夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「新製品が発売」は間違い。プロなら日本語を勉強し直せ

2008年07月21日 | Weblog
 「○○が発売」の類の言い方が大流行である。テレビの若いアナウンサーは全員と言えるほど使うし、有名週刊誌も見出しで使っているし、新聞でさえ使っている。誰もが何の不思議も感じずにごく自然に使っている。
 言うまでもなく「○○が××」の○○は主語になる。従って、「○○=××」か「○○が××する」にしかならない。この例で言えば「○○=発売」はあり得ない。従って、「○○が発売する」にしかならない。
 だが言っているのは、すべて「○○が××される」なのである。
 実はこの言い方はかなり前からされていた。特によく見掛けたのが、家事や料理での説明である。「される」ではなく「させる」なのだが、「○○を乾燥」が典型的な例である。これは「乾燥させる」の意味で使われている。それ以外には考えられない。
 書いているのが家事評論家とか料理研究家といった人々であり、まあ、日本語にはそんなに真剣ではないのだろうと思っていたのだが、言葉のプロまで洗脳されているとなると、脳天気に考えている訳には行かなくなる。

 漢字熟語の「発売」とか「乾燥」などは名詞も動詞もある。それが中国語本来の使い方である。中国語は確か語順で言葉の役目が決まっているはずだ。だから「発売」「乾燥」が名詞か動詞かは一目瞭然のはず。従って、「発売」「乾燥」で何ら問題は無い。
 動詞と決まって、これが「発売させる」なら「発売」の前に「使」を使って使役の意味を表す。「発売される」なら同じく「発売」の前に「被」を使って受身の意味を表す。
 そうした働きを日本語では「発売」に付ける助動詞で表す。これは日本語の常識、言い替えれば日本人の常識である。そんな事、いちいち考えなくとも自然に出来る。それが日本人なのである。
 「する」「させる」「される」の中で、唯一、省いても意味が通じるのが「する」なのだ。自動詞、他動詞の区別も簡単に出来る。「運動」なら「○○が運動」は通じるが、「○○を運動」なら言葉にはならない。それを自然に分かるのが日本人なのである。

 それが全くでたらめになってしまった。日本語を知らない、と言ってしまえばそれまでだが、日本人が日本語を知らないで済む訳が無い。
 大新聞でさえ「警部が痴漢で逮捕」などと見出しを付けている。これは「警部が痴漢を逮捕した」のではない。「警部が痴漢で逮捕された」のである。当然ながら、「警部を逮捕」でなくてはならない。

 以下、○○、××では分かりにくいので、具体的な名称を入れる。「新製品が発売」の言い方がされている訳は分かる。「新製品」を目立たせたいのである。だから「を」では駄目なのだ。「を」であれば、主語が必要になる。しかしこの言い方では主語は不要だ。あってはならない。主語を想定する事すら駄目なのだ。そんな事をしたら「新製品」が目立たなくなる。
 「新製品」をまるで主語のように仕立ててしかも「発売」と繋げる。それには一つしか方法は無い。「新製品発売」にするのである。「発売」は先に言ったように、「発売する」である。だから「新製品発売」には言外に誰々が、とか何々が、と言う主語が存在している。だから「新製品発売」で「新製品を発売」と受け取る事が可能になる。

 そうした事が成り立っているから主語が無く、目的語である事も明確にせずに、「新製品発売」が通用するのである。
 新聞などの見出しでは、それを明確にするために「新製品 発売」などと両者の間を開ける。
 だが、この方式は話し言葉では成り立たない。「しんせいひん はつばい」と言ってみたところで、文字での表現に比べれば、その確実性は非常に低くなる。それに話し言葉でそのような表現をする必要はないのである。ほとんどがそうした短い表現ではなく、「新製品が発売です」などと文章になっている。それなら「新製品が発売されています」でも「新製品を発売しています」でも同じである。
 つまり、「新製品発売」に丁寧語である「です」を付けただけの事なのである。それが変な言い方になるから、仕方なく「が」を入れた。本来なら「を」になるべきだが、「新製品」を主語のように考えているから、「新製品が発売です」となってしまうのである。
 どこかの誰かが血迷って、そうしたのであろう。不幸な事に、日本語をよく知らない人間がそれをして、同じような人間がそれに追従してしまった。

 私は不思議で不思議で仕方がない。なんで、「○○が発売」などと言って、おかしいと思わないのかと。いやしくも、言葉を武器にしている仕事人が正しい日本語感覚を持たずに商売をしている。仕事を舐めてはいけない。
 「新製品発売」のように「新製品」と「発売」の関係をぼかしているから、この言い方で通ると説明している本がある。そうではないだろう。ぼかしてなどいない。「発売」が明確に「発売する」である事が感覚的に分かっているから、「を」が無くても良いのである。この本も言うまでもなくプロが書いている。ああ、情けない。

日本語表記の多くが漢字と仮名のバランスが悪い

2008年07月20日 | Weblog
 7月20日の「題名のない音楽会」に女性ア・カペラのグループがビバルディの「四季」に歌詞を付けたものをイタリア語で歌った。素晴らしい歌声だった。画面には日本語訳が出る。その日本語訳の漢字と仮名のバランスがとても悪い。多分、日本語訳そのままを使っているのだろうが、字幕と言うのは、読み易さが命なのだ。映画の字幕が特殊な書体なのは(だったのは、に現在はなるのか。私は最近、劇場で映画を見た事が無いのです。恥ずかしいが)少しでも読み易くする工夫だった。だから、テレビだって同じはずなのだ。元の訳詞にこだわる必要は無い。
 そのバランスだが、ほんの一例を挙げれば、「嬉しい」は漢字なのに「対して」は平仮名で「たいして」となる。以下こうした事が延々と続く。

