夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「日本語は暗黙の了解を前提としている」の東京新聞に疑問

2008年07月02日 | Weblog
 今日の東京新聞の文化面で新連載が始まった。「外から見た日本語」で、東京女子大学教授の西原鈴子さんと言う方が書かれている。今後が楽しみだが、ちょっと気になった事がある。
 言語のコミュニケーションパターンには二通りあって、高文脈タイプと低文脈タイプに分かれる。高文脈では伝えるメッセージの内容のうち、言葉に頼る割合が少なく、その他の方法を駆使するのだと言う。低文脈では言葉その物に頼る。その典型的なのがドイツ語で、英語も同じ部類である。だから欧米では夫婦でも常に「愛している」と言い合っていないとその関係が保てないのだそうだ。
 ここまでは、まあ納得出来る。だが、次の言葉が私には引っ掛かる。

 「くちかずが多いこと、理屈っぽいことは称賛されない日本語社会が、低文脈の人種からは、あたかも厳密にものを考えない集団と思われてしまいがちなのは悔しい気がしてならない。高文脈のほうがぐっと伝達効率が良いはずなのに。」

 日本語には確かに、「目は口ほどに物を言う」とか「以心伝心」などのことわざがある。つまり、理屈っぽい事は本当に嫌われる。それは厳密に物を考えない事ではないのだ、とこの学者は言うのである。言い替えれば、それで日本人は厳密に物を考えている、と言っている。
 でも本当にそうだろうか。言葉に頼らずに、一体何に頼れると言うのか。そして肝心な事は、その言葉その物に対してでさえ、日本人は厳密さを求めていない、と言う事実なのである。日本人が理屈っぽい事を嫌うのは、この記事を見て今更ながらに気が付いたのだが、理屈っぽい考え方が出来ないからである。いい加減な曖昧な言い方が蔓延している。例えば、何かをお願いした時、相手は即座に断らず、「考えさせてくれ」と言ったりする。そこで、お願いをした人間は、そろそろ考えが付いた頃だろうと、答を聞きに行く。すると、相手は面食らう。なぜなら、相手は頼まれた時に断ったつもりでいるからだ。
 「嫌です」とは言いたくないから、聞こえの良い「考えさせてくれ」と言って逃げるのである。
 その話を犬飼美智子さんだったか、関西に移住しての体験談で語っていた。相手は「そやから、考えときまっせと言うたやおへんか」と呆れ果てたように言ったそうである。東京人だって、そうやって断る事をする。
 クレームを付けると、相手は「善処します」と言う。で、善処されるかと言うと、そんな事はまず滅多に無い。しかし相手は言った事を守っているのである。なぜなら、「善処」とは自分達にとっての善処でもあるからだ。
 それなのに、クレームを付けた方は、自分の考え通りにしてくれるのが「善処」だと思っている。相手は、自分達の立場を守れる範囲内で処理することが「善処」だと思っている。「善処」と言う極めて簡単そうに思える言葉一つでさえ、このような食い違いがある。それは「善処」を厳密に考えていない証拠である。そして問題なのは、それで日本人は今までもやって来たし、これからもやって行こうとしている事なのである。

 言葉だって、同じ民族、同じ日本語を使っている同士でさえ、その文化環境によって使い方が違うのである。それを言葉を頼らずにどうやって、明確な意思を伝える事が出来ると言うのか。
 テレビを見ても、新聞を読んでも、本を読んでも、至る所にいい加減な考え方がある。言葉を厳密に使わず、曖昧に解釈して使っている事からいい加減な考え方が発生している。
「事」と「こと」は意味が違うから漢字と仮名で書き分けよ、と言う論理が横行して、誰もが疑問に思わずそれに唯々諾々として従っている。
 では「事」と「こと」の違いを明確に説明してくれ、と言えば、言葉に詰まるはずである。著名な国語学者がその違いをある著作でとくとくと説明しているが、きちんとした説明になどなっていない。しかし本人は説明が出来ていると信じ込んでいる。もうその事自体が物事を曖昧に考えている証拠である。
 言葉その物の説明にしても、それがきちんと出来ている国語辞典は皆無である。それは私は幾つもの例を挙げて実証する事が出来る。現実にそうした原稿を幾つも書き上げている。しかし、厳密に物を考える習慣の無い人々にとっては、多分、たわごとにしか聞こえないだろう。だから本にはならない。

