夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「歌を歌う」は怠けた言い方で、日本語を駄目にしている

2008年07月05日 | Weblog
 「持論を持つ」「犯罪を犯す」が重言ではないとの理由に「歌を歌う」が通用するから、があるが、それはおかしい、と述べた。そのあとも色々と考えて、やはり「歌を歌う」はおかしいと思った。
 歌だから「うたう」のであり、「うたう」から歌なのだ。その証拠には「思いを思う」とも「話を話す」とも「考えを考える」などとも絶対に言わない。
 「思い」なら「いたす」との言い方がある。「話」なら普通には「する」だ。「歌」だって「口ずさむ」の言い方がある。「うたう」と言うのは、「うたい文句」との言い方もあるように、強調する事でもある。「うたう」と言うのは「朗々と」のようなニュアンスがあるのではないのか。
 それにしても「歌を歌う」はおかしい。単に「歌う」に相当する言い方を磨かなかっただけではないのか。日本語にはこうした怠けた言い方が結構有る。ほかに適当な言い方が無いために、それで通用しているが、本来は駄目な言い方なのではないか。
 通用しているから良いのだ、との考えを私は駄目な考え方だと思っている。そんな事を許していたら、どんな事だって通用してしまう結果になる。「通用している」は言い換えれば「慣用」である。「慣用」との言い方で、日本語がいかに曖昧に処遇されているか。送り仮名がそう、漢字の書き分けがそう、漢字と仮名の書き分けがそう。すべて「慣用」で処理している。その結果、幾つもの方法が生まれてしまう。
 自由で望ましい、だって? 一つの言葉の意味や表記が自由気ままであって良い訳がない。単に一つに決める勇気が無いから、野放しにしているだけではないか。

 こうした曖昧さが日本ではありとあらゆる所にその欠陥を現す事になる。食品の偽装など、その一端に過ぎない。国産牛と和牛の違いにしても、変な話である。言葉に対する曖昧さは、物事の本質に対しても影響を及ぼし、本質が曖昧になってしまう。
 「六甲のおいしい水」が、何と六甲とはまるで関係の無い所の水だったと言う。これはハウス食品の偽装事件だが、六甲山系は御影石の産地としても知られている。御影石はその名の通り、兵庫県は六甲山麓の御影と言う所で産出される花崗岩の名石である。その名があまりにも有名になり、花崗岩の代名詞ともなっている。だから日本では産出しない赤い花崗岩(スウェーデンからの輸入)でさえ、御影石と呼ばれてしまう。
 それはともかく、緻密な岩石層を濾過して出来た水だから六甲のおいしい水になるのである。原理など全く問題にせず、単に地名だけにこだわるから、六甲に近ければ六甲のおいしい水だ、などと思ってしまうのであろう。善意に解しての話だが。

 ハウス食品は単に水だけの話だと思っているかも知れないが、私は同社の製品は今後一切買うまいと思った。同社のカレールーは同種の製品の中でも安価な方で、最近、私はそれを使っていた。私はカレーは玉ねぎのみじん切りをオニオンスープになるくらいにまで炒めた物をベースにして作っているから、本当は既成のルーなど要らないのだが、簡単だとの理由から使っていて、それには安価な同社の製品で十分である。
 水は日本では本来は無料で手に入った。しかしだんだんに水がまずくなって、有料の水がもてはやされるようになった。空気と同じように本来は安全で、しかも無料のはずだった水を売る。だから、売るからにはそれだけの心構えが要る。それが皆無だった。単にぼろ儲けをしたいだけだった。そんな会社の製品を買う訳には行かない。

 こうして私は自ら選択肢を減らしてしまうのだが、それでも一向に困らない。カレールーは、グリコもあるしエスビーもある。万一、それもまた駄目になれば、自分でルーを作ればそれで済む。ぎょうざなど、私は市販品を買った事が無い。けちな性格もあるが、緑茶や紅茶のペットボトルなど買わない。何を使ってどのように作られているか分からないではないか。
 お茶をいれるのは寛ぎであり、お客にお茶を出すのは心からのもてなしの一つである。それとペットボトルは距離があり過ぎる。だからペットボトルを売るのは利益だけが目的なのだろうと、勝手に思っている。買う人が居るから作る人も売る人も居る。そんな事は分かる。だが、作って売る人が居たから買う人も出て来たのだろうと思っている。なんせ、エスキモーに麦わら帽子を売り付けるのが優秀な商売人だとの名言がある。だから、そうした企業の誠意を私は疑っている。
 