 字音語を漢字にして和語を仮名にする、と言う人は少なからず存在する。和語は元々、漢字を頼らずに生まれている、との考えである。馬鹿だなあ、と私は思う。字音語を漢字にするのは同音異義語があるからだ。漢字で意味を表さない事にはどうにもならない。
 けれども和語だって同音異義語が多い。「たいして」だって「対して」もあれば「大して」もある。前後関係で分かると言うのかも知れないが、それなら字音語だって多くの場合に前後関係で分かる。分からないのは「科学」と「化学」などがそうだが、そんなに多くはない。
 問題にしているテレビの字幕は、和語で漢字にしたり仮名にしたりと節操が無い。つまりどのように区別しているのか、その根拠が全く分からない。多分、訳詞家の気分次第そのままなのだろう。個人的な感想だが、「対して」を「たいして」などと平気で書くような訳詞家を私は才能があるとは思わない。むしろ、日本語に対する感覚を疑ってしまう。
 常用漢字に従っているのでもない。常用漢字なら「嬉しい」は仮名書きになる。「対して」は漢字になる。つまり、単なる気まぐれに過ぎない。
 これほど極端ではないが、漢字と仮名のバランスの悪い人は非常に多い。バランスが悪い、と言うがそんなのはお前の勝手な感覚じゃないか、と言われるのは承知である。

 「私の子供は明日学校に行く」と言うこんな簡単な文章で、表記の仕方は理屈だけで言えば48通りにもなる。「私・わたし」「子供・子ども・こども」「明日・あす」「学校・がっこう」「行く・ゆく」の表記がそれぞれに組み合わさると、48もの組み合わせになるのだ。この中で「がっこう」は無いだろうから、それは無いとしても、24通りになる。
 では、この中でどれが一番バランスが良いと言えるのか。そんな事は誰も言えない。ただ、私は例文に出したような表記が一番バランスが良いと考えている。問題があるとするなら、「私」は常用漢字では「わたくし」としか読めず、「わたし」なら仮名書きにならざるを得ない事と、「明日」は熟字訓だが、「あした」とも「みょうにち」とも読めてしまう事が欠点とは言える。そこから、
 「わたしの子供はあす学校に行く」が最もバランスの良い表記になるのかも知れないが、これだって感覚の問題と言えよう。

 要するに、どのような表記が一番分かり易いのかを様々な場合に試行錯誤して決まって行くしか無いのだ。
 漢字としての難しさ、言葉としての明確さ、文字にした時の識別の良さ、そうしたもろもろの事をしっかりと考え、更には日本語の特色も考慮して、一つの表記に収斂して行くのが理想的だと考えている。
 だが、誰もそのような事を考える人はいないらしい。だから表記は表記辞典や国語辞典がそれぞれに自己主張をしているその通りになっている。そうした表記の内のごく一部、漢字と仮名で書き分けるのが当然とされている言葉を70いくつか採り上げて、どのように考えたらよいのか、の叩き台とも言うべき本を私は書いた。
 良い本を出していると認められている出版社がその意図を認めてくれたが、同社としては採算が採れないと言われた。ベストセラーばかりを出している出版社だから当然ではある。でも私は諦めてはいない。採算はトントンで良いから、人々のためになる本を出したいと言う出版社を探している。

 先日、国立国語研究所から手紙が届いた。私の二冊目の著書である「わかったようでわからない日本語」(洋泉社新書)(全く下手なタイトルを付けたもんだと、我ながら後悔しているが)の中からの数ページを現代語の書き言葉を対象とする大規模なデータベースに採録させて欲しいと言う。
 指定の箇所は〈「差別語」とは何か〉〈「計算」と「会計」のどちらの窓口で支払いをするのか〉〈「済みません」には謝罪の気持が感じられない〉〈「済みません」は「有難う」とも違うはずだ〉。
 こんなつたない文章が書き言葉のサンプルとして誰もが利用出来るデータベースに採り入れられるなんて、物書き冥利に尽きる。たかがデータベースに過ぎないが、多くの人々の目に触れる機会があるのかと思うと、こんな嬉しい事は無い。

 一つ宣伝をさせて下さい。
 先の「私の子供は……」は御自分で色々と書いてみれば、実態がよく分かると思うが、先述の『わかったようでわからない日本語』の中に、例文が「私」ではなく「私たち」となっているの違いはあるが、載せてある。ついでに同書を買って頂けたら、なんて都合の良い事を考えております。日垣隆氏が褒めて下さった事柄も載っていますので。

「ぶらり途中下車の旅」ローカルだとて気を抜くな

2008年07月19日 | Weblog
 日本テレビ(読売テレビ)の土曜日に「ぶらり途中下車の旅」と言う番組がある。首都圏、それも主に東京を中心とする鉄道の沿線紹介番組、いわゆるローカル番組である。だが重要な事はローカルではないから採り上げている。
 時々、途中下車でこんな所にまでは来ないだろう、と思われる場所が紹介されたりする。見せ場を探してそうなるのだろうし、知らない人が見ればそれで通る。そしてその方が絶対多数なのだから、仕方がない。
 ある時は途中下車して地域を紹介する旅人役は舞の海だった。途中居眠りをして、目が覚めたら初めてと言う駅だった。そこで下車して様々な所を紹介した。見ている方は下車駅の周辺だと思っている。ところが、最後に訪れた場所は、その電車で2駅も戻った場所だった。まあ、「鶯をたずねたずねて谷中まで」と言う句がある。あれっ? 谷中じゃなくて、根岸だったか? いずれにしても、次から次へと繋がるから、相当な距離を歩いていてもおかしくはない。
 だが、番組はその二つ戻った駅から、何も説明せずにそのまま舞の海を電車に乗せてしまうのである。結局、最後まで、その場所は目を覚まして降りた駅だと言う想定になっている。
 場所や人物の紹介番組なのだからそれで良いとも言える。だが番組名は「途中下車」なのである。下車した駅を無視して話を進めては看板が泣く。そうしたデタラメをするなら、「途中下車の旅」ではなく、「ぶらり 沿線紹介」とでもしたらいい。言うまでもなく、乗っては降りて、が面白いのである。

