【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

浮世離れ

2011-09-30 19:14:19 | Weblog

 ある文芸評論を読んでいて、違和感を感じました。いや、内容そのものはこれまで私が読んできた評論とそう変っているわけではありません。むしろ、変っていないことに違和感を感じたのです。
 どんな文化にも何らか(神話、民話、昔話、童話など)の形で「フィクション」が存在するところを見ると「人はフィクションを必要とする存在である』と言えそうです。そのフィクションの代表が、たとえば小説。しかし、もともと「フィクションと現実の関係」は微妙なものです。だってフィクションは「現実ではないこと」を「現実の中」で述べるものですから。そしてその小説(フィクション)と現実の微妙な関係について論じるのが、文芸評論の機能の一つでしょう。
 「3・11」以降、私たちは強引に「過酷な現実」と向き合わされています。無視することも可能ですが、「無視する」こと自体がやはり「関係の一種」と言えます。そういった状況で「フィクション」がどんな意味を私たちに伝えるのか、それは「3・11」以前とは少し変っているはず。その「フィクションと現実」「フィクションと読者」「現実(社会)と読者」の「三角関係」は、いつかはまた元に戻っていくのかもしれませんが、少なくとも現在は幾分かでも変容しているはず。そういった「関係の変容」を無視して、今までと全く同じ態度で「ベテラン作家なのにこの小説の出来は……」などと言っている文章は、結局読者に何を伝えようとしているのでしょう? 私が書いているような「読書感想」だったらまだそれでも良いでしょうが、「単なる読書感想」なのだったら「評論」の看板はおろした方がよいとさえ私は思います。

【ただいま読書中】『孤独の海』アリステア・マクリーン 著、 高津幸枝・高岬沙世・戸塚洋子 訳、 早川書房、1987年、1500円

 冒険小説で知られる著者の執筆30周年を記念して、初めて編まれた短篇集です。フィクションとノンフィクションを取り混ぜて、全14編、すべて「海」とつながりがある作品ばかりです。
 巻頭は「ディリーズ号」。教師だった著者が短編小説コンテストに応募したら最優秀作に選ばれ、プロの作家になるきっかけを作った作品です(翌年発表されたのが「女王陛下のユリシーズ号」)。わずか11ページの短い作品ですが、私は打ちのめされました。その迫力に。その深さに。激しさと静謐さの両立に。これが処女作とは、すごいや。
 先日読んだ「ビスマルク」も登場します。「戦艦ビスマルクの最期」ですが、感情を排した、しかし苦みを含んだ口調で、意図的に短くカットされた文章が次々積み重ねられます。長い時間をかけての準備や訓練が、ほんの一瞬の自然の気まぐれやちょっとした不運(相手にとっては僥倖)によって吹っ飛んでしまう瞬間が淡々と描写されるのですが、この手法は、感情をたっぷり込めた表現よりも効果的でした。ビスマルクについて何も知らなかった人にはちょっと不親切かもしれませんが。
 「メクネス号の沈没」では、著者の感じたやりきれなさが示されます。戦争の悲惨さ、というよりも明かな人災に対して、それを起こしておきながらも「自分のせいではない」とうまく逃げる官僚の無責任ぶりにはあきれますが、それはイギリスだけの話ではないことを思うと、こちらもやりきれなくなります。
 かと思うと、「聖ジョージと竜」「マキナリーとカリフラワー」「マクモリンと月長石」のような渋いユーモア作品も用意されていて、退屈しません。
 著者の作品には、どこかにきらりと光る「人の行動」があります。なんの救いがない状況でも、勇気を振り絞って動く人。絶望的な状況で、他人のためにさりげなく自分の命を差し出す人。どんなに暗い物語でも、そこには人間の誇りと勇気と救いがあるのです。どんなに暗い海にも、必ずどこかにきらりと光るものがある、と著者は言っているようです。




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