夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

政治と義について、東京新聞は語る

2009年03月27日 | Weblog
 政治と義について26日の東京新聞のコラム「筆洗」が書いている。
 「自分の分身の秘書が政治資金をめぐり逮捕、起訴されたら、責任をとって職を辞す。これが政治指導者に共通する本来の義だろう。だが民主党の小沢一郎代表は違った。政権交代の実現という義を掲げ、続投を表明した」
 ここに「政治指導者に共通する本来の義」と「政権交代の実現という義」の二つが登場している。このコラムは冒頭で『広辞苑』の説明を引き、「義とは人間の行うべきすじみち」と書いている。つまり前者は「本来の」とあるから、この「人間の行うべき筋道」であり、後者はそうではない、と言っている事になる。「人間の行うべき筋道ではない義」とは何か。そんな「義」なんて存在しない。そうでしょう。
『広辞苑』を本質的に私は信用していないから、その説明を引くのは嫌なのだが,「義」については別に間違った事を言っているとは思えないので、引用する。
1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。「義務・正義」
2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。「義士・義挙・義捐金」
 この説明の「条理」がちょっと分かりにくいので、「条理にしたがい」と言われてもピンと来ない。そこで別の辞書の「条理」を見る。「話や行動の上に一本通っていなければならない筋道」。この辞書は「義」について「人間の行為のうちで、万人によってよいとされる所のもの」と簡潔に説明している。この説明を借りれば、先の「政権交代の実現という義」は「政権交代の実現という、人間の行為のうちで、万人によってよいとされる所のもの」となる。
 このような事をしなくても、政権交代が万人によって良いとされるもの、であるはずが無い。現在の政権が申し分なく良い物であれば、何も交代などしなくたって良いのである。今の政権が腐り切っているから、新鮮な正しい政権を、と交代を願うのである。
 コラムが引いた「人間の行うべきすじみち」だけでは分からない。人間の行うべき筋道なんて、考え方によっては幾通りもあり得る。コラム自身、「各様の義に戸惑うこともあろうが、最後は己の義を信じるしかあるまい」と言っている。そんな事を考えるから、「政権交代の実現」が簡単に「義」になってしまうのだ。つまり、コラムの言う「各様の義」には本来の義以外も含んでしまう事になる。で、「最後は己の義を信じる」になる。
 これって、絶対におかしいと思う。「己の義」だって、果たしてそれはどんな物なのか。これが「義=万人によって良いとされる筋道」なら話は分かる。繰り返しになるが、政権交代がそうではないし、分身の悪事に目をつぶる事がそもそもは外れている。『広辞苑』だって言ってるじゃないか。「利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと」と。
 もっとも、現在は「公共」までもが怪しくなってしまっている。電気料金を払えず送電停止になってろうそくで生活していた人がそのろうそくの火が原因で火事になり、焼死した。「公共」を標榜する電力会社は、それに対して、自治体に援助を頼み、それで料金を支払え、としか言わない。それが「公共」である。同じく公共の鉄道会社が赤字となりそうな路線をどんどん廃止してしまう。それが「公共」なのである。結局、欲を捨てなければ、「義」は成り立たないのである。

 こうやって考えてみて、先の『広辞苑』の「義」の二つの意味はおかしいと思う。「別に間違ってはいない」と早合点したのは明確に間違いだった。1と2の二つがあるのではなく、この二つは一つなのだ。「利害を捨てて条理に従い、人道・公共のために尽くすと言う人間の行うべき筋道」とするのが正しいのである。二つに分けてしまうから、「人間の行うべき筋道」と「人道・公共のために尽くす事」が別々の事と捉えられてしまうのである。そして、しつこいだろうが、「人道・公共のために尽くすのではない人間の行うべき筋道」などが登場してしまうのである。
 このコラムは、小沢代表の行動を「義」と捉えてしまった事によって、結局は曖昧な物言いになってしまった。政治資金規正法に違反していない以上、正しいのだ、と言う図々しい言い訳が通らない事は世間のみんなが知っている。今日27日の東京新聞の第一面には、小沢代表の辞任を要求する世論が66・6%に上った、と書かれている。それなのに、このコラムはその言い訳を「義」だと言っている事になる。私の読み方、間違っているだろうか。今日は旧3月1日。もっと春らしい事を書きたかったのに。