 7月19日、食べ物で「ソイ丼」が紹介された。大豆を使った丼である。そして「ソイ」とは英語で大豆だ、と説明があった。確かに英語では「ソイ=大豆」である。だが、「ソイ」その物は元々は日本語なのだ。
 「ソイ」とは醤油の事である。今でも地方によっては醤油を「ソイ」と呼ぶ。醤油がアメリカに渡って、多分日本人の移住者達が持ち込んだのだろう、アメリカ人にも人気になった。それを彼らは「ソイソース」と呼んだ。つまりは「醤油ソース」である。
 「ソイ=醤油」なのだが、醤油の原料は大豆だから、そこから大豆を「ソイ」と呼ぶようになった。ただ、不思議なのは、それまでアメリカ人は大豆を何と呼んでいたのか、である。当時、大豆はまだアメリカには無かったのか。

 一つの英和辞典にはsoy, soyaとあり、「しょう油(soy sauceともいう)、大豆」の二つの意味が挙がり、語源としては、日本語の「しょう油」のなまり、だとしている。
 これはかなり正しい説明だと思うが、いかになんでも「しょう油」の表記はないだろう。英和辞典だから日本語が駄目なのか。余談だが、日本人の最も基本的な食品名を、単に少し難しい漢字だからと使えなくするから、こんなおかしな事が起きるのである。「しょう油」が通るなら「味噌」は「味そ」になってしまう。「しょう油」のおかしさは、ちょっと考えればすぐ分かる。
 もう一つの英和辞典では、soyはsoy bean,soy sauceの二つの意味が挙がっているだけだ。soy beanには大豆とあり、単にsoy ともいう、とある。こちらだけを見れば、soy=大豆と思っても無理は無い。つまり、この辞典は番組と同じく、日本語に対する造詣が非常に浅い。ちなみに、この辞典は1996年版の「グリーンライトハウス英和辞典」(研究社)。

 もしかしたら、日本語の「そい」(醤油)と英語のsoy(大豆)がたまたまほとんど同じ発音だったのが原因か、とも考える余地はある。日本人が「そい」と言っている調味料だから、分かりやすく「ソース」を付けて呼んだ。それに、聞いてみれば、なんだ、大豆が原料ではないか。それなら「ソイソース=大豆ソース」でおかしくはない。
 研究社の辞典しか見なければ、これでも通る。だが、先の辞典(ニューセンチュリー英和辞典 三省堂)を見れば、この考え方は通らない。はっきりと、日本語の醤油が語源だと書いてあるのだ。

 番組の「ソイ丼」が英語のsoy だったとしても、英語で大豆だ、とだけしか言わないのは短絡的だと思う。アメリカで醤油=ソイソースが人気食品である知識があれば(いやいや、これはほとんど常識とも言えるのではないだろうか。少なくとも番組を作ろうなどと思う人間にとっては常識である)、杜撰な話である。何で英語のソイなんですか、と聞いたって罰は当たるまい。ちなみに今回の旅人は舞の海ではない。念のため。そこから話は違う展開を見せるかも知れないではないか。何と言うもったいない事をするのだろうか。もっとも、もったいないなどと思うのは私くらいかも知れないが。そして、番組には内容を校閲する人材はいないのだろうか。収録の終わっている番組の展開はどうにもならなくても、「ソイとは英語で大豆の事」との語りは訂正出来る。

日本語の分からない人間が裁判官になっている

2008年07月17日 | Weblog
 大型車のタイヤが外れて歩行者を直撃し、死亡させた事故があった。製造会社である三菱自動車の元役員が虚偽報告罪に問われたが、横浜簡易裁判所で無罪になった。2、3年前の事である。虚偽報告とは報告を改竄した事である。
 事故の原因となったハブの破損がリコールに該当するのでは、と国土交通省が同社に報告を要求した。それに対して同社はデータを改竄した報告書を提出した。破損の原因は整備上の問題だと見せ掛けたのである。
 だから同省はリコールには該当しないと判断した。
 その虚偽報告が道路運送車両法違反だと検察は主張し有罪を求めた。様々な証拠から報告書のデータの改竄の実態は明らかになっている。
 同省は虚偽報告とは当然に知らないから、その報告書を信じてリコールは必要無いと判断した。
 さて、この虚偽報告が罪になるかどうかである。誰だって、罪になると思う。道路運送車両法違反である。

 ところが、驚いた事には、裁判官は虚偽報告はあったと認めながら、それは罪にはならないと判断し、同社を無罪としたのである。
 何でこんな判決になったか。それが、日本語を知らない人間が裁判官になっている、との話になる。
 判決の主旨は、報告を命じたのが国土交通大臣ではないから、であった。道路運送車両法には、「報告要求は国土交通大臣がするものとする」とあるが、実際に要求をしたのは同省の役人であって、大臣の要求ではなかった、だから虚偽報告罪にはならない、と言うのが判決の理由である。

 では、その条文を見てみよう。
1 (リコールに該当するかの)報告要求は国交相がする。
2 (リコールに該当するかの)質問検査は職員にさせる。

 証拠上、当時の国交相が同社に対し、報告要求を行うことを自ら意思決定し、それを表示した事実は認められない、と判決は言うのである。確かに「報告要求は国交相がする」と書かれている。そして大臣が直接同社に報告要求をしたのではない。では、2の「質問検査は職員にさせる」の意味はどうなるのか。つまり、誰が質問検査をさせるのか、である。
 ここには大臣以上の権限者は居ない。そして「報告要求は国交相がする」との文言に続いて「質問検査は職員にさせる」とあるからには、「させる」の主語は「国交相」になるに決まっている。そうした事が分からなければ、こうした文章は読めない。
 更には「報告要求」とは何を指すのか。何の報告なのか。質問検査の答の報告に決まっている。質問検査をしてその答を要求しないなど、あるはずがない。それでは質問検査する意味が無い。
 つまり、質問検査を職員にさせたのは、報告を要求しているからである。大臣がいちいち些末な事をする必要は無い。職員が質問検査をした事で、大臣が報告要求をした事実は明らかなのである。
 その事は報告要求をされた三菱側も十分に承知している。だから同社は報告をしたのである。当然に道路運送車両法は熟知しているはずである。

