はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

秋田城~久保田城~鶴ヶ岡城~村上城

2024-06-13 00:39:53 | 東北城巡りの旅

秋田城は百名城ではないが、続百名城です。

秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」(じょうさくかんがいせき)と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。
天平5年(733年)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に遷(うつ)された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(わたりしま)(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかいこく)(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。<公式サイトより>

奈良、平安時代の遺構で城というイメージではないが、堀などの防御施設があれば城という概念なので続、百名城なのだろう。規模は大きい

次に百名城の久保田城へ・・

秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国でも古い歴史を持つ大名です。
関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設しました。
以来、秋田市は久保田城下町を中心として近世・近代都市として発展してきました。

御隅櫓より秋田の市街を望む

久保田城は、慶長七年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長八年(1603)年五月に開始され、翌年の八月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永八年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として、また、桜の名所としても親しまれています。

表門

 

にかほ市の道の駅から日本海を眺める

象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花

にかほ市象潟は松尾芭蕉「奥の細道」最北端の訪問地として有名、標記の由来となった中国4大美人「西施」像と石碑が建立されています。<ネットより>

天気も気温も良く、しばし寝ころびたい気分だ。展望風呂もあった。

鶴岡市の鶴ヶ岡城へ・・続、百名城です

荘内神社

荘内神社が鎮座している所は、「鶴ヶ岡城」というお城の本丸御殿があったところです。
御城の跡地になぜ、神社が建てられたのか・・・?その理由は、荘内神社の御祭神を見ると分かります。
荘内神社には、庄内藩の歴代藩主の中から4人の方が御祭神として祀られています。
そもそもこの神社は、酒井家の歴代藩主を慕う庄内一円の人々の創意により、創建されたものなのです。

酒井忠次公の兜(赤い兜)

酒井忠勝公荘内入部400年記念、御神輿

藤沢周平記念館に入ってきた。

鶴岡市出身の時代小説家、藤沢周平の作品を深く味わう拠点。自筆原稿や創作資料、愛用品を展示しながら、藤沢周平の作品世界と生涯を紹介している。『蝉しぐれ』『三屋清左衛門残日緑』『橋ものがたり』『海鳴り』...

次に村上城へ・・続、百名城です

村上城は、標高135mの臥牛山に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前半には城が存在していたものと考えられます。戦国時代 には、小泉荘の国人領主本庄氏の本拠地として、永禄11年(1568年)の上杉謙信との籠城戦など、幾たびもの戦いが繰り広げられました。江戸時代に入ると、村上氏、堀氏、松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後の中心拠点として整備されました。その後も、たびたび城主が交代しますが、享保5年(1720年)以後は内藤氏が代々城主を努め、明治維新を迎えます。
 現在、天守櫓・門などの城郭建造物は存在しませんが、城跡一帯には戦国時代に築かれた竪堀・虎口などの遺構と、江戸時代に築かれた石垣の遺構が混在して残り、その姿が貴重であるとして、平成5年に村上城跡は国史跡に指定されました。

村上市は天皇皇后・雅子様の故郷で小和田家は村上藩士の家系で結婚されたときは武家屋敷など町が整備されたそうです。また三面川(みおもてがわ)の鮭の遡上で有名です。と山頂で地元の方が話してました。手ごろな山なので体力づくりの地元の人が多かった。

この後、新潟市の極楽湯へ(全国にあるのだろうか?)・・・ 道の駅の元祖「豊栄」は車が多く、バイク集団や暴走族風の車がたむろしており、別の道の駅「加治川」へ移動しました。新潟県の24時間スーパー銭湯はなかった。

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新発田城~清水園~足軽長屋~春日山城

2024-06-13 00:38:46 | 東北城巡りの旅

道の駅「加治川」から新発田城へ

最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、天正9年(1581年)、新発田重家上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城。大名としての新発田氏は滅亡した[4]

その後上杉氏会津転封に伴い、慶長2年(1597年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。<ウイキペディア>

表門

二の丸隅櫓

本丸と二の丸の約半分は廃城令後、陸軍省の管轄となり、昭和28年からは陸上自衛隊が駐屯し、現在に至ります。

なので三階櫓には入れない。

赤穂義士堀部安兵衛は新発田に生まれました。18歳で江戸に出て、高田馬場の決闘の助太刀によって名を挙げました。

 

この後、弥彦山に行って佐渡島を見る予定だったが雨でやめた。代わりに新発田市内観光をしました。

蔵春閣・・この日、市民お茶会があちこちで開催されてて中に入れませんでした。

「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」は1912年(明治45年)、新発田出身の大実業家である大倉喜八郎翁によって、東京の隅田川沿いにあった向島別邸内に建てられた迎賓館で、政財界の大物や海外の賓客がもてなされていました。

大倉喜八郎が創立し経営に腕を振るった企業には、今なお残っているものだけでも、大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清オイリオ、あいおいニッセイ同和損保、特種東海製紙、リーガルコーポレーション、ニッピ、日本化学工業、東京製綱、日本無線、本渓鋼鉄公司(中国)などがあります。<ネットより抜粋>

次に清水園(旧新発田藩下屋敷大名庭園)

ここでも市民お茶会で武家屋敷、茶室には入れませんでした。

小雨で風情がありました。

新発田藩資料館、堀部安兵衛伝承館、清水谷蔵所資料館

次に旧新発田藩足軽長屋

狭い玄関

この後、上越市の春日山城跡へ・・

戦国時代の名将・上杉謙信公の居城として知られる春日山城跡。国の指定史跡であり、日本百名城にも数えられています。
複雑な自然の地形を巧みに利用した春日山城の堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。現在も、空堀や土塁、大井戸など山城の特徴が残ります。屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構が築かれている点が大きな特徴です。(総構散策マップ 総構を歩く)
標高約180mにある本丸跡からは、日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。
また、春日山城跡の中腹には、昭和44年の大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉謙信公の銅像があります。<公式サイトより>

春日山神社 (祭神は上杉謙信公)

春日山神社より駐車場を見る。

三の丸まで80m・二の丸まで200m・本丸まで330m

二の丸より上越市を望む

帰りは千貫門コースで下った。

毘沙門堂(謙信公が出陣前に戦勝を祈願した所)

春日山城から富山市へ・・・・いよいよ北陸まで南下、目標は達成したのでこのままどこへも寄らずに帰ってもいいが

今夜は富山市のスパ・アルプスへ・・・昼はすき家のねぎ玉牛丼、夜は生中とカレーうどんで最後の夜を迎えました。

 

 

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