室で何が起きているのか、一般の市民に分かるようにすべきではないだろうか」と書かれていた。
 だが、私はそうは思わない。皇室で何が起きているか、とは、週刊誌が次々と伝えている事柄を指している。それは例えば、「皇太子さま、会見打ち切りで大紛糾」とか「皇太子さま悲痛な叫び」「皇太子さま『誕生日会見』異変 報道されなかった空白の20分の裏側」などといった内容である。
 問題の核心は皇太子が異例の追加記者会見を行い、そこで雅子妃が公務の出席が十分でない事に対して、週刊誌などが批判している事への弁明とも受け取られる発言をした、と言うのである。同妃が「一つの公務に全力を傾けるため、疲れが残り、次から次へと新しい公務をすることがまだ難しい」と言う内容だった。
 要するに、皇太子妃が公務に就かない事が多い事を、週刊誌は様々に取り沙汰し、皇室内部に不和がある、などと言うような事を書き立てているのが問題を提起しているのだ。それが「分かりにくい皇室報道」になって現れていると言うのである。

 つまり、このコラムはそうした分かりにくさを払拭し、我々一般がそうした話を理解出来るようにせよ、と言うのらしい。私が「そうは思わない」と言ったのは、皇室の内輪の情況など、我々が知る必要は無い、と言う事である。よその家庭の事情をあれこれと探るのは下司のやる事である。「下司」は「げす」と読む。「下種」とも「下衆」とも書く。要するに「心の卑しい人」の事である。
 皇室は日本の象徴たる存在である。その象徴は公務を通して我々の前に登場する。それで十分であり、それ以上を望む必要は全く無い。そうでしょう。我々は麻生総理の家庭の事情を知りたいと思うか。思いやしない。小泉元総理のファーストレディーを我々は知らない。何で知らないのか。姿を見せないからだ。何で姿を見せないのか。そうした事を週刊誌は根ほり葉ほり書き立てたか。
 なぜ書き立てなかったのか、あるいは、麻生総理の事をなぜ書き立てないのか。理由は明白である。魅力が無いからだ。しかし皇室には大きな魅力がある。総理にならなろうと思えばなれる。だが、皇族にはどんな事をしたってなれやしない。妃殿下になる方法はあるが、その可能性は極めて低い。だから絶対的な魅力がある。雲の上の人に対する魅力がある。

 騒がれてなんぼ、と言う芸能人とは違う。芸能人はスキャンダルだって売り物にするし、出来る。だが皇室が芸能人と同じあって良い訳が無い。あくまでも公務を行ってこそ、その価値が認められるはずである。仕事に私情を持ち込むな、とは社会人としての基本である。仕事は仕事。家庭は家庭。仕事とはそうした物である。皇室の公務がその原則から外れるはずが無い。天皇ご夫妻が、皇太子ご夫妻が登場するのは、夫婦としてではない。天皇・皇后として、皇太子・皇太子妃として、公務の顔で登場するのである。
 このコラムも、皇室をめぐる話を報道しているのはほとんど週刊誌だけだ、と書いている。一般紙は書かない。なぜなら、それが良識だからだ。それなのに、この執筆者は、次のように言う。
 「天皇家と皇太子夫妻の確執といった話が週刊誌で仰々しく伝えられるのだが、どこまで本当なのかわからない。もう少し情報開示の仕方を考え、皇室で何が起きているのか、一般の市民にわかるようにすべきではないだろうか」
 この最後の部分が冒頭に紹介した文章である。何が起きているのか分からなくて当然なのである。週刊誌が興味本位で書くのが間違っているだけの話である。この執筆者は、御自分の家庭で、自分の両親と奥さんの間に確執があった場合、それを分かり易く周囲に知らせるべきだ、とでも言うのだろうか。著名人と一般人は違う、などと言う理屈は通らない。
 あるべきは、人間としての尊厳をどこまで守れるか、のはずである。それの出来ない人間は自分の尊厳もまた守られないと知るべきである。

 

おかしなコラムで「人が居ない」現実を知った

2009年03月12日 | Weblog
 毎日ブログを書くのは結構大変である。常に関心のある事ばかりある訳ではない。それに書く以上はきちんとした事を書きたい。そうなると、最低でも1時間半は掛かる。外で仕事をしている日にはその時間をひねり出すのがとても難しい。だから時々、休んでしまおうかな、と思う。だがせっかく訪れてくれた人にそれではあまりにも失礼になる。
 更には、褒めてくれる人などがいれば、もう嬉しくて、やっぱり休めないな、と思ってしまう。
 日頃からきちんと結論の出ている事柄ならあまり苦労は無いのだが、自分でもきちんとは考えていない事に言及するとなると、それはもう大変。四苦八苦して、それで2時間とか3時間は経ってしまう。それでも、翌日その書いた物を見直すと、あちこちに駄目な所がある事を発見する。だから書き直しに更に時間が掛かる。
 それでも、これは私の文章修業になっている。考え方の修業にもなっている。だから苦労してもやり甲斐がある。そうしてみると、毎日、新聞のコラムを書く人は本当に苦労しているのだろう、と思う。どこかの新聞では、コラム担当は一人で、それしか仕事を持っていないとあった。一日掛かりなら見事なコラムになっても当然である。テーマを探す苦労はあるが、なかなかおいしい仕事ではないか、と私は羨んでしまう。