 そんな自明の理がこの裁判官には分からなかった。はっきりと、馬鹿、と言うしか無い。刑事法の専門家も行政法の専門家も、官庁の役人達も裁判官の解釈は成り立たないと言っている。
 そしてその正しい解釈がやっと東京高裁によって実現したのである。
 考え方のおかしな裁判官はいっぱい居る。考え方は人それぞれ違うから、常識だけが通用するのでもないだろう。しかし日本語の理解がおかしければ、根本的な事が狂ってしまう。そもそもは日本語が分からない裁判官が存在する事が大きな問題なのである。

新婚さんいらっしゃい、にとても楽しい夫が登場

2008年07月14日 | Weblog
 面白おかしい番組だが、日曜日のテレビ朝日(関東。関西では朝日放送だろう)の「新婚さんいらっしゃい」を私は好きでずっと見ている。何とも他愛もない番組で、やらせも多分にあるだろうが、とてもおかしい。大体、全国放送と知っていて、自分達の恥をさらそうと言う夫婦だから、面白くないはずが無い。
 7月13日、富士市でパブだったか、正確な事は忘れたが、水商売をしている夫婦が登場した。妻はその女性従業員の一人で、女性従業員はたくさん居る。しかしカウンターの中で飲み物や食べ物を作るのはこの夫ただ一人なのである。
 その夫の話ぶりがとても面白い。すべて軍隊式なのである。ところが、結婚前、彼が彼女の両親に会いに(結婚の許可を得るために)行った時の話になると、突然、会話調になる。それがまた非常に生き生きとして面白い。
 それなのに、司会の桂三枝はそれを遮るのである。「誰が言うてるのか分からへん」と、「お父さんが言った」「私が言った」などと、いちいち付け加えさせるのである。
 とんでもない。そんな事、言わなくても十分に分かる。そしてその夫はそれが実にうまかった。本当に生き生きと、何しろ、司会者との対話がすべて軍隊調だから、その突然の変わりようが、実に面白いのである。
 ね、ね、三枝さん。あんた落語でいちいち、「誰々が言った」なんて言っている? 
 そんな事をしたら落語なんかちっとも面白くないよ。
 もっとも、素直にそれに応じる夫がまたまた面白い。完全に司会者を食ってしまっている。

 それで思ったのだが、この夫のあまりの面白さに司会者は嫉妬したのではないのか。自分よりずっと面白い事に脅威を感じたのではないのか。だから、その面白さを中断させたのではないのか。でも、それでも結局は面白くなってしまった。面白い人はどうやっても面白いのである。
 馬鹿な事をしたなあ、と私は思う。結局は司会者が自分の程度の低さを如実に示しただけの結果に終わった。「誰が言うてるのか分からへん」と言った事で、まずはその理解力の無さを示してしまった。いや、そうではない。理解力は十分にある。嫉妬心を見せてしまった。自分が食われている事を感じて、それを何とか挽回しようとした。でも駄目だった。そして後で録画を見てもそれに気が付かない。
 私なら、あっ、これはまずい、と思う。そして顎足付きで、つまりは旅費と食事代を負担しても、もう一度スタジオに来てもらって、撮り直しをする。そして十分に夫の面白さを発揮してもらう。

 先にやらせもあるだろうと言った。当然に司会者もうまい。だが、本当に番組を持たせているのは、出場するそれぞれの夫婦なのである。司会者がどのように面白く持っていったって、肝心の夫婦が面白くなくてはどうにもならないはずなのだ。長寿番組なので、司会者は慢心したのか。
 長寿番組ではよくある事だ。自分が優れているから番組が持っている、番組が面白い、と心底思ってしまう。確かに司会者は優れている。だが、取り上げる材料がバラエティーに富んで面白いから長寿番組になっている事を忘れてはいけない。
 それに引き換え、山瀬まみのでしゃばらないアシスタントぶりは私は気に入っている。昔はずいぶんとすっとんきょうな女性だなあ、と思っていたが、近年はすっかり見直してしまった。自分をわきまえた立ち居振る舞いがとても気に入っています。まみさん? 応援しているよー。

刑罰が「社会の直視」になるのか・死刑存廃論議

2008年07月13日 | Weblog
 鳩山法務大臣が死刑の確定から執行までの期間を短縮した事から、死刑に対する議論が表面に出て来たらしい。7月11日の東京新聞夕刊に「社会の〈直視〉こそが罰」と題して、松原隆一郎東京大学教授の話が載っている。

 陪審制は判断を有罪・無罪までにとどめるが、日本のように量刑までも決定しうる参審制を導入した国で死刑制度を存続させているのは他に例がなく、世界で唯一国民がみずから死刑判決を下す局面に直面することになる。

 と言う所で、私は難しい書き方をするんだなあ、と思った。冒頭の「陪審制は」がすぐには分からなかった。日本で始まるのが「陪審制」だとばかり思っていたからだ。だが、「陪審制」とは量刑は決定出来ないのだと言う。そして日本の「陪審制」が画期的な量刑を決定できるものだ、と言う。
 だから「現在世界で行われている陪審制はすべて、判断を……」なのではないか、と思ったのである。それなら「日本のように……」が何の躊躇もなくすらすらと頭に入る。読者の考えを引っ掛からせるのはそれで注意を引こうとする意図があるなら有効だが、単に引っ掛かり、読み直さなくてはならないのでは、損になると思うのだ。
 同氏の言っている事で我が意を得たり、と思った所がある。