 我々はあまりにも寛恕の精神に富み過ぎてはいないか。他人の過ちを許すのは必要だ。しかし単なる過ちならともかく、意図してごまかそうとしたのなら、簡単に許してはならない。善意を踏みにじられて、けろっとしているのは人間ではない。言うならば、神様の領域である。話が脱線しているように思われるかも知れないが、私の持論は、曖昧な言葉が曖昧な考えを作り、曖昧な考えがまた、曖昧な言葉を許してしまう、と言う事にあるから、話は首尾一貫しているつもりである。

メールと顔文字が文章力と感情表現を駄目にする

2008年07月04日 | Weblog
 友人からメールでの顔文字をどう思うか、と聞かれた。今までそのような事を考えた事が無かった。そこで考えてみた。自分の範疇には無い事を考える機会など滅多にある事ではない。これは貴重な機会なのである。
 メールを確実に連絡を取りたい時に使うのではなく、日常の会話の代わりにしている事自体が、私には信じられない。電話とは違って相手の都合おかまいなし、ではないから、失礼ではない。で、そうした場合のメールは日常の会話の代わりなのだから、複雑な事を言う必要はない。単なる挨拶程度でも一向に構わない。
 だが、会話なら顔も見えるし言葉のニュアンスも分かる。それがメールでは出来ない。だから顔文字を使う。そうやって自分の気持を伝えようとしている。それは携帯でのメールだからこそ成り立つのだろうと私は思っている。言い替えれば、携帯でのメールにはそれだけの機能しか無いと言う事にもなる。
 最新の携帯は2ストローク入力も出来るし、私もそれを持っている。でも携帯でメールを日常的にしたいとも、しようとも思わない。携帯で文章を入力するのはとても大変な事だと思う。私には体験が無いから何とも言えないが、似たような体験はしている。

 パソコンでのローマ字入力である。私は昔、英文タイプライターを使わなければ書類が出来ないような仕事をしていた事がある。だから英文タイプは打てる。しかし、日本語のローマ字入力は至難なのである。指が英文のようには動かない。英語で the world と打とうと思うと、自然に指がそのキーに行く。ところが、日本語で「たかい」と打とうと思っても、いちいち「た=ta」「か=ka」と頭の中で翻訳をしないと駄目なのである。つまり、指がローマ字を覚えていない。更には普段ローマ字で読み書きなどしていない。だから文章などなかなか思うようには出来ない。文章を考える以前にキー入力に頭を取られてしまうからである。
 しかし私は富士通が開発した親指シフトキーボードと言うのをマックでもウインドウズでも使っている。ローマ字と同じキーの数で日本語のすべてが入力出来る。だから無理が無い。こちらの方は頭ではキーを覚えていなくても、指が完全に覚えている。だから、キーボードは全く見ずに入力が出来る。だからどんどん文章が出来上がる。我々は普段、漢字仮名混じりで物事を考えているのだ。「東京」は「とうきょう」で考えてはいないにしても、絶対にTOUKYOUではない。考えるとするなら、TOKYOである。だから仮名キーで入力するのはごく自然なのである。
 そうやって比べてみると、ローマ字入力では思ったような文章にはなかなかならないのである。何よりも、考えが自然に流れない。
 ずっと昔、ある作家が当時はやり始めたワープロで書いた原稿はすぐに分かる、と言っていた。それは文章がつたないからなのである。彼は自分がワープロの入力が不得手だから、それがはっきりと分かるのである。

 そうした事から、携帯のメールで思いのたけを語るのはとても難しいはずである。その上、現在の若者は文章力が無い。それはある調査研究が明確に答を出している。即ち、筋の通った、言い替えれば論理的な考えが出来ない。長文で気持を伝える事が難しい。だからともすれば情緒に頼った文章になる。しかもそれは短い文章の組み合わせでしかない。そしてそれを補うのが、各種の顔文字になる。
 でも、と私は思う。顔文字だって単純な気持しか表現出来ない。だから顔文字で表現出来るような気持なら、文章でも十分に表現出来て当然である。即ち、顔文字は不要である。
 だが、先日息子と話していて、メールの文章で「。」があるのと無いのとでは伝わる気持が違うと言うのを聞いて驚いた。どのように違うのかまでは聞けなかったが、聞いても私が納得出来るとは思えない。
 文章でも、(笑)などとする事がある。それは苦笑であったり、自嘲的な笑いであったり、様々なのだが、「と、自嘲しております」などと書くよりもずっと簡単に気持の表現が出来る。だから時たま使う事で効果がある。のべつ幕無しでは単に鼻につくだけだし、効果はどんどん薄くなって行く。それにこうした(笑)などが使える場合は限られている。

