江戸時代まで日本では年齢を「満」ではなくて「数え」で表現していました。「ゼロ」の概念が一般にはありませんし、そもそも「誕生日」があまりに不安定です(年によって月の大小が細かく変動するし、うるう月もあるから満年齢だったらきっと大混乱だったことでしょう)。ただ、「還暦」だけは「きっちり60年」で数えられていました。これは仕方ありません。生まれたのと同じ干支はどうやっても60年待たないとやって来ないのですから。
ここで「どうして還暦だけはきっちり60年で数え年ではうまくいかないのか」という疑問を持つ数学者がいたら、「ゼロ」が日本でも発見されていたかもしれません。
【ただいま読書中】『雪国』川端康成 著、 講談社文庫、1971年(86年27刷)、200円
冒頭の第二文、「夜の底が白くなった」のたった9文字で「絵」がありありと浮かびます。夜の闇の底にうずくまる真っ黒な鉄の塊、機関車。吐き出される煙と水蒸気。そしてあたり一面「夜の底」を覆う雪。
そして、客車の中には、夜光虫のようなともし火を瞳にともした美しい娘葉子。視覚のチャンネルが全開です。
その列車に乗っている島村は、会いに行く女(駒子)のことを「自分の左の人差し指だけが女を覚えている」と感じます。しかもそのとき島村はその指を嗅いでみたりします。こんどは触覚と嗅覚が本書に登場するわけです。
こうして様々な感覚のチャンネルを刺激することで読者に“準備”をさせたあと、著者はいちど過去に戻ります。巧妙な構成です。
駒子は芸者ですが、三味線は、師匠からの口三味線による伝授ではなくて、音譜で独習しています。“新しいタイプの芸者”のようです。そういえば、島村は無為徒食とありますが、どうやって東京で生活しているのでしょうねえ。細君にはどう言い訳してこの温泉宿にやって来ているのでしょう。
なんて思いながら油断していると、「駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった」なんてぞくっとする描写に出くわします。これは、視覚? それとも、触覚?
そして最後、火事のシーンから天の河がさーっと島村のなかに流れ落ちるイメージの美しさ。これはたしかに、南国ではなくて雪国を舞台としなければなりません。登場人物ではなくてその舞台がとても美しく描写された作品、と今回私は読みました。それも「イメージの奔流」ではなくて「イメージの清流」です。
次に読むときには、またどんなイメージを得ることができるか、楽しみです。
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