 犯人の人権擁護への配慮に比して犯罪被害者や遺族への配慮が手薄であったという指摘がなされ、遺族へのケアのためには死刑は妥当という論調が最近では強まってきた。とくに被告が公判で被害者や遺族を冒涜する言動を続けた(と一般に受け取られた)光市母子殺害事件をきっかけに、応報刑論が力を増している。

 ただし、上記の中の( )書きは無用である。「と一般に受け取られた」も何もない。正真正銘、冒涜する言動を続けたのである。それは誰の目にも明らかなはずなのである。
 そして私は馬鹿な弁護団だったなあとつくづくと思う。彼等は死刑廃止論者達である。この裁判を通して、自分達の要求を世間に訴えようと図った。それが異例とも言える大弁護団の結成となった。誰が見たって異常その物である。
 被告(殺人鬼)に言いたい放題を言わせて自ら墓穴を掘ったのである。わざわざ進んで世間の反感を買ったのである。この弁護団は常識を忘れ、自分達の仕事だけに熱中するあまりに、道を踏み誤っている事に最後まで気付いていない。
 それがこの「応報刑論が力を増している」の一言に明確に表れている。
 最後にももいい事を言っている。

 社会からの「離脱」という罪に対する罰は、社会の「直視」であるべきだろう。

 これがタイトルになっている。光市の被害者遺族が「嘘をついたままの極刑では意味がない」と述べたのは、犯人に犯行と直面させたいという願いだろう、と言っている。死刑囚にとって死刑がどれほど恐怖であるかしばしば伝えられるが、生涯をかけて罪と直面し償いを続けるのも精神的には辛い作業であるはずだ、とも言う。
 それが先述の「社会の直視」になるのだが、最後の一言が私には納得が行かない。

  終身刑が設置されるとして、刑務所での労働を通じ遺族や社会に償うものとすべきだと思う。

 刑務所での労働がどのようなものかを私は知らないで言うのだが、それが果たして遺族や社会に償う事になるのだろうか、との大きな疑問がある。
 刑務所は隔離された場所のはずである。社会の事柄は知る事は出来るだろうが、直面などはしていないと思う。衣食住を与えられて、たとえ労働が重労働だとしても、辛いのは労働だけではないのか。世の中にはもっと辛い思いをしている人々がたくさん居る。重労働をしながら、実際に社会と直面しなければならない人々が居る。
 社会と直面させるのなら、毎日一定時間、被害者とその遺族に面会させ、彼らの苦しみを目と耳で味わわせるのも一つの手段だろう。もっとも、被害者や遺族の方で「御免蒙る」と言うかも知れないが。私なら嫌だね。
 だから、もっと有効な罪の償い方を考えるべきではないのか。刑務所ではいかに重労働をさせたとしても、社会に直面もせず、しかも償いにはならないと考えるから、死刑に賛成する人々が多数存在するのだ、と私は思う。
 「刑務所での労働を通じ」の一言で、このせっかくの問題提示がへなへなと腰砕けになってしまったと思う。残念だ。償いが「社会の直視」と言う言葉でいい加減になってしまった、と思う。
 「社会の直視」。言葉は良い。しかしその中身が大事ではないか。その中身について、単に「社会の直視」では何も語ってはいない。何をする事が「社会の直視」になるのか。終身刑ならそれこそ社会に直面させない訳だから、社会に直面させずに社会に直面させる、とはどのような事なのかを具体的に示す必要があると思う。

パソコンの日本語変換ソフトに困っている

2008年07月12日 | Weblog
 私はパソコンではマックを使っている。ウインドウズもあるが、どうしても使い慣れているマックになる。ところが、日本語変換のソフトがこの頃、頻繁に悪さをする。使っているのはATOK14なのだが、変換をしようとしてフリーズしてしまう事が多発している。用心のために、立ち上げたソフトでは2秒に一度自動保存をかけるシステムにしているが、自動保存の利かないソフトもある。そしてそう言う場合に限って、熱中していて保存をするのを忘れて作業を続けてしまう。40字詰めで40行とか書いた時にはそれこそ目も当てられない。
 単語登録もたくさんしてあるし、でも背に腹は代えられない。そこでマックに付属している「ことえり」にした。だが、この「ことえり」の頭の悪さたるや、言葉にならない。大体、日本語をよく知らないらしい。何度も使っている言葉なら無事変換出来るが、それもたいてい二度変換する必要があるが、初めての言葉だと、例えばこの「はじめての」だが、「はじめて」をなんとか変換出来ても、「初めて野」などとなってしまう。そんな言葉なんかあるもんか。
 こうした複合語と言うか、ちょっと長い言葉はてきめんに駄目なのである。それこそ単漢字変換しか出来ないらしい。この「たんかんじ」だって「単漢寺」になってしまう。これまた、そんな言葉は無いぞ、と頭に来る。

 結局、私が今や相当古くなってしまったマックOS9を使って、その9に付属している「ことえり」だから駄目なのらしい。OSXになって「ことえり」はぐんと頭が良くなったそうだ。仕方が無いからずっと以前に使っていたWX2と言う変換ソフトを引っ張り出して来たのだが、これはバージョンが古いらしく、うまく動かない。
 ATOK14にしても、今では古いソフトになってしまったが、性格が悪くなければ、頭は良いから、今でも十分に使えるのである。
 次々に新しい事が出来るようになるのは素晴らしい事だ。しかし日本語変換などと言う作業では別に新しい事など何も無いはずではないか。私は別に複合語変換など望んではいない。日本語の表記は(この「ひょうき」も、ことえりでは何度やっても必ず最初は「兵機」なのだ。これまた、そんな言葉一度だって使った事は無いゾ)非常に曖昧でいい加減な所が多々ある。そして辞書は表記辞典も国語辞典もそれぞれに勝手な言い分で勝手に判断して勝手な表記を決めている。そうした辞典類を日本語変換ソフトは取り入れてそれに従っている。
 だから、どれほど複合語変換が上手でも、つまりは頭が良くても、表記に関しては馬鹿である。そんな複合語変換に頼る事は出来ない。従って、単漢字変換に近い古いソフトでも十分に役に立つのである。と言うよりも、私は意識して単漢字変換を利用している。それなら、自分の考えた通りの表記が出来る。

