【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

とんかつと弁護士

2013-07-19 18:49:19 | Weblog

 この前『○○の誕生』で読んだのは『とんかつの誕生』でしたっけ。私から見たら「歴史を知る」点では「とんかつ」も「弁護士」も“歴史の切り口”としてそれほど差をつけるべきものとは思えないのですが、その両者から見たら「あいつと一緒にするのか!」と怒られるかもしれません。あ、とんかつに口はありませんね。文句が言えなくてお気の毒でした。

【ただいま読書中】『弁護士の誕生 ──その歴史から何を学ぶか』谷正之 著、 民事法研究会、2012年、3700円(税別)

 明治政府の外交上の“悲願”は、不平等条約の改正と外国人居留地での治外法権の廃止でした。そのための手段として、西洋的な法制度を完備して「列強と対等の国家」であることを認めさせようとします。つまり、法制度の整備は「外交の手段」だったのです。
 江藤新平は「フランス民法を翻訳して日本民法とする」と考えていましたが、それは必ずしも突飛な考え方ではありません。当時、ベルギーやオランダ民法はフランス民法をほとんどそのまま採用していましたし、トルコの民法はスイス民法の翻訳です。イタリア・スペイン・ポルトガル・南米諸国もフランス民法の影響を強く受けていました。フランス人弁護士ジョルジュ・ブスケが招聘され、フランス法の研究は大いに進みます。刑法もフランス法を規範とし、明治13年に「刑法(いわゆる旧刑法)」が公布されました。重要なのはフランス刑法思想による「罪刑法定主義」が採用されていることです。これによってそれまでの律令制の「刑法」から近代刑法への転換が行われました。また「糾問主義(判事が被告人を厳しく糾問し、自白しなければ拷問を加える)」から「弾劾主義(検事と被告人が対等に争い、判事は中立の立場で判断する)」への転換が行われ、その結果、圧倒的に有利な検事に対抗するために被告には(専門的な)「代言人」がつけられるようになりました。江藤が下野し、明治16年頃からお雇い外国人としてドイツ人が増えたことにより、ドイツ法が日本に影響を与えるようになります。具体的には、「憲法」「商法」「民事訴訟法」「裁判所構成法(のちの刑事訴訟法)」です。
 大審院と下級審裁判所が整備され、司法省は明治9(1876)年に代言人の免許試験制度を開始しました。弁護士の“ご先祖”免許代言人の誕生です。
 裁判所の整備も進められましたが、明治7年の裁判所取締規則には「裁判官を尊敬する義務」が明記されていました。(尊敬の念を示さなければ譴責処分や罰金、裁判官を罵ったら刑事罰を、当の裁判官が即決で下すことができました。代言人が法廷で裁判官を批判したら、譴責とその裁判での代言禁止処分です。代言人には改正代言人規則によって結社の自由が認められなくなり、政府の統制のために代言人組合が結成されました。しかしそこに終結した代言人たちは政府の監督を少しずつ緩める努力を始めます。
 明治13~19年に各地で私立の法律学校が設立されました。フランス系の東京法学社(のちの法政大学)・明治法律学校(明治大学)・関西法律学校(関西大学)、イギリス系の専修学校(専修大学)・東京専門学校(早稲田大学)・英吉利法律学校(中央大学)などです。免許代言人になるためには、これらの法律学校(大学)か法律研究所で法学を学んでから試験に合格することが必要でした。司法修習を除けば、現代とよく似たシステムです。
 明治22年の明治憲法では「裁判所の構成は法律を以って之を定める」とあったため「裁判所構成法」が公布されました。そこには「弁護士」(刑事訴訟法には「弁護人」)という言葉が使われていたため、改正代言人規則は「弁護士法」に改められることになりますが、その過程が大笑いです(逐条審議をしている場面の議事録の一部が掲載されています)。政府は高額の免許料や保証金を納めさせようとしましたが、代言人たちは猛反発、議会工作を行って法案を骨抜きにしてしまいます。明治26年についに「弁護士法」が成立、代言人は弁護士になります。
 自由民権運動が起こり、多くの代言人がそれに参加します。また、政府に対して異議を申し立てる運動で逮捕された人々の弁護にも代言人や弁護士が奔走します。必ずしも彼らは「近代国家における司法の確立」によって日本を「列強に伍する近代国家」にしようとしていたわけではありませんが、それでも「司法の理想」を高く掲げた人々は、かつて確かに日本に存在していました。その多くが「帝国にたてつく」ことになったのはなぜなんでしょうねえ。ともかく、おそらく彼らの「理想の系譜」は現代日本にも受け継がれているはずです。そうではない弁護士も多い感じではありますが。



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