【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ゴマをする

2011-09-26 18:39:13 | Weblog

 擦られる胡麻の身になったら、なんて可哀想な行為!

【ただいま読書中】『時の旅人 ──H・G・ウエルズの生涯』ノーマン&ジーン・マッケンジー 著、 村松仙太郎 訳、 早川書房、1978年、3500円

 H・G・ウエルズの父母の生い立ちから、本書はゆっくりと語られます。貧しいけれど基礎教育は受けた二人は、破産すれすれの陶磁器卸商を営んでいました。破産せずにすんだのは副業で扱っていたクリケット用の商品のおかげですが、彼ら(あるいは当時の英国国民の多く)は常に「失敗する恐怖」とともに生きていました。その恐怖心がヴィクトリア朝時代の「勤勉努力」の原動力でした。現実逃避の傾向が強い父親と常に不安に押しつぶされている権威主義の母親の間に末っ子としてバーティは生まれます。逆境に立ち向かう術を独力で学んだバーティは、14歳で世間に放り出されます。色々回り道がありましたが、ついに科学師範学校(科学の教師を養成する学校、校長は“ダーウィンのブルドッグ”T・H・ハックスリー教授)に入学することで「ウエルズの人生」がスタートします。学生時代に書いた文章にはすでに「ロマンスと諷刺と科学的観念の混淆」という後年の彼のスタイルの萌芽が見えるそうです。
 喀血を繰り返し健康に不安を抱え、学校卒業後の教職や恋愛ではぎくしゃくと世慣れぬ行動をし続けていましたが、やがてウエルズは、新しい時代が求める「知的で読みやすい論文」の供給者としての地位を得ます。さらに、短編小説が大ブームとなり、ウエルズはその時流にうまく乗ります。そして、7年間温め続けていたアイデアを、1895年に連載小説の形で発表し始めます。タイトルは『タイム・トラヴェラー』。それはすぐに『タイム・マシン』という単行本となり、ウエルズは世界から注目されます。それも天才として。しかし彼は「失敗の不安」に取り憑かれ、とにかく書きまくります。その過程(わずか3年間)で『タイム・マシン』『素晴らしい訪問』『運命の輪』『モロー博士の島』『透明人間』『宇宙戦争』が生みだされているのですから、決して粗製濫造ではありません。さらに大量の短編も(半年ごとに30篇だそうです)。名声が確立しますが、ただ人びとはウエルズをどう評価するか、その方法論で悩みます。今までにないタイプの作家で、ジャンルのどこに位置づけるかも曖昧でした。ただ、それは却って幸いでした。当時流行していた「第二の○○」というレッテルを貼られずにすんだのですから。「イギリスのヴェルヌ」と呼ばれることもありましたが、それについてはウエルズもヴェルヌも明確に否定しています。類似しているのは小説で扱う題材だけで、立場も手法もまったくちがう、と。
 彼の重要な小説は、この「駈出し時代~名声を確立させる時期」にその殆どが書かれています。新世紀(20世紀)を迎え、ウエルズは「人類は滅亡するのではなくて救済される、それに自分は重要な役割を果たす」と考えるようになり、政治的な論文を書くようになります。ウエルズは「人類の未来」を肯定的に見つめるようになったのです。ただ、ウエルズの態度が、最初は否定的(あるいは悲観的)、それから肯定的(楽観的)に変ったことは、ちょっと危険な香りがします。ベースに悲観論がある人が「明るい未来」を構築しようとした時、極論に走ることがあるからです。案の定(?)ウエルズは優生思想を唱え、政治的な行動をするようになりました。
 SFファンからウエルズはSFの開祖扱いで、私はその見解に特に反対をする気はありませんが、本書を読んでいると「人はその時代の産物」であるとつくづく感じます。当時のイギリス社会では、ニーチェがわざわざ指摘しなくても、神はすでに「死んで」いた(あるいは瀕死の状態だった)のです。そしてそのことを当然の土台としてその“上”にウエルズの作品群は構築されていました。ですから「神が死んだ」ことに気がつかない、あるいはそれを認めたくない人にはトンデモない作品、ということになっていたはずです。(「神は死んだ」というのは直喩ではなくて、宗教が社会を支配する力を失った、ということです。今さら説明がいるとは思いませんが、実はここの理解からすでに食い違いがある場合があるので、一応書いておきます)
 個人的に非常に惜しいのは、ウエルズが「社会を変えよう」としたことです。彼が書くものには力があり彼個人には名声がありました。だからそれを“道具”として直裁的に使いたくなる気持ちもわかります。しかし、だからこそそこで踏みとどまって、「社会が変るかどうか、作品を通じて問いかける」ことを続けていたら、もしかしたら本当にウエルズが望んだ方向に社会が変っていくのを目撃できたかもしれません。彼の作品にはそれだけの力があるのですから。そして、もしそうしてくれていたら、私は彼の“SF作品”をもっとたくさん読めたのになあ。
 惜しいなあ。口惜しいなあ。




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