 ATOKはジャストシステム社のソフトで、同社は元々ウインドウズのソフトメーカーだろうから、マックと相性が悪くても仕方が無いのかも知れない。この会社はなかなか気骨のある会社だと思っているが、このような訳で、私はあまり好感が持てない。それに、私は同社のインターネットであるジャストシステムに入っていたのだが、同社は途中でそれを投げ出して、ソネットに統合してしまった。それが気に入らない。
 もっとも、ソネットはとても親切で、分からない事や具合の悪い事が起こると、徹底的に付き合ってくれる。それこそ、何時間でも付き合ってくれる。しかも一銭も要求などしない。他のソフトはわずか一言質問するだけでも3千円とか取るのに(だから、そうしたソフトは使っていないし、どうしても使わなければならなければ、何とか自分で解決している)、と考えると、ソネットの親切さには本当に頭が下がる。
 ついでに親切な会社を挙げると、プリンター「マイクロライン」の沖電気、DTPソフト「エディカラー」のキヤノンシステムソリューションズは、どんな質問にも親切に丁寧に応対してくれる。あれっ? これくらいしか無い。他はみんな無料の質問システムなんか無い。そしてその質問料金は非常に高い。中にはソフトを売っておいて、今でもやってるくせに、電話が繋がらない会社も少なくない。大体、頻繁に住所が変わる会社は信用出来ない。小さな会社が発展して場所が変わったのかも知れないが、買った客の事を考えれば、同じ電話番号を使える場所で移転先を探すべきである。
 まあ、一つのソフトでそう何度も手間を掛けられたのでは間尺に合わない、と言うのも分かるけどね。大体、複雑過ぎて、しかもマニュアルがいい加減だからなんだよね。詳しいけれど一向に分からないマニュアルを作っているのが悪いのだと私は思う。

サミットのエゴ、ブッシュのエゴ

2008年07月11日 | Weblog
 サミットが終わった。成果があったのか無かったのか。
 でも、サミットって「頂上」だよね。summit conference=首脳会議、なんだから仕方がないが、ずいぶんと傲慢な考え方だと思わないだろうか。そして「主要先進国会議」なのだ。「先進国」はまあ大目に見ても、「主要国」とは何たるいいぐさか。
 日本でも「有識者会議」などと言うのがある。「有識者」。随分な言い方である。
 主要先進国などと言うから、インドや中国が、お前達がやって来たのと同じ事を俺達にもやらせろ、と言い出すのだろうと、私は思っている。同じ事をすれば、自分達も主要先進国になれるのだ、と。
 どの国もみんな、「エコ」ではなく「エゴ」で、本当に厭になる。

 会議に先立って日米首脳会談が行われ、ブッシュは拉致問題は忘れない、と言ったそうだ。覚えていたって、何にもしないんだろう、と私は思っていた。そうしたら、この言葉は日本のマスコミがでっち上げた言葉だと言う。
 正確には、「拉致問題に関して、あなたがたの事を忘れない」と言ったのだそうだ。拉致問題を忘れないと、我々の事を忘れない、とではまるで違う。いくら、拉致問題に対してだと言っても、迫力が遥かに劣る事は間違い無い。私の思った、忘れなくても実行しなければ同じだ、と全く同じではないか。
 マスコミはこのように伝えたが、福田総理は直接にブッシュから話を聞いたのであり、通訳もいたはずだから、正確な事を知っている。それとも二人ともいい加減な英語力しか持っていなかったか。

 ブッシュが卑怯な言い方をしたのは、彼の性格にまさにふさわしいから、文句は言わない。だが、それをまるで日本の味方であるかのように報道するマスコミの欺瞞は絶対に許せない。英語力が無いなら取材などするな。
 アメリカからは我が国に対して年間何百件もの「要望」が出されていて、ことごとく日本が受け入れているらしい。最たる物が牛肉の輸入であり、郵政の民営化だった。その「要望」は英語でsubmission。和訳では「提案」もあるが、普通には「服従・降伏」「従順・恭順」である。
 まあ、文章語では「提案」だとしよう。しかし背後に背負っている「服従」などの意味は重い。それらの意味を全く捨て去った「提案」だけの意味にはなり得ない。
 しかし日本の役人はずっと「提案」だと言って我々をごまかし続けて来た。そしてアメリカは最近は日本がとてもよく言う事を聞くようになったので、この言い方を変えて、もっと穏やかな言葉にしたのだと言う。ふざけるな!!
 日本の役人もふざけるな!! 我々の税金で生きているくせに、何たる裏切りか。

 学校では、小学生から英語の教育を始めようと馬鹿な事を考えている。いいよ。そうした教育で、アメリカの欺瞞が誰にでも分かるようになるなら、それでもいいよ。しかしそうはならないだろう。英語の理解力も中途半端で、日本語も中途半端になるだけだろう。今だって日本語の理解力は大人もいい加減でまるで駄目なのだ。
 マスコミがブッシュの言葉を間違って伝えたのは多分悪意は無かったのだろう。彼らが英語を理解出来ず、また日本語も駄目だから、こうした伝え方しか出来なかったのだ、と私は思う。外国語がきちんと理解出来る人は、日本語も正確に理解出来るのであり、片方が駄目なら、もう一方も駄目なのである。当たり前だ。言葉とは考え方その物なのだから。
 こうした言い方をしても、マスコミに対して無礼でも何でもない。常日頃から、彼らの言動を見ていれば、誰だってそう思うはずである。

