夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「歌を歌う」は怠けた言い方で、日本語を駄目にしている

2008年07月05日 | Weblog
 「持論を持つ」「犯罪を犯す」が重言ではないとの理由に「歌を歌う」が通用するから、があるが、それはおかしい、と述べた。そのあとも色々と考えて、やはり「歌を歌う」はおかしいと思った。
 歌だから「うたう」のであり、「うたう」から歌なのだ。その証拠には「思いを思う」とも「話を話す」とも「考えを考える」などとも絶対に言わない。
 「思い」なら「いたす」との言い方がある。「話」なら普通には「する」だ。「歌」だって「口ずさむ」の言い方がある。「うたう」と言うのは、「うたい文句」との言い方もあるように、強調する事でもある。「うたう」と言うのは「朗々と」のようなニュアンスがあるのではないのか。
 それにしても「歌を歌う」はおかしい。単に「歌う」に相当する言い方を磨かなかっただけではないのか。日本語にはこうした怠けた言い方が結構有る。ほかに適当な言い方が無いために、それで通用しているが、本来は駄目な言い方なのではないか。
 通用しているから良いのだ、との考えを私は駄目な考え方だと思っている。そんな事を許していたら、どんな事だって通用してしまう結果になる。「通用している」は言い換えれば「慣用」である。「慣用」との言い方で、日本語がいかに曖昧に処遇されているか。送り仮名がそう、漢字の書き分けがそう、漢字と仮名の書き分けがそう。すべて「慣用」で処理している。その結果、幾つもの方法が生まれてしまう。
 自由で望ましい、だって? 一つの言葉の意味や表記が自由気ままであって良い訳がない。単に一つに決める勇気が無いから、野放しにしているだけではないか。

 こうした曖昧さが日本ではありとあらゆる所にその欠陥を現す事になる。食品の偽装など、その一端に過ぎない。国産牛と和牛の違いにしても、変な話である。言葉に対する曖昧さは、物事の本質に対しても影響を及ぼし、本質が曖昧になってしまう。
 「六甲のおいしい水」が、何と六甲とはまるで関係の無い所の水だったと言う。これはハウス食品の偽装事件だが、六甲山系は御影石の産地としても知られている。御影石はその名の通り、兵庫県は六甲山麓の御影と言う所で産出される花崗岩の名石である。その名があまりにも有名になり、花崗岩の代名詞ともなっている。だから日本では産出しない赤い花崗岩(スウェーデンからの輸入)でさえ、御影石と呼ばれてしまう。
 それはともかく、緻密な岩石層を濾過して出来た水だから六甲のおいしい水になるのである。原理など全く問題にせず、単に地名だけにこだわるから、六甲に近ければ六甲のおいしい水だ、などと思ってしまうのであろう。善意に解しての話だが。

 ハウス食品は単に水だけの話だと思っているかも知れないが、私は同社の製品は今後一切買うまいと思った。同社のカレールーは同種の製品の中でも安価な方で、最近、私はそれを使っていた。私はカレーは玉ねぎのみじん切りをオニオンスープになるくらいにまで炒めた物をベースにして作っているから、本当は既成のルーなど要らないのだが、簡単だとの理由から使っていて、それには安価な同社の製品で十分である。
 水は日本では本来は無料で手に入った。しかしだんだんに水がまずくなって、有料の水がもてはやされるようになった。空気と同じように本来は安全で、しかも無料のはずだった水を売る。だから、売るからにはそれだけの心構えが要る。それが皆無だった。単にぼろ儲けをしたいだけだった。そんな会社の製品を買う訳には行かない。

 こうして私は自ら選択肢を減らしてしまうのだが、それでも一向に困らない。カレールーは、グリコもあるしエスビーもある。万一、それもまた駄目になれば、自分でルーを作ればそれで済む。ぎょうざなど、私は市販品を買った事が無い。けちな性格もあるが、緑茶や紅茶のペットボトルなど買わない。何を使ってどのように作られているか分からないではないか。
 お茶をいれるのは寛ぎであり、お客にお茶を出すのは心からのもてなしの一つである。それとペットボトルは距離があり過ぎる。だからペットボトルを売るのは利益だけが目的なのだろうと、勝手に思っている。買う人が居るから作る人も売る人も居る。そんな事は分かる。だが、作って売る人が居たから買う人も出て来たのだろうと思っている。なんせ、エスキモーに麦わら帽子を売り付けるのが優秀な商売人だとの名言がある。だから、そうした企業の誠意を私は疑っている。
 
 我々はあまりにも寛恕の精神に富み過ぎてはいないか。他人の過ちを許すのは必要だ。しかし単なる過ちならともかく、意図してごまかそうとしたのなら、簡単に許してはならない。善意を踏みにじられて、けろっとしているのは人間ではない。言うならば、神様の領域である。話が脱線しているように思われるかも知れないが、私の持論は、曖昧な言葉が曖昧な考えを作り、曖昧な考えがまた、曖昧な言葉を許してしまう、と言う事にあるから、話は首尾一貫しているつもりである。