はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

白河小峰城・鶴ヶ城・飯盛山・会津武家屋敷・二本松城

2024-06-05 22:50:57 | 東北城巡りの旅

スタンプを押すために再び白河小峰城へ

少し離れたところにある太鼓櫓、唯一現存する建物

奥州関門の名城と謳われた小峰城は、結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりで、寛永9年(1632)に江戸時代の初代藩主丹羽長重が4年の歳月を費やして完成させた梯郭式の平山城です。
寛政の改革で知られる松平定信をはじめ、7家21代の大名が居城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城。約120年の時を経て、平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門が江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元され、市のシンボルとして親しまれています。

東日本大震災で壊れた石垣修理が今も続いている。

前日に外観を一周した

次に鶴ヶ城(会津若松城)へ・・

 

会津若松市のシンボルである鶴ヶ城は室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。 お城といっても当時は天守はなく、館程度でした。 その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。

白虎隊は幕末期、会津藩の軍制で数え16~17才の会津藩士子弟で編成された組織。

土曜だったので遠足などたくさんの人出だった。

鶴ヶ城へいったらここは外せない。飯盛山へも行きました。

登るには長い階段を上がらなければならないが、私は逆回りしました。

慶応4年旧暦8月22日、藩主松平容保の近衛兵として滝沢本陣に出陣した白虎士中二番隊は敵を戸ノ口原に迎え撃つも、新政府軍の猛攻に敗走。飯盛山にたどり着きました。ここで目にしたのは砲煙と炎に包まれた城下でした。少年たちの間では入城すべきか、敵軍に突入し玉砕すべきか激論が交わされたといい最後には「十数人ではとても対抗できない敵の圧倒的戦力の前で、捕虜になって敵の恥辱を受けるようなこととなれば、君侯と祖先に申し訳が立たない」との思いから「潔く自刃して武士の本文を明らかにする」道を選んだという。そして奇跡的にひとり蘇生した飯沼貞吉によって白虎隊の行動が後世に伝えられました。飯盛山の中腹にある墓地にはで自刃した十六士とこれ以前に戦死した3名が加えられ十九士の墓が正面に、右手には戸ノ口原などで戦死した少年たちの墓が立ち並んでいます。

会津さざえ堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。    また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。    

ここから鶴ヶ城までは4キロぐらいあるそうだが、当時の景色で城が燃えているのはよく見えたはずだ。

次に会津武家屋敷へ・・

会津武家屋敷は7000坪の敷地に会津藩家老西郷頼母邸を中心に復元、 重要文化財の旧中畑陣屋、茶室、 藩米精米所、会津歴史資料館などその当時の武家の暮らしを知る事が出来ます。
その中で会津藩家老、西郷頼母邸第二資料館には戊辰戦争で西軍が乱入したとき、 西郷頼母の家族や親戚ら21人が辞世の句を残し、自刃した場が再現されていました。

謎につつまれた坂本龍馬暗殺だが、うわさの人物の墓があった。今井信郎とのことも聞いたが?

喜多方に近いがここに喜多方ラーメンの姉妹店があったので2時前だったが我慢してた。

懐かしい中華そばの味だった。

その後二本松城へ

二本松城(別名霞ヶ城)は、寛永20年(1643年)に入部した初代二本松藩主丹羽光重公によって近世城郭として整備されました。十万石の大藩であった二本松は、戊辰戦争で激しい攻防が繰り広げられ、二本松少年隊の戦死などの悲話を残して落城しました。

二本松城跡の築城は、古く畠山満泰が応永21年(1414)に塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、二本松藩の居城として明治維新に至りました。現在の二本松市街地の原型はこの近世二本松藩成立期の丹羽氏により形成されたもので、基本的には現況の町割と大きな差はありません。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、戊辰戦争においても重要な役割を果たしましたが、慶応4(1868)年7月、二本松少年隊の悲話を残して落城しました。その後、城跡には二本松製糸会社(後に双松舘)が明治6年に建設され、当地域における近代化に大きな役割を果たしました。

戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像。
二本松市名誉市民であります彫刻家・橋本堅太郎氏に依頼して制作したものです。
平成8年(1996年)7月28日建立。

箕輪門

 

本丸跡までは車で行ける。

歴史資料館に菊人形と提灯山車が展示してあった。二本松提灯祭りと二本松菊人形展が有名です。

 

コメント
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