 顔文字で気持を表現出来るのは、限られた場合のみである。親しい間柄であり、しかも砕けた会話の場合だけである。だから正式な文章には使えるはずがない。しかしこうした顔文字での表現に慣れ切って、文章では表現出来なくなってしまうと、社会でのきちんとした文章はとうてい書けそうもない。それが恐ろしい。
 製品の発注のお願いの文書で、最後に、拝んでいるような顔文字があったら、多分、相手は腰を抜かしてしまうだろう。そんな所とは取引は出来ない、と思うかも知れない。
 文章でさえ、気持を伝えるのは至難の技である。だからこそ、手紙の書き方、とか、依頼の文書の書き方、などと言う本が出ている。私自身、そうした本を何冊か作った事があるから、文章がどんなに難しいのかはよく分かるつもりである。
 そして困難な事には、読む側にも書いた側と同じような理解力が必要になる。どのように書こうとも、読む側に読み取る能力が無ければ、何にもならない。

 そして今の日本では、残念ながら、そのどちらもが欠けている。新聞にどんなに分からない、筋の通らない記事があろうとも、読者からクレームは付かないらしい。実際、私は分からない記事の事で新聞社に問い合わせた事がある。しかしながら、一つの社は、そうした事にはお答え出来ない事になっております、との答しか返って来なかった。一つの社は、なるほど、分かりませんねえ、担当に伝えておきます、で終わり。
 つまり、書く方、読む方、双方共に文章の能力が欠けている。これは新聞には限らない。書籍でもそうした情況になっている。
 先に、最近の若者が論理的な考えが出来ない、との調査報告があったと述べた。実は、論理的な考えが出来ないのは何も若者には限らないのである。大の大人が出来ていない。大人が出来ておらず、でもそれで世の中が成り立っている。そうした大人の背中を見て、子供達は育つのである。若者の姿を見て、大人は自らを反省すべきなのである。しかし、そうではなく、子供に文章を書かせる訓練をして論理的な考え方を鍛えようなどと考えているのである。何の反省も無い。そうした人々が識者として様々な発信をしている。
 そうした人々に私は問いたい。ではあなたは、論理的な考え方が出来ているとお思いか、と。

 『問題な日本語』と言う本の中には、説明に関連した幾つかの漫画がある。そして驚く事には、その漫画が、書かれている文章よりもずっと的確に事の本質を伝えているのである。私は同書の学者の考え方にはほとんどと言えるくらいの疑問があり、とうてい納得は出来ないのだが、この漫画にはひどく同感してしまう。それだけの説得力のある事を伝えている。作者の能力の高さゆえではあるが、文章にも限界がある。そうした場合に、本質を突いた絵は実に有効な働きをする。
 だが、顔文字にそのような力があるはずもない。それで気持が伝わると言う、その単純極まる考え方が私には恐ろしく思える。多分、遊びのつもりだろうから、それで良いが、それが本気になってしまう事が恐ろしいのである。
 インターネットの書き込みに逃げ場を求めた青年が居た。同じような事が顔文字のメールの世界にももしあるとしたら、こんな怖い事は無いではないか。

 「ことば」は元々は「事端」だったと言う。「事」は物事の本質で、「端」は半端との事だ。口から出た音声では物事の本質は伝えられない、と言う訳だ。古代の人々の本質を見抜く能力には恐れ入る。古代には言葉が未熟だったから、本質を伝えられない、と言う事も考えられるが、言葉は今もそれほど発達してはいない、とも考えられる。と言うのは、複雑な考え方が出来るようになったその割には言葉は進歩していないとも言えるからだ。 だから今だって「ことば」は「事の端」でもある。では、本質、つまり本当の気持を伝える手段は何か。それは顔や態度に現れる。
 7月2日のブログで、日本語が言葉に頼らない言語であるとの考えを私は批判した。同じ人間である以上、言葉に頼る割合は日本人も欧米人も変わらないと思っている。単一言語の日本人は言葉が通じる安心感から言葉を粗末にし、様々な言語環境を持たざるを得ない欧米人は言葉を大切にしているだけの違いだと思っている。
 だから彼等は日に何度も「愛している」と言わないといけないと思い、同時にそうした言葉を口に出すと言う行為を通じて、愛の表現をしているのではないのか。顔や態度に現れる、とはそうした事だと思う。「愛してる」と言う以上、顔だって愛している顔になる。愛してると言おうと思う気持がそもそもは大事なのである。それを口に出さずに愛している顔つきをしろったって、無理な話である。

