前述しました、今日の二回目の発信です。
文化庁の国語調査の結果が7月25日の新聞に載った。テレビでも報告していたから、ほとんどの人が結果を知っているはずだ。駄目な結果は毎度の事で今さら驚きもしないが、同庁の主任調査官の言葉には驚いた。
「あと十年もすれば、本来と違う意味に変わっていく可能性がある」
当たり前だろう。誤用は30代以降が圧倒的なのだ。10年もすれば、そうした年代が社会の中核になるのだ。当たり前の事を平気な顔をして(顔は見ていないが、記事は別に驚いてなどいない)言うのにも驚かないが、何の策も持っていない事には仰天してしまった。
誤用を仕方のない事だと思っているらしい。誤用を放置している限り、誤用とは気付かないし、そのまま定着してしまう。どうしたら誤用に気付かせ、正しい使い方を奨励出来るのか、を考えるのがあんたらの仕事だろうが。
誤用がこんなにも圧倒的な勢力を持っている理由は明確に分かる。
1 他人の言葉の使い方に何の疑問も持たない。おかしいな、と思えば国語辞典で調べれば良い。辞典の説明は様々だが、「げきを飛ばす」を「元気づける」などと説明している辞典は皆無のはずである。はず、と言うのは時々、とんでもない説明をしている辞典が存在しているからだ。
もちろん、自分が言葉を知らないと分かっても、調べようとは思わない。
2 国語辞典の説明が悪い場合がある。間違いとは言えなくても、よく分からない説明をしている。そうした国語辞典の説明の幾つかを私は拙著『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)に書いた。辞典が曖昧な説明をしている限り、正しい言葉は普及しない。
その後もそうした国語辞典の調査は続けており、今度は全く別の趣向で本を書き、目下売り込み中である。としっかりと宣伝をしてしまった。
3 間違った使い方を何のかのと理由を付けて、認めようとしている連中がいる。本当に屁理屈としか思えないような理由を付けている。それでもれっきとした日本語学者なのである。どのような人々かは言わないが、私のブログを見て下さっている方には察しが付くはずだ。
4 正しい事よりも、簡単な事、てっとり早い事が好まれている。間違っていたって何のその。言葉は拡張高く変化する事はほとんど無い。すべて次元の低い方へと変化する。それは過去の日本語の歴史を見れば一目瞭然だ。
もっとも、「ら抜き」言葉などは、横着なだけではなく、「受け身」と「可能」を区別したいとの欲求もあると、私は思っているが。
様々な理由があって放っておけば、言葉はどんどん悪くなる。私は常に気になっているのだが、子供の自称である「僕」が今や大手を振って、社会人の間を闊歩している。テレビ人達(「ども」とは言いません)が当たり前の顔をして使っている。仲間内の会話ではないのだ。視聴者に面と向かって「僕は」などと言うのである。無礼だとは思わないらしい。つまり、彼らは「僕」が標準語の自称だと思っている。テレビだから、すぐに全国に広がってしまう。
前にも言ったが、幼児に向かって「ぼく、おなまえなんていうの?」と聞くのは「ぼく」が子供言葉だからである。そうではない、と言うのなら、大人に対して「僕、お名前何とおっしゃるのですか」と聞いたらいい。張り倒されるから。
自国の文化に誇りを持っているフランスでは国が正しいフランス語を守る事をしている。自意識の強さではお隣の韓国も同じだから、韓国も韓国語を守ろうとしているに違い無い。何しろ、中国語から生まれた字音語でさえ、漢字を使わずに、ハングルで表そうと言うのだから。
人任せ、成り行き任せの文化庁に日本語を守ろうとの気概はまるで感じられない。文化庁の仕事って一体何なのでしょうね。そして「文化」の意味も正確に知りたいのですが。
文化庁の国語調査の結果が7月25日の新聞に載った。テレビでも報告していたから、ほとんどの人が結果を知っているはずだ。駄目な結果は毎度の事で今さら驚きもしないが、同庁の主任調査官の言葉には驚いた。
「あと十年もすれば、本来と違う意味に変わっていく可能性がある」
当たり前だろう。誤用は30代以降が圧倒的なのだ。10年もすれば、そうした年代が社会の中核になるのだ。当たり前の事を平気な顔をして(顔は見ていないが、記事は別に驚いてなどいない)言うのにも驚かないが、何の策も持っていない事には仰天してしまった。
誤用を仕方のない事だと思っているらしい。誤用を放置している限り、誤用とは気付かないし、そのまま定着してしまう。どうしたら誤用に気付かせ、正しい使い方を奨励出来るのか、を考えるのがあんたらの仕事だろうが。
誤用がこんなにも圧倒的な勢力を持っている理由は明確に分かる。
1 他人の言葉の使い方に何の疑問も持たない。おかしいな、と思えば国語辞典で調べれば良い。辞典の説明は様々だが、「げきを飛ばす」を「元気づける」などと説明している辞典は皆無のはずである。はず、と言うのは時々、とんでもない説明をしている辞典が存在しているからだ。
もちろん、自分が言葉を知らないと分かっても、調べようとは思わない。
2 国語辞典の説明が悪い場合がある。間違いとは言えなくても、よく分からない説明をしている。そうした国語辞典の説明の幾つかを私は拙著『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)に書いた。辞典が曖昧な説明をしている限り、正しい言葉は普及しない。
その後もそうした国語辞典の調査は続けており、今度は全く別の趣向で本を書き、目下売り込み中である。としっかりと宣伝をしてしまった。
3 間違った使い方を何のかのと理由を付けて、認めようとしている連中がいる。本当に屁理屈としか思えないような理由を付けている。それでもれっきとした日本語学者なのである。どのような人々かは言わないが、私のブログを見て下さっている方には察しが付くはずだ。
4 正しい事よりも、簡単な事、てっとり早い事が好まれている。間違っていたって何のその。言葉は拡張高く変化する事はほとんど無い。すべて次元の低い方へと変化する。それは過去の日本語の歴史を見れば一目瞭然だ。
もっとも、「ら抜き」言葉などは、横着なだけではなく、「受け身」と「可能」を区別したいとの欲求もあると、私は思っているが。
様々な理由があって放っておけば、言葉はどんどん悪くなる。私は常に気になっているのだが、子供の自称である「僕」が今や大手を振って、社会人の間を闊歩している。テレビ人達(「ども」とは言いません)が当たり前の顔をして使っている。仲間内の会話ではないのだ。視聴者に面と向かって「僕は」などと言うのである。無礼だとは思わないらしい。つまり、彼らは「僕」が標準語の自称だと思っている。テレビだから、すぐに全国に広がってしまう。
前にも言ったが、幼児に向かって「ぼく、おなまえなんていうの?」と聞くのは「ぼく」が子供言葉だからである。そうではない、と言うのなら、大人に対して「僕、お名前何とおっしゃるのですか」と聞いたらいい。張り倒されるから。
自国の文化に誇りを持っているフランスでは国が正しいフランス語を守る事をしている。自意識の強さではお隣の韓国も同じだから、韓国も韓国語を守ろうとしているに違い無い。何しろ、中国語から生まれた字音語でさえ、漢字を使わずに、ハングルで表そうと言うのだから。
人任せ、成り行き任せの文化庁に日本語を守ろうとの気概はまるで感じられない。文化庁の仕事って一体何なのでしょうね。そして「文化」の意味も正確に知りたいのですが。