生老病死はいずれも「苦」です。今の世の中だったら「貧乏」も「苦」の一つと数えたくなりますが、それは「生」に含まれているのだ、とすればよいのでしょうか。
死は苦しみからの解放であって欲しいものですが、死んだ後もなお苦しめられるのは「地獄」です。血の池地獄とか針の山の地獄とかがありますね。ところでこういった地獄の中には「年老いて苦しむ地獄」「病気で苦しむ地獄」って、ありましたっけ? というか、もしもそんな「地獄」があるのだとしたら、「この世」はすでにして地獄そのものなのかもしれません。
【ただいま読書中】『日本仏教の医療史』新村拓 著、 法政大学出版局、2013年、3300円(税別)
「祈療」という聞き慣れない言葉がまず登場します。病気の治療のために祈ることです。医師に多くを期待できない時代、祈療には根強い人気がありました。その流れは、現代日本の「健康食品」「サプリ」「(近代医学から見たら怪しげな)○○療法」に人気があることに通じているようです。
「病気は仏罰」と言われたり「難病は前世で犯した罪の報い」と言われることもありました。また、僧によって「病因」のとらえ方は様々です。「仏教としての統一見解」は示されません。ただどれにしても、“治療法"は基本的に念仏ということになります。
唐の義浄は求法のためにインドに渡りましたが、そのときインド医学(アーユル・ヴェーダ)も学びました。それが空海によって日本にも輸入されているようです。中国に渡った日本の僧は、仏教だけではなくて中国の医学書も大量に日本に持ち込みました。外国の文献(つまり漢籍)を読みこなしそれを「現実」に用いることができる当時の“インテリ"は僧だったのです。(貴族もインテリですが、彼らは「現実社会」とは関わりを持ちませんでした) 僧は医者としても活動をします。14世紀前半、叡山には「医療部」(今の医学部)がありました。カリキュラムの詳しいことは伝わっていませんが、薬・加持祈祷・呼吸調整による治療を学んでいたようです。
古代・中世の日本人にとって「死」は「点」ではなくて「経過」でした。「絶息」は死の第一段階。遊離した霊魂を呼び戻す招魂儀礼が行われ、やがて体が腐って「死が完成した」と認められます。そこで湯灌が行われ入棺です。古代はその過程がゆっくりでしたが、中世にはスピードアップされ、後柏原天皇の場合、絶息後はやくも4日で入棺となっているし称光天皇では翌日に入棺でした。そこでは、どのように安らかに「往生」するかが大問題となります。そのために、念仏や部屋に置くものなど、さまざまな“作法"が整備されました。対して「絶対帰依の一念が定まったときにすべてが決定されている」としたのが親鸞です。こちらでは、絶対帰依によって極楽往生は間違いないのだから、「死の場面」がどのように乱れても関係ない、とされました。もっともそれで納得できる日本人は少なかったらしく、浄土真宗でもその後臨終での作法が整備されていきました。日本人って、けっこう“頑固”です。
延命治療に対しても、仏教の立場によって評価は様々です。臨終の作法が重視されるところでは延命治療はとんでもないことですが、親鸞の立場だと「個人の自由」です。
南北朝頃から戦場には「陣僧(従軍僧)」がいましたが、死者を弔ったり臨終での念仏を唱えたりするだけではなくて、金創医(外科医)も兼ねる者がいました(時宗に特に多かったそうです)。傷を負ったら治療をしてもらって、治療がむなしかったらそのまま念仏を唱えてもらう、というのは“効率的"ではありますね。
薬草園を備えたお寺も多くありました。日常的な修法のための香薬を得るためだけではなくて、自家消費または売薬用の薬種を得るためでした。本草の研究と実践から、様々な「薬」が世に出ることになります。
近世になり「医者」という「職業」が成立します。そのため「僧が治療する」ことは少なくなっていきました。宗教と医学の分離です。ただ、お寺は「製薬工場」として機能していました。そういえば江戸時代には、大名屋敷に有名な薬を買いに行く、ということも行われていましたが「お寺の薬」はそれだけでありがたいものに感じられますよね。プラセボ効果もあって、よく効いたのではないでしょうか。
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