 日本人だって言葉に頼らなければならないのである。それなのに、それが携帯のメールになり、足りない表現を補うのが顔文字になる。嬉しい顔を送ったから、気持も伝わるなどと考えているとしたら、それは単なる気持の出し惜しみでしかない。顔文字を使う事で、喜怒哀楽の気持を表す事がどんどん下手になるのでは、と私は思う。極端な言い方だが、ゲームだってバーチャルの世界である。そこにはまってしまうと、例えば、人が死んでも簡単に生き返ると思ってしまう危険性がある。ペットが死んだら、どこかの工場へ持って行けば、簡単に直してもらえると信じている子供が現実に存在する。
 メールも顔文字も単なるデータに過ぎない。ちょっとした事で簡単に消失してしまうようなそんな頼り無い事柄に頼っている事を私は非常に恐ろしい事だと思っている。

日本語の変な言葉、変な言い方に妥協はするな

2008年07月03日 | Weblog
 インターネットで、「持論を持つ」は「持つ」が重複しているのではないか、別の言い方は無いか、との質問があった。辞書を見れば用例として別の言い方が出ているのでは、と思って調べたら、何と、四冊の内、用例のあったのはわずかに一冊のみ。岩波国語辞典で「持論を展開する」である。そして四冊の説明はほとんど同じと言えるくらいによく似ている。岩波の説明は「その人がいつも主張する説・議論。持説」である。「説・議論」が辞書により「説・意見」となったりするくらいの違いである。
 問題は「持」の意味にある。「持論」が漢語である以上、漢字としての「持」の意味を検討するのが筋である。『常用字解』では「保有し、その状態を持続する(保ち続ける)」である。
 一方、日本語としては、
1 手に取る
2 所有する
3 保つ
などの意味になる。そして「持論」の場合は「保つ」だろう。
 だから、「意見を保ち続ける」と「保つ」は重複する。

 しかし、この質問に対する解答の半分は、重言ではない、であった。
 例えば「犯罪を犯す」「歌を歌う」などは普通に通用する、と言うのがその理由である。
 「犯罪を犯す」については、『問題な日本語』でも重言ではない、と言い切っている。そして同じく「歌を歌う」はおかしくない、と言う。だが、「歌を歌う」と「犯罪を犯す」は言葉の性質が違うはずである。前者はどちらも和語だが、後者は漢語と和語の組み合わせである。「はんざい」と「おかす」。明確に違う。だから「犯罪=つみをおかす」との意識は薄く、「犯罪=はんざい」と言う一つの言葉として成立している。ここには「おかす」の意識は無いはずである。だからこそ、「犯罪を犯す」は成り立つのである。
 ところが「歌を歌う」は明らかに違う。私は名詞と動詞のどちらが先に出来たのかは知らない。岩波古語辞典では、「うた+あふ」つまり「歌+合ふ」の約が「うたふ」で、元は唱和する意味か、と説明している。と言う事は、「歌」と言う名詞が元になっているとの考えである。
 従って、「歌を歌う」は「歌を歌合う」であって、もともと、重言になる。「歌を歌う」は、古典に用例があるから通用すると言う人がいるのだが、一つとか二つの用例だけで、そのように断じる事は出来ないと思う。いくら古典と言っても、作者の間違いと言う事だってある。そして、これを肯定する人は英語のsing a songを挙げるのだが、これと同じとは言えないだろう。
 singもsongも、どちらも1音節の言葉である。そして重要なのが母音iとaの違いである。これは明確に違う。だから一つは名詞で、一つは動詞として成立しているのではないのか。これと同じような事を日本語でするなら、「歌を唄う」あるいはその反対の「唄を歌う」のようになるのではないか。
 日本語は初期の段階で漢字と言う優れた文化と出会ってしまった。始めは困難だが、漢字を習得すれば、様々な事が漢字で表現出来る。そこで和語を磨く事よりも、漢字及び漢語に習熟する道を選んだ。だから同音異義語でも表記が違うとの理由で許されて来た。「うたをうたう」はその延長線上にある、と私は考えている。だから、「うた」を「詩」とか「唄」などと書きたがるのである。

