【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

根性を鍛える

2011-02-18 18:34:59 | Weblog
「最近の若い者」は徴兵して根性を鍛え直せ、という意見が以前からあります。たぶん「自分は上官である」という立ち位置から「自分の命令には四の五の言わずにきびきび従う忠実な部下」をイメージしているのかな、と私は思いますが、同時に「闇市で暴れている『おれは特攻帰りだぞ』」も思い出して複雑な気分になります。ところでそういった人は女性にはどんな意見を持っているのでしょう。もしかして「『女工哀史』の世界に放り込め」?

【ただいま読書中】『深海からの声 ──Uボート234号と友永英夫技術中佐』富永孝子 著、 新評論、2005年、2800円(税別)

1945年5月、大西洋上でドイツ降伏を知ったUボート234号は連合国への降伏を決定しました。そこには、潜水艦設計の友永技術中佐とジェットエンジン設計の庄司造兵中佐が日本へ帰国するために同乗していました。Uボートがアメリカに降伏留守ことを知った二人は、捕虜にならないために潜水艦内でルミナールを服用して自決。234号が運んでいた「宝物」はアメリカに接収されました。
庄司は1939年にイタリアへ(イタリア降伏後はスウェーデン)、友永は1943年にドイツへ日本から派遣されました。45年二人は「U234」に「U235」と書いた荷物を積みます。実はこれは酸化ウランだったのです。「U234」は大型の機雷敷設艦で大量の荷物が積めました。その中には世界で最初のジェット戦闘機「Me262」二機分の部品と設計図もありました。ヒトラーから日本へのプレゼントです。
潜水艦への便乗者は日本軍人2人を含めて12人でした。大物として空軍大将フリーゲル・ウーリッヒ・ケスラーがいます。ヒトラー暗殺計画に関与したのをゲシュタポに知られたかもしれないと、日本へ脱出するつもりでした。残りは主に軍のスペシャリストでしたが、メッサーシュミット社から派遣された民間人が二人混じっていました(派遣を断ろうとしたら「だったら徴兵して東部戦線へ送る」と脅されていました)。
自決した二人の遺体は、遺言どおり水葬されました。二人は積荷ごと潜水艦を破壊することもできたはずなのに、ドイツ人乗組員のことを思ってその手段は執りませんでした。
大西洋上での戦争は終結したはずなのに、奇妙な“戦い”がありました。“獲物”は「U234」、それを争っていたのは、英軍と米軍。どちらもこの潜水艦が“宝船”であるとの情報を得ていて、それの獲得を狙っていたのです。はじめは「ヒトラーが南米脱出のために乗っている」という情報でしたが、蓋を開けてみたらジェット戦闘機「Me262」とロケット戦闘機「Me163」、さらには「Me262」の発明者アウグスト・プリンゲバルドが出てきたのです。さらに、プラチナ3kg、そしてウラン560kg。
積荷確認の場にはオッペンハイマー博士も姿を現していました。そして広島。ドイツ人乗組員の中には、自分たちが運搬したウランが広島に使われたのではないか、という疑念に苦しめられるものがいます(アメリカ政府はウランに関してはトップシークレットとしていますが、当時アメリカがすでに1000トン以上のウランを保有していたこと、ドイツのウランはまだ濃縮前であったこと、U234のポーツマス入港が5月、初の原爆実験が7月16日、広島が8月6日というスケジュールからは、ドイツのウランが広島で使われた可能性はないでしょう)。
本書には、主に友永の人生(学校~海軍)が記述され、それに重ねて「昭和という時代の一コマ」が詳しく描写されます。潜水艦という、どちらかというと目立たない分野に世界に通用する(というか、世界を一歩リードする)きらりと光る逸材がいたこと、そして日本軍はその逸材を生かし切れなかったことがよくわかります。(ついでに、日本海軍は「潜水艦」そのものも使い切れていません。一番役に立つ通商線破壊ではなくて、艦隊決戦の補助艦、あるいは水中輸送艦として使おうとしていたのです)
しかし、意外だったのは、友永が昭和18年にドイツに出発したのは、羽田だったこと。旅客機の乗り継ぎで中国航路をたどってマラッカ海峡に面したペナンまで行き、そこで潜水艦に乗っています。当時ペナンは日本軍の潜水艦基地で、インド洋で作戦行動をする10隻のドイツUボートも基地としていました。そこで「伊29」に搭乗してインド洋を横断、マダガスカル沖で「U180」と邂逅して移乗する、という手はずでした。日本からの“手みやげ”は「自動懸吊装置」(友永の発明)「重油漏洩防止装置」(これも友永の発明)「酸素魚雷」など、当時世界最高水準の技術と金塊でした。「U180」がドイツから運んできたのは、対戦車砲弾などとチャンドラ・ボース(インド独立運動をさせて英軍を混乱させる予定)。それまで日独とも自分の手の内を相手に知らせていませんでしたが、戦況が厳しくなってからやっと協力する気になったのです。U180は大西洋を北上し、無事ボルドーに入港しました。そこから列車でたどり着いたベルリンは、空襲下でした。
ヒトラーはUボートそのものも日本に譲渡しました。これを手本にして大量生産をしろ、という意図です。最初の「U511」は1943年夏に呉に無事入港。もう一隻「U1224」は日本人で回航することを求められたため「伊8」が回航要員をブレストまで運びました。それを迎えて整備を担当したのが友永です。伊8はダイムラーベンツ社製の高速魚雷艇用エンジンなどを搭載して無事帰日できました。なお、戦争中に日本からドイツに派遣された5隻の潜水艦で無事帰れたのはこの1隻だけです。往復6箇月のほとんどが敵の制圧下ですから、無茶な試みではありました。せめてソ連が中立だったら、航空路とかシベリア鉄道が使えたのですけれど。
「関係者」の後日談も紹介されていますが、戦争未亡人となった二人の夫人の戦後の運命が詳しく述べられます。厳しい運命に翻弄される状況で、彼女らのような凜とした姿勢が持てるだろうか、と自省したくなる生き方です。




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