【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

本望

2014-02-04 07:13:29 | Weblog

 もしあなたが世界征服をしてしまったとしたら、まず最初にどんな命令を出したいですか?

【ただいま読書中】『セポイの乱 ──1857年のインド独立戦争』(世界ノンフィクション全集7)サヴァルカール 著、 鈴木正四 訳、 筑摩書房、1960年、290円

 著者は「1757年6月23日プラッシーの戦い」にまず遡ります。これはイギリスがインド征服に乗り出した第一歩、そしてインド独立革命の始まりの第一歩でした。この時イギリスが“主力部隊"として使ったのが「セポイ」と呼ばれるインド人傭兵でした。
 1846年に総督としてインドに赴任したダルハウジー卿は、一貫した抑圧政策を遂行し、土侯国を様々な口実を使って次々イギリス直轄領にしていきました。そしてダルハウジー(とイギリス)が目をつけたのが豊かで美しいアウドです。「善政の欠如」を口実として国王を追放し、農民に「善政」を与えるために地租改革を行って大地主を没落させます。しかしこの「善政」によって農民の生活は極めて苦しくなりました。略奪と暴行の嵐が全土に荒れ狂います。
 さらに宗教の弾圧も行われていました。ヒンズー教やイスラムの信者はすべてキリスト教化されるべき、という“確信"がイギリスの行動の根底にありました。はじめは公然とした弾圧ではなくて、キリスト教徒を優遇する、という形でしたが、少しずつ布告や法律によって“インド人"の宗教的慣習にイギリスは干渉を開始します。特にこの宗教差別が意識的に制度化されたのがセポイに対してでした。キリスト教徒しか昇進できないのです。
 こうして「イギリスは、インドのすべての土地を奪い、インドの宗教を滅ぼそうとしている」という確信がインド全土に広まります。
 「発火点」に最後に注がれた「油」がセポイが支給される「新しい弾薬筒」でした。口でかみ切らなければならない弾薬筒に「牛と豚の脂(ヒンズー教徒とイスラム教徒にとってのタブー)」が使われる、というのです。これが「弾薬筒だけの問題」なら、直後に出た「弾薬筒には羊か山羊の脂だけを使う」「口でなくて手を使ってもよい」「脂ではなくて紙を使ってもよい」という布告でことは沈静化したはずです。しかし現実は逆でした。(ついでですが、「羊や山羊」は嘘でした。その後も製造工程では牛と豚の脂が使用されています)
 「セポイの乱」の根底にあるのは「(信教の自由を持たない)奴隷はいやだ」という叫びでした。そして、その叫びを心の中に抱えていたのは、セポイだけではありませんでした。セポイが一番不満をため込み、秘密組織を一番作っていたから目立つだけです。イギリス側もセポイの動きをある程度知っていましたが、詳しいことはつかめませんでした。そこで怪しい部隊を解体することにしますが、それは「革命の種子」を各地にばらまく効果を生んでしまいました。
 1857年5月31日が一斉蜂起の日と定められます。しかし5月10日にミールートの町(インド最大のイギリス兵の根拠地)で“暴発"が起きます。予定より早く蜂起が始まったのです。イギリス人が多数殺されます。ただ、婦女暴行はありませんでした。(イギリス側は「あった」と主張して、インド人を非難する最大の口実としたのですが) キャニング総督は、ペルシアやビルマなどから白人兵をかき集め、イスラムを憎むシーク教徒の土侯国を味方につけます。“解放"されたデリーを攻撃するために進撃したイギリス軍が途中で行った暴行のすごさは、「インド人がイギリス人にやった残虐行為」とイギリスが宣伝したものをはるかに上回るものだったそうです。記述を読んでいて私が思い出したのは「占領地で兵士を殺された報復に、町や村の住民を虐殺したナチスの行為」ですが、それよりももっともっと野蛮なやり口をイギリス軍は採用しています。銃殺絞首刑火刑などの他に、象を使っての八つ裂きとか先ごめの大砲に何人も詰め込んでの発射とかも。
 勝敗を分けたのは、組織力の差と有能な指導者の有無だった、と著者は述べます。それにプラスして、1月19日に読書日記に書いた『インヴィジブル・ウェポン ──電信と情報の世界史1851-1945』(D・R・ヘッドリク)に書かれていた「情報伝達スピードの差」も大きいでしょう。結局セポイの乱は「イギリスの勝利」で終わりました。きっとそれでイギリスは「とっても大きな利益」を得たのでしょうね。



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