 「犯罪を犯す」「遺産を遺す」は使い慣れているからOKだ、との考え方も分かるが、それでは、間違いでも使い慣れればそれで通用するのか、と言いたい。使い慣れればOKと言う人は、その理由に「山茶花=さざんか」もあるではないか、と言う。
 これは「さんざか」の語順が間違ってしまった例である。「だらしない」は「しだらない」をわざとひっくり返した言い方である。それを今さらとやかく言う必要は無いが、だからと言って「遺産を遺す」で良い、とするのはあまりにも考えが短絡的である。
 使い慣れて通用しているから、との理由で何でもOKにしてしまう風潮を私はとんでもない事だと思っている。水は低きに流れるのである。フランスではフランス語に国が目を光らせて、正しいフランス語を守ろうとしていると聞く。自分の国の言葉を大事にしない国が栄えるはずが無い。何でもカタカナ語、それも圧倒的に英語が多い日本語は、日本人が日本語を大切にしていない明らかな証拠である。
 日本はアメリカの51番目の州であると言った評論家がいるが、現実には本当にそうなりつつあるのではないのか。政府主脳がアメリカに尻尾を振り、国民もまた尻尾を振っているなら、本当にいつかはアメリカの州の一つになってしまう。大和魂は一体どこに消えてしまったのか。

「日本語は暗黙の了解を前提としている」の東京新聞に疑問

2008年07月02日 | Weblog
 今日の東京新聞の文化面で新連載が始まった。「外から見た日本語」で、東京女子大学教授の西原鈴子さんと言う方が書かれている。今後が楽しみだが、ちょっと気になった事がある。
 言語のコミュニケーションパターンには二通りあって、高文脈タイプと低文脈タイプに分かれる。高文脈では伝えるメッセージの内容のうち、言葉に頼る割合が少なく、その他の方法を駆使するのだと言う。低文脈では言葉その物に頼る。その典型的なのがドイツ語で、英語も同じ部類である。だから欧米では夫婦でも常に「愛している」と言い合っていないとその関係が保てないのだそうだ。
 ここまでは、まあ納得出来る。だが、次の言葉が私には引っ掛かる。

 「くちかずが多いこと、理屈っぽいことは称賛されない日本語社会が、低文脈の人種からは、あたかも厳密にものを考えない集団と思われてしまいがちなのは悔しい気がしてならない。高文脈のほうがぐっと伝達効率が良いはずなのに。」

 日本語には確かに、「目は口ほどに物を言う」とか「以心伝心」などのことわざがある。つまり、理屈っぽい事は本当に嫌われる。それは厳密に物を考えない事ではないのだ、とこの学者は言うのである。言い替えれば、それで日本人は厳密に物を考えている、と言っている。
 でも本当にそうだろうか。言葉に頼らずに、一体何に頼れると言うのか。そして肝心な事は、その言葉その物に対してでさえ、日本人は厳密さを求めていない、と言う事実なのである。日本人が理屈っぽい事を嫌うのは、この記事を見て今更ながらに気が付いたのだが、理屈っぽい考え方が出来ないからである。いい加減な曖昧な言い方が蔓延している。例えば、何かをお願いした時、相手は即座に断らず、「考えさせてくれ」と言ったりする。そこで、お願いをした人間は、そろそろ考えが付いた頃だろうと、答を聞きに行く。すると、相手は面食らう。なぜなら、相手は頼まれた時に断ったつもりでいるからだ。
 「嫌です」とは言いたくないから、聞こえの良い「考えさせてくれ」と言って逃げるのである。
 その話を犬飼美智子さんだったか、関西に移住しての体験談で語っていた。相手は「そやから、考えときまっせと言うたやおへんか」と呆れ果てたように言ったそうである。東京人だって、そうやって断る事をする。
 クレームを付けると、相手は「善処します」と言う。で、善処されるかと言うと、そんな事はまず滅多に無い。しかし相手は言った事を守っているのである。なぜなら、「善処」とは自分達にとっての善処でもあるからだ。
 それなのに、クレームを付けた方は、自分の考え通りにしてくれるのが「善処」だと思っている。相手は、自分達の立場を守れる範囲内で処理することが「善処」だと思っている。「善処」と言う極めて簡単そうに思える言葉一つでさえ、このような食い違いがある。それは「善処」を厳密に考えていない証拠である。そして問題なのは、それで日本人は今までもやって来たし、これからもやって行こうとしている事なのである。