食料を無駄にして金儲けを企む人々

2008年07月07日 | Weblog
 アフリカでは多くの国の人々が飢えで苦しんでいると言う。7月5日のテレビ朝日のニューステーションは特集番組「地球危機」でその実態を紹介した。食料のとうもろこしが倍の値段になって、買えないのだと言う。
 そしてアメリカではそのとうもろこしを燃料にしようと、価格が高騰したのである。生産農家は少しでも高くと買い入れ先を選び、挙げ句は賭博でどんちゃん騒ぎである。石油メジャーの後押しで政権の座に就いているブッシュだから、金儲けが目的なのは誰の目にも明らかになってしまっている。人が死んでも自分だけは金を儲けたい。
 そんなアメリカでホットドッグだったか、早食い競争が開かれ、日本人男性が挑戦し、それを馬鹿なテレビ局が放送している。飢えている人間が居ると言うのに、片や早食い、大食いの競い合いと言う脳天気ぶりである。やるのは勝手だが、何もそれを嬉しそうに放送する事は無いだろうに。
 と言うよりも、テレビはそうした競技?を批判する立場にあるのではないのか。
 「地球危機」では日本のスーパーで閉店時に、まだ食べられる食料品を大量に破棄している姿を写していた。店の担当者はまだ十分食べられます、と言っている。何と言う無駄をしているのか。
 これにははっきりと理由がある。日本では諸外国よりもずっと消費期限を短くしているのだと言う。なぜなら、期限が短いと、うっかりと食べ損なって捨てる。しかしもともとは食べたくて買ったのだから、また買う。つまり、二度買いをさせる目的が明確にあるのだと言うのである。捨てさせて、再び買わせる。何と神を恐れぬ行為だろうか。

 期限には「消費期限」と「賞味期限」の二つがある。でもおかしいよね。
 「消費期限」は安全の期限で、「賞味期限」は旨さの期限である。両者は違う。だが、食品なのだから旨くなくては意味が無い。それに旨いか旨くないかは人によっても違う。そんな事を生産者に指定されるいわれは無い。逆に言えば、食品なのだから、おいしく食べられないのであれば、食品としての生命は無いも同然である。即ち、賞味期限イコール消費期限になる。
 そうは考えない場合、賞味期限の方がずっと短い。だから賞味期限を有り難がる人はずっと早く捨てる事を迫られる訳である。先の考え方から見れば、捨てて買わせる機会がずっと増える事になる。
 昔は、そんな表示は無かったから、我々は臭いをかぎ、見た目で慎重に判断して食べた。それでおなかをこわした事などはまずは無かった。そうした感覚を忘れて、生産者の言う通りにし、まんまとその手に乗せられている。
 これは邪推ではないのですよ。
 その証拠には、農産物でも規格が決められている事実がある。規格外は売れずに捨てられる。しかし農家はアスパラなど、捨ててしまう物の方がおいしいんですよ、とさえ言っていた。
 規格を揃えるのは、単に運搬に便利だからに過ぎない。しかも見た目が良いから高く売れる。結局は金儲けである。儲けて悪いとは言わない。しかし自分さえ儲かれば良い、は通用しないだろうと言うのである。
 下町に車で野菜を売りに来るおやじさんが言った。山の手ではこの値段では売れないよ、と。安いと駄目なのだと言う。高ければ安心して買うのだと言う。野菜を見分ける力も無く、単に金額で判断する。なんとあさはかな。もちろん全員がそうだとは言っていない。しかしそうした傾向があるのは確かである。
 自分で判断出来る能力があれば、規格外の野菜を安く買える。しかも無駄にせずに済む。実際、ある店で両者を並べたら、圧倒的に規格外の安い物の売れ行きが良かったのである。
 結局は、言葉の意味を厳密に考えず、物事もいい加減に考えているから、相手の思うがままに操られてしまう。

 話は飛ぶが、ヘリコプターが飛んで、行方不明になった。そのニュースをフジテレビでは東京からリポーターを派遣して報道していた。随分と無駄な事をするなあ、と私はずっと前から思っていた。洞爺湖サミットにはいつもの司会者の一人が行っている。
 彼女の取材力が素晴らしいと言う事に反対はしない。もっとも、そんな素晴らしい力を私は見た事が無いのだが。確かに重要な事が話し合われる大事な会議だが、他の人では出来ない取材が彼女なら出来るのでしょうか。
 なんで、現地のネット局の人材を使わないのか。特にヘリコプターの事故での取材は現地の人で十分出来る。土地勘だってあるはずだ。
 そしてその東京から派遣されたリポーターが盛んに「切りが」「切りが」と言っている。何に「切りが無い」のかな、と耳を澄ましたら、何と「霧」の事ではないか。何度聴いても「切りが」なのである。
 この二つは両方とも「り」のアクセントが高いが、微妙に違う。「霧」は続く言葉のアクセントが下がらないが、「切り」は次の言葉のアクセントが下がるのである。だからはっきりと聞き分けられるし、言い分けられる。わざわざ費用を掛けて東京から派遣したのに、アクセントが標準語でないとは。

 何も、重箱の隅をつつくつもりは無い。だが、これはプロの仕事なのだ。リポーターの真価は取材力にあるのは百も承知。作家の立松和平氏のように、もともとアクセントの区別の付かない土地で生まれ育った人なら、その平坦な話し方が、逆にトレードマークにもなる。アクセントの感覚の無い人に標準語のアクセントで話せ、などと無理な事は言わない。しかし普通に話せている人なのだから、きちんと標準語のアクセントを学習してプロの仕事をせよ、と言うのである。
 昨日書いたが、メーカーは上を見て暮らせ、と言っている。その「上」とは本当は物の話ではない。理想の事である。プロの仕事人は仕事の上で常に理想を追い続ける必要がある。あなた方が視聴者よりも何よりも大切に思っているスポンサーが言うのである。従わないと罰が当たるよ。

命令形の英語のCM、日本語なら何と訳すのか。トヨタとキヤノン

2008年07月06日 | Weblog
 「……しよう」と呼び掛けるCMはあるが、「……しろ」などと言うCMは無いと思うのが常識だが、それがある。ただし、日本語ではなく、英語である。だから本当は命令しているのではないのかも知れない。しかし学校で学習した私の英語には、動詞が先頭に立つのは命令形しか無いのである。

Drive Your Dreams.
Make it possible with cannon.