 新聞が言葉をいい加減に解釈して、おかしな論理を展開している例なども、ここがこのようにおかしいと言っても、それはあなたの個人的な考え方であって、などと言われてしまう。個人によって考え方は様々に違うのは当然である。だが、その違いが、ある一つの言葉の解釈の違いから生まれているのなら、違って当然だ、とは言えないはずである。
 言葉の意味がそれぞれに違うのなら、意思の伝達など、出来るはずがないのである。だからこそ、以心伝心などと言ってごまかしたりするのではないか、と思ったのである。
 日本は世界でも稀に見る単一言語の国家である。だから、同じ言葉なら、誰にも同じ意味として伝わると考える。それはいい。だが、それなら、その言葉がどのような意味であるのかを厳密に定義しておく必要がある。しかしそれは出来てはいない。
 この記事の執筆者は、日本人が「あたかも厳密にものを考えない集団」と思われてしまうのが悔しいと言う。私に言わせれば、「あたかも」ではなく、「現実に」厳密にものを考えない集団なのである。人々が厳密に物を考えていたら、現在のようないい加減でどうしようもないような世の中にはなっていないはずである。
 この連載はあと9回続く。今後が楽しみだ。

 そしてもう一つ。同じ記事の隣に同紙校閲部の記者が書いた記事がある。

 「72年の岩波国語辞典(第2版4刷)で、ハンバーガーの項には、矢印でハンバーグを見よ、とあるのに、ハンバーグの項を見ても、ハンバーガーの説明がないように、ハンバーガーは日常的な言葉ではありませんでした。」

 幸いな事に私はその同じ第2版4刷を持っている。ただし、私のは73年12月6日とある。その「ハンバーグ」は「ハンバーグステーキ」の略。ひき肉にパン粉・玉ねぎなどをまぜて焼いた料理、とある。本当にそれだけだ。もちろん、現在の版では「ハンバーガー」にきちんと説明がある。
 だが、「ハンバーグ」に説明が無いのが、当時はハンバーガーが日常的な言葉ではなかった、との証明になるのだろうか。単に説明の仕方が悪いだけの話ではないのか。当時、ハンバーガーが日常的な言葉ではなかったのなら、なぜ国語辞典に載っているのか。ご存じのように、新しい言葉が国語辞典に載るには、日常的な言葉になった、と認定されなければならない。
 そうした事から考えても、72年のハンバーガーの説明がきちんと出来ていない理由にはならない。
 ここには幾つもの考え違いがある。その一つが国語辞典は絶対に正しい、である。だから説明が無いから、当時は一般的な言葉ではなかった、と即断する。その二は、辞書が言葉を載せるその意味が分かっていない。その三は、この第2版の「ハンバーガー」と「ハンバーグ」の関係がまるで分かっていない。その四は、72年当時、ハンバーガーが日常的な言葉であったかどうかの確認を怠っている。少なくとも、確認したとの証明はしていない。第五には……、もうやめよう。
 そうか、こうした考え方でこの人は記事の校閲をしているのか、と私は心配になった。この記事だって、当然に別の校閲者が見ているはずなのである。それとも校閲部の記者の記事はフリーパスなのか。前にも書いたが、今の所、私は東京新聞がとても気に入っている。でもこの校閲者の考え方を知って、不安になった。

 この二つの記事、私の考え方がおかしいのだろうか。どなたか忌憚のない御意見を聞かせて下さい。