夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日本語表記の多くが漢字と仮名のバランスが悪い

2008年07月20日 | Weblog
 7月20日の「題名のない音楽会」に女性ア・カペラのグループがビバルディの「四季」に歌詞を付けたものをイタリア語で歌った。素晴らしい歌声だった。画面には日本語訳が出る。その日本語訳の漢字と仮名のバランスがとても悪い。多分、日本語訳そのままを使っているのだろうが、字幕と言うのは、読み易さが命なのだ。映画の字幕が特殊な書体なのは(だったのは、に現在はなるのか。私は最近、劇場で映画を見た事が無いのです。恥ずかしいが)少しでも読み易くする工夫だった。だから、テレビだって同じはずなのだ。元の訳詞にこだわる必要は無い。
 そのバランスだが、ほんの一例を挙げれば、「嬉しい」は漢字なのに「対して」は平仮名で「たいして」となる。以下こうした事が延々と続く。

 字音語を漢字にして和語を仮名にする、と言う人は少なからず存在する。和語は元々、漢字を頼らずに生まれている、との考えである。馬鹿だなあ、と私は思う。字音語を漢字にするのは同音異義語があるからだ。漢字で意味を表さない事にはどうにもならない。
 けれども和語だって同音異義語が多い。「たいして」だって「対して」もあれば「大して」もある。前後関係で分かると言うのかも知れないが、それなら字音語だって多くの場合に前後関係で分かる。分からないのは「科学」と「化学」などがそうだが、そんなに多くはない。
 問題にしているテレビの字幕は、和語で漢字にしたり仮名にしたりと節操が無い。つまりどのように区別しているのか、その根拠が全く分からない。多分、訳詞家の気分次第そのままなのだろう。個人的な感想だが、「対して」を「たいして」などと平気で書くような訳詞家を私は才能があるとは思わない。むしろ、日本語に対する感覚を疑ってしまう。
 常用漢字に従っているのでもない。常用漢字なら「嬉しい」は仮名書きになる。「対して」は漢字になる。つまり、単なる気まぐれに過ぎない。
 これほど極端ではないが、漢字と仮名のバランスの悪い人は非常に多い。バランスが悪い、と言うがそんなのはお前の勝手な感覚じゃないか、と言われるのは承知である。

 「私の子供は明日学校に行く」と言うこんな簡単な文章で、表記の仕方は理屈だけで言えば48通りにもなる。「私・わたし」「子供・子ども・こども」「明日・あす」「学校・がっこう」「行く・ゆく」の表記がそれぞれに組み合わさると、48もの組み合わせになるのだ。この中で「がっこう」は無いだろうから、それは無いとしても、24通りになる。
 では、この中でどれが一番バランスが良いと言えるのか。そんな事は誰も言えない。ただ、私は例文に出したような表記が一番バランスが良いと考えている。問題があるとするなら、「私」は常用漢字では「わたくし」としか読めず、「わたし」なら仮名書きにならざるを得ない事と、「明日」は熟字訓だが、「あした」とも「みょうにち」とも読めてしまう事が欠点とは言える。そこから、
 「わたしの子供はあす学校に行く」が最もバランスの良い表記になるのかも知れないが、これだって感覚の問題と言えよう。

 要するに、どのような表記が一番分かり易いのかを様々な場合に試行錯誤して決まって行くしか無いのだ。
 漢字としての難しさ、言葉としての明確さ、文字にした時の識別の良さ、そうしたもろもろの事をしっかりと考え、更には日本語の特色も考慮して、一つの表記に収斂して行くのが理想的だと考えている。
 だが、誰もそのような事を考える人はいないらしい。だから表記は表記辞典や国語辞典がそれぞれに自己主張をしているその通りになっている。そうした表記の内のごく一部、漢字と仮名で書き分けるのが当然とされている言葉を70いくつか採り上げて、どのように考えたらよいのか、の叩き台とも言うべき本を私は書いた。
 良い本を出していると認められている出版社がその意図を認めてくれたが、同社としては採算が採れないと言われた。ベストセラーばかりを出している出版社だから当然ではある。でも私は諦めてはいない。採算はトントンで良いから、人々のためになる本を出したいと言う出版社を探している。

 先日、国立国語研究所から手紙が届いた。私の二冊目の著書である「わかったようでわからない日本語」(洋泉社新書)(全く下手なタイトルを付けたもんだと、我ながら後悔しているが)の中からの数ページを現代語の書き言葉を対象とする大規模なデータベースに採録させて欲しいと言う。
 指定の箇所は〈「差別語」とは何か〉〈「計算」と「会計」のどちらの窓口で支払いをするのか〉〈「済みません」には謝罪の気持が感じられない〉〈「済みません」は「有難う」とも違うはずだ〉。
 こんなつたない文章が書き言葉のサンプルとして誰もが利用出来るデータベースに採り入れられるなんて、物書き冥利に尽きる。たかがデータベースに過ぎないが、多くの人々の目に触れる機会があるのかと思うと、こんな嬉しい事は無い。

 一つ宣伝をさせて下さい。
 先の「私の子供は……」は御自分で色々と書いてみれば、実態がよく分かると思うが、先述の『わかったようでわからない日本語』の中に、例文が「私」ではなく「私たち」となっているの違いはあるが、載せてある。ついでに同書を買って頂けたら、なんて都合の良い事を考えております。日垣隆氏が褒めて下さった事柄も載っていますので。