夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

食料を無駄にして金儲けを企む人々

2008年07月07日 | Weblog
 アフリカでは多くの国の人々が飢えで苦しんでいると言う。7月5日のテレビ朝日のニューステーションは特集番組「地球危機」でその実態を紹介した。食料のとうもろこしが倍の値段になって、買えないのだと言う。
 そしてアメリカではそのとうもろこしを燃料にしようと、価格が高騰したのである。生産農家は少しでも高くと買い入れ先を選び、挙げ句は賭博でどんちゃん騒ぎである。石油メジャーの後押しで政権の座に就いているブッシュだから、金儲けが目的なのは誰の目にも明らかになってしまっている。人が死んでも自分だけは金を儲けたい。
 そんなアメリカでホットドッグだったか、早食い競争が開かれ、日本人男性が挑戦し、それを馬鹿なテレビ局が放送している。飢えている人間が居ると言うのに、片や早食い、大食いの競い合いと言う脳天気ぶりである。やるのは勝手だが、何もそれを嬉しそうに放送する事は無いだろうに。
 と言うよりも、テレビはそうした競技?を批判する立場にあるのではないのか。
 「地球危機」では日本のスーパーで閉店時に、まだ食べられる食料品を大量に破棄している姿を写していた。店の担当者はまだ十分食べられます、と言っている。何と言う無駄をしているのか。
 これにははっきりと理由がある。日本では諸外国よりもずっと消費期限を短くしているのだと言う。なぜなら、期限が短いと、うっかりと食べ損なって捨てる。しかしもともとは食べたくて買ったのだから、また買う。つまり、二度買いをさせる目的が明確にあるのだと言うのである。捨てさせて、再び買わせる。何と神を恐れぬ行為だろうか。

 期限には「消費期限」と「賞味期限」の二つがある。でもおかしいよね。
 「消費期限」は安全の期限で、「賞味期限」は旨さの期限である。両者は違う。だが、食品なのだから旨くなくては意味が無い。それに旨いか旨くないかは人によっても違う。そんな事を生産者に指定されるいわれは無い。逆に言えば、食品なのだから、おいしく食べられないのであれば、食品としての生命は無いも同然である。即ち、賞味期限イコール消費期限になる。
 そうは考えない場合、賞味期限の方がずっと短い。だから賞味期限を有り難がる人はずっと早く捨てる事を迫られる訳である。先の考え方から見れば、捨てて買わせる機会がずっと増える事になる。
 昔は、そんな表示は無かったから、我々は臭いをかぎ、見た目で慎重に判断して食べた。それでおなかをこわした事などはまずは無かった。そうした感覚を忘れて、生産者の言う通りにし、まんまとその手に乗せられている。
 これは邪推ではないのですよ。
 その証拠には、農産物でも規格が決められている事実がある。規格外は売れずに捨てられる。しかし農家はアスパラなど、捨ててしまう物の方がおいしいんですよ、とさえ言っていた。
 規格を揃えるのは、単に運搬に便利だからに過ぎない。しかも見た目が良いから高く売れる。結局は金儲けである。儲けて悪いとは言わない。しかし自分さえ儲かれば良い、は通用しないだろうと言うのである。
 下町に車で野菜を売りに来るおやじさんが言った。山の手ではこの値段では売れないよ、と。安いと駄目なのだと言う。高ければ安心して買うのだと言う。野菜を見分ける力も無く、単に金額で判断する。なんとあさはかな。もちろん全員がそうだとは言っていない。しかしそうした傾向があるのは確かである。
 自分で判断出来る能力があれば、規格外の野菜を安く買える。しかも無駄にせずに済む。実際、ある店で両者を並べたら、圧倒的に規格外の安い物の売れ行きが良かったのである。
 結局は、言葉の意味を厳密に考えず、物事もいい加減に考えているから、相手の思うがままに操られてしまう。

 話は飛ぶが、ヘリコプターが飛んで、行方不明になった。そのニュースをフジテレビでは東京からリポーターを派遣して報道していた。随分と無駄な事をするなあ、と私はずっと前から思っていた。洞爺湖サミットにはいつもの司会者の一人が行っている。
 彼女の取材力が素晴らしいと言う事に反対はしない。もっとも、そんな素晴らしい力を私は見た事が無いのだが。確かに重要な事が話し合われる大事な会議だが、他の人では出来ない取材が彼女なら出来るのでしょうか。
 なんで、現地のネット局の人材を使わないのか。特にヘリコプターの事故での取材は現地の人で十分出来る。土地勘だってあるはずだ。
 そしてその東京から派遣されたリポーターが盛んに「切りが」「切りが」と言っている。何に「切りが無い」のかな、と耳を澄ましたら、何と「霧」の事ではないか。何度聴いても「切りが」なのである。
 この二つは両方とも「り」のアクセントが高いが、微妙に違う。「霧」は続く言葉のアクセントが下がらないが、「切り」は次の言葉のアクセントが下がるのである。だからはっきりと聞き分けられるし、言い分けられる。わざわざ費用を掛けて東京から派遣したのに、アクセントが標準語でないとは。

 何も、重箱の隅をつつくつもりは無い。だが、これはプロの仕事なのだ。リポーターの真価は取材力にあるのは百も承知。作家の立松和平氏のように、もともとアクセントの区別の付かない土地で生まれ育った人なら、その平坦な話し方が、逆にトレードマークにもなる。アクセントの感覚の無い人に標準語のアクセントで話せ、などと無理な事は言わない。しかし普通に話せている人なのだから、きちんと標準語のアクセントを学習してプロの仕事をせよ、と言うのである。
 昨日書いたが、メーカーは上を見て暮らせ、と言っている。その「上」とは本当は物の話ではない。理想の事である。プロの仕事人は仕事の上で常に理想を追い続ける必要がある。あなた方が視聴者よりも何よりも大切に思っているスポンサーが言うのである。従わないと罰が当たるよ。