 それなのに、先日書いたように、おかしな考えのコラムがある。ある新聞には自分の書いたコラムに間違いがあったのに気付き、その訂正をしているのだが、訂正ではなく、単なる言い訳、それも非常に分かりにくい言い訳になっていた例がある。何とかして間違いである事を隠したいとの気持が、おかしな分からない文章になっている。それならいっその事、黙っていればいいのに、と思う。でも中途半端な良心がそれを許さなかったのだろう。
 でも不思議である。記事はデスクが読み、更には校閲者の目もある。少なくとも二人の専門家の目を潜り抜けている。先日のコラムにしても今挙げた過去のコラムにしても、決して難しい内容ではない。それなのに、二人もの専門家がおかしな事を納得してしまっている。実におかしい。もしかしたら、コラムはかなり「偉い人」が書いていて、デスクも校閲も文句を言えないのか。でもそれでは新聞の権威が失墜する。

 何か、今の民主党と同じような気がする。小沢氏に党首を辞めろ、と世間の大多数が言っても、党内には同じ事を言う人が居ない。つまり、世間が駄目だ、と言っている人が一番偉い人なんだから、誰も文句を言えない。だから民主党の権威は失墜してしまっている。
 民主党に権威なんか元々無いよ、と言うなかれ。無ければ無いで、更に落ちてしまった、と言っているだけである。
 本当に人が居ないんだねえ。骨があるなあ、と思えば、党を追ん出てしまったりして。党を頼らなければ選挙に勝てない人ばかりじゃ、どうにもならない。無党派層が圧倒的に多いんだから、既成の政党はもうやってけないのだ、と言う事くらい分かりそうなものなのに、やはり、群れている方が強いのか。

 吉田茂と言う人が、どのような政治家だったのか、不勉強で知らないが、『大人の見識』(阿川弘之 新潮新書)に楽しい話が載っている。
 外相だった吉田氏が進駐軍総司令部(GHQ)に行って、「GHQとはどういう意味か」と聞いたのだと言う。総司令官のマッカーサーが「ジェネラル・ヘッド・クォーターズの略で」答えると、吉田外相はこう言った。
 「ああ、そうでしたか。私はGo home quickly!の略かと思っていた」
 聞いた方も聞いた方だが、答えた方も答えた方だ。あまりにも面白過ぎて、作り話か、と疑ってしまうほどだ。
 当時、天皇より上位に立っていた占領軍の最高責任者にこれだけの事を言う度胸がある。それは様々な見識に裏打ちされた度胸である。こんな人、今の日本にはどこを探したって居やしない。一番の権力者がアメリカに行けば、ただ尻尾を振るだけ。見識なんかまるで無し。
 吉田氏も偉かったが、マッカーサーも偉かったと私は思う。今のアメリカの権力者なら、即座に吉田氏を更迭していただろうからね。
 麻生総理の祖父は吉田茂と言う人らしい。ここに出て来たあの総理大臣を務めた吉田茂氏とは同姓同名の赤の他人ですよね。
 
 



小沢さんが変な事を言っている

2009年03月11日 | Weblog
 小沢さんが「国民のみなさんにご迷惑を掛けて申し訳ない」と詫びている。へーえ、我々はいつどんな迷惑を掛けられたのだろうか。もしかしたら、小沢さんを疑って、民主党の党首を辞任すべきだ、とか、民主党の人気に多少かげりが出た事を指しているのだろうか。そうだとすると、ずいぶんといい気なもんだ。国民の期待を一身に担っているのに、その信頼を揺るがせた、とでも思っているのだろう。
 冗談じゃない。我々は民主党にそんなに期待を掛けてなどいない。自民党と公明党の政権よりは多少はましだろうと言うだけの話である。同じ穴のナントカである疑いは濃厚にある。ナントカ、と言うのは「むじな」では穴熊や狸に失礼だと思うからだ。
 我々は小沢さんに十分に疑いを持っている。「政治資金規正法に基づく記載に虚偽の疑いがある、などと分かりにくい事を言うから、疑われてしまう」とも言っている。帳簿の記載に間違いがある、と言えば、疑われずに済むのだ、と非難する。
 そうなのだ。分かり易くしてしまうから、疑惑が明白になるのである。そうした疑惑を分かりにくい専門的な表現をして隠そうとの魂胆がありありと見える。小沢さんともあろう者が帳簿に間違いなどあろうはずが無い。

 小沢さんが当初から堂々とあらゆる疑いを否定しているのは、やり方に絶対の自信を持っているからだ、と言われている。どんな捜査をしても引っ掛からないだけの自信がある。それだけの仕組みが出来上がっているのだろう。だが、俗に「上手の手から水が漏る」と言う。
 西松建設との間に汚い関係があるのかどうかは知らない。しかし汚くないとしても、毎年多額の献金がある以上、建設業界に力を持つ小沢さんに見返りを期待しているのは当然である。どこの世界に只で大金を上げる奴がいるか。そうでないとしても、「慈善事業」にはどこか胡散臭い臭いが付きまとっている。
 今、世の中で大きな顔をして、悪事がはびこっている。やり方が法に触れない限り、司法は手が出せない。だから悪人は巧妙に法の抜け穴を探す。そこには法の不備もある。法に触れなくても悪事は悪事だと我々は知っている。法に関する知識が無いからこそ、本能的に悪事を見抜く事が出来る。
 なまじ変な知識が豊富な人間は、結局、墓穴を掘る。

