白米食
玄米食や雑穀など、白米では「栄養」の問題があるからそれを補おうとする努力がいろいろ現代社会でされています。私は単純なので、米に本当に栄養が足りないのなら副食で補っても良いのではないか、と思うのですが「主食」で補いたくなる衝動もあるのでしょうね。
だったら、白米を磨がないというのはどうでしょう。白米の粒にまとわりついている糠の粉にも「栄養」がたっぷりあるはず。玄米食だったら、どうせ食べている部分です。それを一緒に「ご飯」として食べたら、「栄養がたっぷりの主食」になりません?
言うだけならなんですから、実際に先日食べてみました。意外にまずくないですよ。昔よりも精米技術が進歩しているから糠の量が減っているのかもしれません……って、それだったら「栄養」も減っているのかな。困ったものです。
【ただいま読書中】『江戸の発禁本』井上泰至 著、 角川選書529、2013年、1600円(税別)
本書では、江戸時代の「発禁本」と「禁本」とを区別しています。後者の代表はキリスト教の本。もちろんそれはわざわざ発禁にする以前のお話ですね。それと、写本と版本との区別もする必要があるのだそうです。けっこうややこしい。
享保年間に出版に関する基準がほぼ確定されました。出版してはならないのは「徳川家や武家の家筋にかかわること」「風説や異説」「好色本」「海賊版」。検閲システムは、日本お得意の「民間丸投げ」です。本屋仲間を公認し、そこで自主検閲を行うようにしました。
寛政の「触」では、「過去にことよせて問題のある話を作ること」「豪華で華美な造本」なども禁止され、“見せしめ”となったのが山東京伝でした。手鎖五十日(自宅で手錠)、版元の蔦屋重三郎は書籍絶版・財産を半分没収の刑です。
天保の改革では倹約令のもと徹底した出版統制が行われました。「風俗を乱す」とされた書物はとにかく発売禁止、浮世絵も厳しい統制を受けます。株仲間解散の命令に従って本屋仲間も解散、幕府に任命された町名主が検閲を行うことになりますが、本屋仲間がこれまで行っていた海賊版の摘発機能が失われたため、海賊版が大量に出回る事態になってしまいました。
しかし、少し時が経つと規制は緩み(あるいは出版側が裏を上手にかくようになり)、いたちごっこは繰り返されますが、人為的に「時代の流れ」を押しとどめることは無理だと言うことが明らかになるだけでした。
江戸時代の本の流通形態の大きな部分は「貸本」でした。それも、行商によるものが多く、「秘密の本」の流通にはもってこいだったと言えるでしょう。社会の実態に合わないモラルを振りかざした「統制」はこういった地下のマーケットを拡大するだけだったのかもしれません。
検閲は表現の自由の侵犯です。しかしその検閲をクリアするために新しい表現の工夫も行われました。このことについては9月23日に読書した『検閲帝国ハプスブルク』(菊池良生)にも書いてありましたっけ。活用されるのは、たとえば「隠喩」です。本書には「雨月物語」の「蛇性の婬」が取り上げられて詳しく解説されています。しかし、この「隠喩」で感銘を受けるためには、相当の教養と想像力と感性が必要です。野暮天には無理です。おっと、もう一つ、強力なタブー(検閲や社会的な圧力)も必要でした。
江戸の発禁本と言えば、好色物のことと思っていましたが、徳川家はおろか武家一般の家筋のことについてとやかく言うことも禁止とは知りませんでした。藩幕制度は身分社会ですが、本にも身分制度があったんですね。だけどそういった制限をかいくぐるための工夫が、表現の豊かさを増したのはなんとも皮肉なことです。というか、“お上の禁令”が出るということは、そこになんらかの“弱点”が存在するとお上が公言しているに等しいわけなんですね。なるほど、参考になります。
ところで今の日本政府(の下請けをやっている“選ばれた町人”)は、何を発禁本にしていましたっけ?
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