夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

卒業式もテレビショー化している?

2009年03月29日 | Weblog
 小学校の卒業式に参列した。自分の時の事はもちろん、息子の卒業式も記憶が無い。息子の場合は、平日だったので、妻が出たのかも知れない。いずれにしても、私には初体験に近い。そして、見事にショー化されているのに感心した。多分、卒業生の人数が少ないのも理由だろう。今回は全員で30名である。ここは特に生徒数が少ないのだが、東京の都心から電車でわずか15分足らずの所、中央区のすぐ隣の区で、この生徒数である。
 まずは、送る側が全員揃った所で、卒業生が一人一人、適当な間隔を開けて入場して来る。四、五年生がリコーダーの「歓喜の歌」の演奏で迎える。その間、参列者は拍手をしている。ゆっくりと演出効果を考えて入って来るから、時間の掛かる事。だからこちらは手が痛くなって来る。全員席に着いたらいよいよ式の始まりだ。
 壇上で一人一人が校長先生から卒業証書を受け取る。昔は「以下同文」で代表一人だけが証書を授与されたが、今は違う。あいうえお順で、最初の一人が全文を読まれるが,後は名前だけで、けれどもちゃんと一人一人校長から証書を受け取る。そして先生と職員の前で挨拶のお辞儀をして席に戻る。これまた相当な時間を要する。もっとも、これが式のメインだからそれで良い。
 卒業生がお礼の言葉を述べるのも全員参加型である。長い文章を短く区切って、それを一人ずつ、うまく繋げて大きな声で話す。重要な部分は全員だ。こうした事は何度も練習をしないと出来ない。つまり、入念にリハーサルが行われている。私の時はどうだっただろう。どうも式の練習をした覚えが無い。
 送る側も同じである。これまた一糸乱れず、である。そう言えば、立つのも座るのも本当に「一斉に」である。今の子供は器用なんだなあ、と感心してしまった。
 在校生が合唱で送ると、卒業生も合唱でそれに応える。歌も見事である。きれいにハモっている。だが、それらの歌は私に取っては初めてで、全く分からない。「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われない。唯一私の知っていた歌は、式の始めに歌われた国歌「君が代」だけだった。その「君が代」では誰一人歌うのを拒否するような人は居なかった。当然である。ついでながら、来賓の挨拶では、全員が壇上に飾られた国旗「日の丸」に一礼する。
 実は「仰げば尊し」で泣き出す子が居るのでは、と私は密かに楽しみにしていたのだ。目を拭っていたのは、全員でのお礼の言葉を口にしている時だった。演出とは言え、やはり心が籠っている。
 最後に、始めと同じようにして,一人一人退出する。それもまた拍手で送り出す。ホント、ずっと手を叩きっぱなしだよ。でも、あっ、こんな子もいたんだ、あれっ? まだ四年生か五年生だと思っていたのに、そうか六年生だったのか、などと思う子も居る。一人一人をじっくりと見送れるのも無駄ではない。

 そうそう、挨拶と言えば、全員が原稿の朗読である。読むのが下手な人は「申し上げます」を「申し」「上げます」と切って読んでしまう。多分、事前に目を通していなかったんだね。そんな下手な朗読で感動する訳が無い。その点、校長先生の挨拶は見事だった。きちんとご自分の言葉で心を込めた挨拶になっている。PTA会長のお母さんの挨拶も素晴らしかった。原稿は用意してあったが、ほとんどがちゃんと話になっている。
 思うに、日頃接している子供への愛情が現れる訳だ。だから来賓の挨拶は通り一遍の形だけの物になってしまう。間違えたって、つっかえたっていいじゃないか。自分の言葉で自分の心で話そうよ。そんなに長い挨拶でもないのだから。そうか、そんな簡単な事でさえ彼等は出来ないのか。それが来賓なのである。原稿を読み上げる事で、私はあなた方に何の愛情も持っていませんよ、と正直に白状してしまっている。呼ばれたから、型通りの挨拶文を作って、読んでるんですよ、と言っている。

 形は必要だ。特にこうした卒業式などでは格式高く、が求められている。それにはある程度の演出は必要だ。だが、それは式を効果的に運ぶためであって、感動を盛り上げる役割はあるが、感動を抑えるためではない。多くの場合に、形を守る事で、感動を薄くし、つまらない物にしてしまっている事に、主催者は気が付くべきである。来賓の挨拶は「ご自分のお言葉で」とお願いするべきである。上手い下手は関係無い。心が有るか無いかが重要なのだ。今、圧倒的に多いのが、下手で心の無い挨拶である。