 政治家も大企業も我々の力をみくびっている。そりゃあ我々は時には駄目な政治家を見抜けなかったりする。簡単に騙されもする。大企業の汚いやり方が分からなかったりする。その見事な製品にやはり騙されてしまう。
 けれども、本当に怖いのは我々庶民の力なのだ。その力が恐ろしいからこそ、あらゆる手を使っていつまでも我々を愚民のままにしておこうとしている。その手先になっている奴らが誰々か、我々は気が付き始めている。そうとは気が付かずに手先になっている哀れな連中もいるが、それは同情には値しない。目先の欲に眩んで、真実が見えなくなっているだけの事である。
 ねえ、一度、欲を捨ててごらん。ずっと気が楽になるよ。そして本当の事が見えて来るよ。一度財産などを持ってしまうと、その素晴らしさに負けて、死ぬまで欲と道連れになるんだろうね。権力だって、所詮は財産に繋がるからみんなが欲しがるのである。

「記憶にございません」がまた出て来たぞ

2009年03月10日 | Weblog
 懐かしい言葉だ、「記憶にございません」は。ロッキードだったか、リクルートだったか、疑惑の事件で証人がたびたび「記憶にございません」と発言した。結局は有罪になった訳だが、本当に往生際の悪い事、はなはだしい。
 「政府高官」なんて言い方、「まるでものすごく立派で偉い人のようじゃないか」と昨日書いた。どこの誰だか明確にしろ、と言った。それが内閣官房副長官だと分かった。「副長官」と言う「副」の文字に騙されてしまいそうだが、どっこい、全閣僚を束ねる地位だと言う。なるほど、「立派」ではないが、「偉い」事には間違い無い。
 その「偉い人」が、大勢の記者達が鮮明に覚えている事に対して「記憶にございません」。そんな頭の悪い奴がよくも全閣僚を束ねる事が出来るもんだ。彼は、「私は馬鹿でございます」と明言していると言う事に気が付いていない。あたかも免罪符が如く思っている。
 「記憶に無い=言いたくない」である事ぐらい、国民は誰もが知っている。つまり、「政府高官」が決して頭が悪いなどとは思っていない。反対に、すごくずる賢いと思っている。汚い人間だとも思っている。結局は「記憶にございません=言いたくありません=私は馬鹿でございます=私はずる賢い人間です=私は汚い人間です」がきちんと成立してしまっている。

 麻生さん、ほんのわずか人気が回復したからといい気になっていてはいけない。「人気」はともかく、「任期」は風前のともしびなんだから。その人気だって、小沢さんが沈んだからその分浮いただけじゃないか。でも、何で両方共に沈まないんだ? そうか、それに代わる人材が居ないもんね。
 献金を貰っている建設会社と同じビルの中に事務所を持っている二階氏も、上記と同じ図式を我々に示してくれている。
 漢字を読めない、言葉を知らない麻生さんの下には、居るわ居るわ、駄目な人ばかりごろごろしている。子供を見れば親が分かると言う。反対に親を見ても、なるほど、だからあの子はこの程度なのか、と分かる。

 そうかと思えば、あのオバマ氏。今までに一番プロンプター(カンニングペーパー)に頼り切っている大統領だとアメリカの新聞が批判していると、今朝のテレビが伝えている。右を見、左を見て演説しているのは、プロンプターが左右交互に出て来るからだそうで、これまた巧妙にそれを隠すのに一役買っている。

 何だ何だ。どこもかしこも駄目な政治家ばかりじゃないか。私はオバマの演説に以前、感激した。日本人の政治家が誰も彼もが原稿を読んでいるのに対して、自分自身の言葉で語っていると。あれは、本当に本人の訴えたい事だったから出来たのに違いない。
 しかし、実際の政治政策の演説になると、途端に化けの皮が剥がれてしまう。無惨である。まあ、私はアメリカの事は分からないが、日本ではまさに「同じ穴のむじな」ばかりの世の中なのである。
 ある大企業が不況を理由に社員の首を切ると、我も我もと他の大企業が続く。「むじな」とは「タヌキの別名」「アナグマの別名」と二つの辞書にはある。別の辞書には「アナグマの別名。混同して、タヌキを指すこともある」と書かれている。ついでにもう一冊見る。「アナグマの別称」「タヌキのこと。毛色がアナグマに似ていることからの混同」。
 つまりは「アナグマ」が正解で、アナグマに毛の色が似ているタヌキが間違えられて「むじな」と呼ばれているらしい。
 私はアナグマを知らない。だが、アナグマにしてもタヌキにしても、汚い奴らと同じにされて、怒っているに違いない。