夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

皇室にはプライバシーは無いのか

2009年03月13日 | Weblog
 「週刊誌を読む」のタイトルで、週刊誌の批評をしているコラムがある(東京新聞)。そこに9日、「皇室で何が起きているのか、一般の市民に分かるようにすべきではないだろうか」と書かれていた。
 だが、私はそうは思わない。皇室で何が起きているか、とは、週刊誌が次々と伝えている事柄を指している。それは例えば、「皇太子さま、会見打ち切りで大紛糾」とか「皇太子さま悲痛な叫び」「皇太子さま『誕生日会見』異変 報道されなかった空白の20分の裏側」などといった内容である。
 問題の核心は皇太子が異例の追加記者会見を行い、そこで雅子妃が公務の出席が十分でない事に対して、週刊誌などが批判している事への弁明とも受け取られる発言をした、と言うのである。同妃が「一つの公務に全力を傾けるため、疲れが残り、次から次へと新しい公務をすることがまだ難しい」と言う内容だった。
 要するに、皇太子妃が公務に就かない事が多い事を、週刊誌は様々に取り沙汰し、皇室内部に不和がある、などと言うような事を書き立てているのが問題を提起しているのだ。それが「分かりにくい皇室報道」になって現れていると言うのである。

 つまり、このコラムはそうした分かりにくさを払拭し、我々一般がそうした話を理解出来るようにせよ、と言うのらしい。私が「そうは思わない」と言ったのは、皇室の内輪の情況など、我々が知る必要は無い、と言う事である。よその家庭の事情をあれこれと探るのは下司のやる事である。「下司」は「げす」と読む。「下種」とも「下衆」とも書く。要するに「心の卑しい人」の事である。
 皇室は日本の象徴たる存在である。その象徴は公務を通して我々の前に登場する。それで十分であり、それ以上を望む必要は全く無い。そうでしょう。我々は麻生総理の家庭の事情を知りたいと思うか。思いやしない。小泉元総理のファーストレディーを我々は知らない。何で知らないのか。姿を見せないからだ。何で姿を見せないのか。そうした事を週刊誌は根ほり葉ほり書き立てたか。
 なぜ書き立てなかったのか、あるいは、麻生総理の事をなぜ書き立てないのか。理由は明白である。魅力が無いからだ。しかし皇室には大きな魅力がある。総理にならなろうと思えばなれる。だが、皇族にはどんな事をしたってなれやしない。妃殿下になる方法はあるが、その可能性は極めて低い。だから絶対的な魅力がある。雲の上の人に対する魅力がある。

 騒がれてなんぼ、と言う芸能人とは違う。芸能人はスキャンダルだって売り物にするし、出来る。だが皇室が芸能人と同じあって良い訳が無い。あくまでも公務を行ってこそ、その価値が認められるはずである。仕事に私情を持ち込むな、とは社会人としての基本である。仕事は仕事。家庭は家庭。仕事とはそうした物である。皇室の公務がその原則から外れるはずが無い。天皇ご夫妻が、皇太子ご夫妻が登場するのは、夫婦としてではない。天皇・皇后として、皇太子・皇太子妃として、公務の顔で登場するのである。
 このコラムも、皇室をめぐる話を報道しているのはほとんど週刊誌だけだ、と書いている。一般紙は書かない。なぜなら、それが良識だからだ。それなのに、この執筆者は、次のように言う。
 「天皇家と皇太子夫妻の確執といった話が週刊誌で仰々しく伝えられるのだが、どこまで本当なのかわからない。もう少し情報開示の仕方を考え、皇室で何が起きているのか、一般の市民にわかるようにすべきではないだろうか」
 この最後の部分が冒頭に紹介した文章である。何が起きているのか分からなくて当然なのである。週刊誌が興味本位で書くのが間違っているだけの話である。この執筆者は、御自分の家庭で、自分の両親と奥さんの間に確執があった場合、それを分かり易く周囲に知らせるべきだ、とでも言うのだろうか。著名人と一般人は違う、などと言う理屈は通らない。
 あるべきは、人間としての尊厳をどこまで守れるか、のはずである。それの出来ない人間は自分の尊厳もまた守られないと知るべきである。