 言葉だって、同じ民族、同じ日本語を使っている同士でさえ、その文化環境によって使い方が違うのである。それを言葉を頼らずにどうやって、明確な意思を伝える事が出来ると言うのか。
 テレビを見ても、新聞を読んでも、本を読んでも、至る所にいい加減な考え方がある。言葉を厳密に使わず、曖昧に解釈して使っている事からいい加減な考え方が発生している。
「事」と「こと」は意味が違うから漢字と仮名で書き分けよ、と言う論理が横行して、誰もが疑問に思わずそれに唯々諾々として従っている。
 では「事」と「こと」の違いを明確に説明してくれ、と言えば、言葉に詰まるはずである。著名な国語学者がその違いをある著作でとくとくと説明しているが、きちんとした説明になどなっていない。しかし本人は説明が出来ていると信じ込んでいる。もうその事自体が物事を曖昧に考えている証拠である。
 言葉その物の説明にしても、それがきちんと出来ている国語辞典は皆無である。それは私は幾つもの例を挙げて実証する事が出来る。現実にそうした原稿を幾つも書き上げている。しかし、厳密に物を考える習慣の無い人々にとっては、多分、たわごとにしか聞こえないだろう。だから本にはならない。

 新聞が言葉をいい加減に解釈して、おかしな論理を展開している例なども、ここがこのようにおかしいと言っても、それはあなたの個人的な考え方であって、などと言われてしまう。個人によって考え方は様々に違うのは当然である。だが、その違いが、ある一つの言葉の解釈の違いから生まれているのなら、違って当然だ、とは言えないはずである。
 言葉の意味がそれぞれに違うのなら、意思の伝達など、出来るはずがないのである。だからこそ、以心伝心などと言ってごまかしたりするのではないか、と思ったのである。
 日本は世界でも稀に見る単一言語の国家である。だから、同じ言葉なら、誰にも同じ意味として伝わると考える。それはいい。だが、それなら、その言葉がどのような意味であるのかを厳密に定義しておく必要がある。しかしそれは出来てはいない。
 この記事の執筆者は、日本人が「あたかも厳密にものを考えない集団」と思われてしまうのが悔しいと言う。私に言わせれば、「あたかも」ではなく、「現実に」厳密にものを考えない集団なのである。人々が厳密に物を考えていたら、現在のようないい加減でどうしようもないような世の中にはなっていないはずである。
 この連載はあと9回続く。今後が楽しみだ。

 そしてもう一つ。同じ記事の隣に同紙校閲部の記者が書いた記事がある。

 「72年の岩波国語辞典(第2版4刷)で、ハンバーガーの項には、矢印でハンバーグを見よ、とあるのに、ハンバーグの項を見ても、ハンバーガーの説明がないように、ハンバーガーは日常的な言葉ではありませんでした。」

 幸いな事に私はその同じ第2版4刷を持っている。ただし、私のは73年12月6日とある。その「ハンバーグ」は「ハンバーグステーキ」の略。ひき肉にパン粉・玉ねぎなどをまぜて焼いた料理、とある。本当にそれだけだ。もちろん、現在の版では「ハンバーガー」にきちんと説明がある。
 だが、「ハンバーグ」に説明が無いのが、当時はハンバーガーが日常的な言葉ではなかった、との証明になるのだろうか。単に説明の仕方が悪いだけの話ではないのか。当時、ハンバーガーが日常的な言葉ではなかったのなら、なぜ国語辞典に載っているのか。ご存じのように、新しい言葉が国語辞典に載るには、日常的な言葉になった、と認定されなければならない。
 そうした事から考えても、72年のハンバーガーの説明がきちんと出来ていない理由にはならない。
 ここには幾つもの考え違いがある。その一つが国語辞典は絶対に正しい、である。だから説明が無いから、当時は一般的な言葉ではなかった、と即断する。その二は、辞書が言葉を載せるその意味が分かっていない。その三は、この第2版の「ハンバーガー」と「ハンバーグ」の関係がまるで分かっていない。その四は、72年当時、ハンバーガーが日常的な言葉であったかどうかの確認を怠っている。少なくとも、確認したとの証明はしていない。第五には……、もうやめよう。
 そうか、こうした考え方でこの人は記事の校閲をしているのか、と私は心配になった。この記事だって、当然に別の校閲者が見ているはずなのである。それとも校閲部の記者の記事はフリーパスなのか。前にも書いたが、今の所、私は東京新聞がとても気に入っている。でもこの校閲者の考え方を知って、不安になった。

 この二つの記事、私の考え方がおかしいのだろうか。どなたか忌憚のない御意見を聞かせて下さい。