 前者はトヨタ自動車で、命令形だから、Your は「お前の」になるのだろう。driveは一般的には「運転する」だが、その本質は「動かす」だろう。ニュアンスとしては「操る」と言うような事なのかとも思うが、そうした意味は私の持っている二冊の英和辞典、『ニューセンチュリー英和辞典』(三省堂)と『グリーンライトハウス英和辞典』(研究社)には載っていない。似たような用例も無い。
 driveの対象になっているのは、どちらも人や物、風や雨などで、意味も、
・追いやる
・吹きやる
・こき使う・無理に……させる
・追い込む・駆り立てる
・たたき込む・打ち込む
などで、一見良さそうに見える「駆り立てる」も対象は動物だったり、「無理に……させる」の意味だったりしている。
 dreamを引いてみても、realize=実現する、come true=かなう、などはあるが、driveは無い。
 まあ、車のCMなのだから、意味はうるさく言わずに、Drive Your Dreamsでも構わないとしても、今度はその命令形がとても気になる。いったい、夢とか理想をどうせよと言うのか。

 後者はキヤノンで、自社の製品でそれを可能にせよ、と言う。「それ」もまたdreamと同じなのだろう。
 possibleの意味は、
・ありうる
・可能な
である。だから「可能にせよ」だと思うが、『ニューセンチュリー』に面白い説明がある。
 probable は可能性が大きいが、possible は可能性が少ない。It's possible,but hardly probable.の意味は「それはありえないことではないが、実際にはまず起こるまい」
だと言うのである。
 そのような説明はしていない『グリーンライトハウス』も、「ありうる・起こりうる」の意味と並んで、
・(もしかしたら)…になりそうな
・(もしかしたら)…かもしれない
の意味を挙げている。
 つまり、「キヤノンで出来るもんならやってみな」と言っているようにも思えてしまう。こちらは命令形がどうのこうの、と言う以前に非常におかしい(これは「変だ」の意味ではなく、「笑ってしまう」の意味)。

 夢をどうの、可能にせよ、などと言っているのだから、いずれにしても上を見て暮らせ、と言っている事は間違いない。それはいい。九ちゃんだって「上を向いて歩こう」と歌った。意味は分からなくても、何しろ「スキヤキ」などと勝手なタイトルを付けられたのだから、それでも全世界で大ヒットした。多分、歌に込められている希望を求める事の大切さが伝わったのではないか、と勝手に考えている。
 九ちゃんは、「涙がこぼれないように」だった。しかしこのCMは、メーカーの言葉である。だから「涙がこぼれないように」などであるはずがない。むしろ、笑いがこぼれてしょうがないのである。その笑いをもっと確実な物にしようとの魂胆があふれている。

 現代生活で車は欠かせない。地方に行けば、車が無いと生活が出来ないと言う。都会にしても、マイカーはともかく、車が無かったら生活はストップしてしまう。しかしそれは生活に最低限必要な車の事であって、豪華さを求めた車でもないし、夢の対象になるような車でもない。地道に生活に寄与する車の事である。
 だが、それでは車は売れない。人々の夢をかき立てなければ売れない。と言った所で、前出の「駆り立てる」の意味がにわかに重要になって来た。そうか、夢をかき立てるのではなく、夢を駆り立てるだったのか。
 誰だって夢を持ちたい。しかし夢は駆り立ててまで持つものではないだろう。しかも、命令される筋合いは無いのである。一人勝ちしている企業が勝手な事を言う筋合いは無いのである。その陰にどれほどの人々が泣いているか。
 まあ、それは一人トヨタだけの問題ではないから、とやかく言っても始らないが、人々に命令をする権利は無いはずである。それとも、このCMの言葉は、本当は、もっと違う事を言っているのか。それならそれで、もっと分かり易い言葉で、もちろん日本語にして言うべきだろう。

 キヤノンはテレビの多くのCMでは、その英文を読まずに、ただ画面表示をするだけで、言葉では単に「キャノン」と言っている事が多い。でもそれなら、命令形の英文は引っ込めるべきではないのか。それとも、これまた私の英語の理解力不足なのか。
 私は今、デジタルカメラが欲しいが、同社は除いて考えている。何かが可能になるのはどの会社の製品だって同じである。たとえどんなに同社の製品が優れていようが、それはあきらめる。命令されてまで買う気は無い。
 仕事でDTPをしているので、プリンターは必需品である。今はモノクロプリンターしか持っていないが、レーザーのカラープリンターが必要になるのは目に見えている。だが、どんなに安くしかも優秀であっても、同社のプリンターは対象の候補には入れたくない。他社の製品でもmakes it possibleになるはずなのである。

 大体が、この手の製品は自社製品の特徴のCMにはならない。なぜなら、今の技術力ではほとんど甲乙付けがたいからだ。わずかな差しか無いから、特徴を打ち出せない。打ち出そうとすれば、非常に細かい説明になるだろう。それはテレビや新聞のCMでは無理だ。だからイメージで勝負するしか無い。そのイメージの一端が言葉なのだが、それが命令形なのである。英語だから直接的には響かない。何でも英語がかっこ良いと思い込んでいる人々のあさはかな感覚に便乗しているだけに過ぎない。
 それほどこれらのキャッチフレーズが素晴らしいなら、是非とも日本語で誰にでも分かるようにしたらどうなのか。その方がずっと効果的だろう。
 さて、その日本語訳はどうなるのか。英語の得意な方、教えて下さい。