夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

餃子とカレーと麻婆豆腐と愛犬と

2009年03月20日 | Weblog
 これは私の三大料理である。あ、愛犬は違います。愛犬を除いた三つの事です。これらは家族が文句なしに褒めてくれる。餃子など、息子は商売になる、とまで言ってくれる。私自身、そう思っている。味は良いし、焼き具合は良いし、見た目も抜群。カレーはタマネギを丁寧に炒め、リンゴのすり下ろしはもちろんの事、醤油、ソース、ケチャップ、チョコレートなどを始めとして、様々な物を入れる。それらが微妙なハーモニーを醸し出す。麻婆豆腐も麻婆豆腐の素などは使わない。ショウガもニンニクも丁寧にみじん切りにする。
 料理は愛情である。家族に少しでも旨い物を食べさせたい、その思いがあればこそ、面倒な事も出来る。中国産のニンニクやショウガなど、どんなに安くても絶対に使わない。豆板醤と甜面醤は仕方が無い。
 何でこんな事を言い出したのかと言うと、我が家の愛犬ポンタがこれらを喜んで食べるからである。カレーも麻婆豆腐も中辛である。それを三歳になったポメラニアンが喜んで食べる。くれくれ、と言うから試しにやってみた。まさか食べるとは思わなかった。だからこちらは面白半分だった。辛さに辟易して、参ったと言うと思った。
 餃子はニンニクもニラもたっぷり入っているから、食べさせるつもりは毛頭なかった。だが、ちょっと用があって、私が自分の分を二つだけ残して席を立った。椅子をテーブルの下に入れてなかったのが悪かった。席に戻ると、犬がブーブーと怒っている。これは何か悪い事をした時の牽制であるのは分かっている。怒られる前に、俺は何も悪い事はしてないぞ、と牽制球を放つのである。馬鹿だねえ。黙っていれば分からないものを。
 ははあ、と思ってテーブルの上を見渡して、すぐに分かった。取っておいた餃子二つが見事に姿を消している。味の出来が良いから、ラー油を垂らした酢醤油を付けなくても旨いんだ。
 カレーは、ご飯が大好きな犬なので、試しにご飯に少々のカレーをまぶして与えた。ぺろりと平らげてしまった。息子に話すと、自分もやってみて、「あああー、カレー食べてるよ」と悲鳴を上げる。
 麻婆豆腐も同じだ。カレーよりももっと辛い。自分で豆板醤と甜面醤の案配を目分量で入れているから、その都度辛さは違うが、辛い事に違いは無い。テーブルの上にこぼしてしまったのを食べてしまったから、妻が試しにご飯に混ぜて与えた。おいおい、と私は止めたのだが、それをぺろりと平らげた。夜中に喉が渇いたって知らないぞ。
 
 ポンタは私にべったりである。どこに行くにも付いて来る。仕事中は仕事部屋に居るし、寝る時は私の布団の上である。掛け布団のど真ん中にどっかりと居座っているから、寝返りを打とうにもどうにもならない。朝になって、私が寝ていれば、何時になろうが、一緒になって寝ている。起きればすぐに飛び付いて来る。
 妻は、あんたを飼い主ではなく、友達だと思ってるのよ、と言うが、妻と私が言い争いになって、互いに大声を上げると、ポンタは決まってもの凄い勢いで妻に吠え掛かる。今にも噛みつかんばかりの勢いである。俺の飼い主をいじめちゃいかん、と言っているのである。私が飼い主でなければ、妻が飼い主になるはずだ。本当の飼い主で実質的にも買い主である息子はほとんど家には居ないので、単に怖いお兄さんに過ぎない。飼い主にはなり得ない。以前のポメラニアンは仲裁をするように、両方に等分に吠えた。どっちも悪いんだ、と。
 飼い主に猛然と吠え掛かるとは思えないから、結局、私が飼い主と言う事になる。その飼い主の作った物を喜んで食べる。と言うと出来過ぎになる。まあ、はっきり言えば何でも食べる犬なのである。飼い主に似て、酒にも目が無い。ビールだけは駄目だが、あとは何でもござれ。酒の瓶を床に置こうものなら、すぐにやって来て、瓶の口の所をぺろぺろ舐める。
 以前、赤ワインを飲みながら寝ころんでテレビを見ていた。するとぴちゃぴちゃと音がする。何と、ポンタがグラスのワインを舐めていたのだ。渋い赤ワインをである。
 
 飼い主と言ったが、どうも我が家には飼い主はいないらしい。強いて言えば、何の面倒もみないが、息子が飼い主かも知れない。渋々ながら、言う事を聞くからだ。私はどうも親だと思われているらしい。だから甘えるし、時にはわがままになる。そうなると妻は? よそのおばさんか。
 
 思うのだが、犬は頭では考えない。本能ですべてを見抜いている。だから騙せない。人間も、もっと本能を生かせば良い。本能と言っても欲望の事ではない。潜在能力と言うか、人間に本来備わっている物を見分ける力の事である。素直に物を見れば、真の姿が見える。そうした事をしないから、欲に目が眩んで物を見ているから、おかしな事、変な事、駄目な事、ずるい事、卑怯な事、許せない事、汚い事、そうした数々の悪事を見逃してしまうのである。