【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

パニック

2020-02-28 07:13:15 | Weblog

 大災害の時「真実を報道したらパニックが起きるかもしれない」と手加減した報道をすることを主張する、という場面が映画などでよくありますが、実際に日本の大災害で大規模なパニックが起きたことってどのくらいありましたっけ? 私が思い出せるのは、関東大震災での朝鮮人虐殺くらいなんですが。それとも私が「パニック」を知らないだけ?

【ただいま読書中】『砂漠の戦争 ──北アフリカ戦線 1940-1943』アラン・ムーアヘッド 著、 平井イサク 訳、 早川書房、1968年、500円

 1940年、カイロで「戦争」はラジオの雑音でした。しかし、フランスの降伏とイタリアの参戦で人びとは本気になります。地中海でのイギリスの拠点は、マルタ島とエジプト(とスエズ運河)。当時の中東イギリス軍最高司令官ウェーヴェル将軍は、圧倒的な戦力差(ドイツどころかイタリア軍単独を相手にしても支えきれないくらいの劣勢)を意識し、はったりと砂漠を利用することでなんとか援軍が来るまで持ちこたえようとしました。
 「砂漠での戦い」は海軍の戦いに似ている、と著者は述べます。海軍は「海で戦う」のであって「海と戦う」のではありません。そして、敵と遭遇して戦うとき塹壕や籠城はありません。一つの「平面(海面)」の上で、過酷な自然に翻弄されながら戦います。港から出撃し、戦いが済んだら帰港します。砂漠で戦う陸軍もまた同様なのだそうです。ただしこれはイギリス軍でのお話。著者から見たら、イタリア軍はまったく違う行動をしました。彼らは砂漠を征服しようとし、さらにそこで快適な生活をすることを求めたのです。
 ここで私は、ナポレオン戦争時代に、「英仏海峡」を、イギリスは「戦場」とみなし、ナポレオンは「越えるべき障害」とみなしていたことを思い出します。そういった「戦場をどう捉えるか」の態度の違いは、戦い方の違いを生み、戦争の勝敗に大きな影響を与えました。
 イギリス軍の陽動作戦に引っかかって自重していたムッソリーニはついにリビアからエジプトに向けての大攻勢を始めます。さらにイタリア軍はギリシアにも侵入。これで局面は複雑化してしまいます。カイロのウェーヴェル将軍はギリシアにも援軍を送りたいのですが、リビアからのイタリア軍にも備えなければなりません。
 北アフリカでイタリア軍はイギリス軍の2〜3倍の規模でしたが、無防備な側面を砂漠に晒していました。油断です。そこをイギリス軍は突き、大勝利を得ます。従軍記者の著者は前線部隊を追いますが、なかなか追いつけないくらいの猛スピードでイギリス軍は進軍します。途中で鹵獲したイタリア軍のトラックや武器を使ってイタリア軍を攻撃しながら。とうとうベンガジまで進出したイギリス軍は、イタリア軍相手に大勝利を得ます。
 しかしそれは“第一ラウンド"に過ぎませんでした。さらに西のトリポリには、ドイツ軍が控えていたのです。さらに、オーストラリア軍はシンガポールで必要とされ、インド軍はペルシア湾に向かわなければなりません。ギリシアは救援を要請します。英国はイタリア軍を過大評価していましたが、ドイツ軍は過小評価していました。ロンメルの部隊は東に急進をし、トブルクで戦線は膠着状態になります。
 このままヒトラーが「西」に集中していたら、戦局はどうなったかわかりません。しかし1941年6月22日にドイツ軍はソ連に侵攻を開始、これで北アフリカ〜中東の戦争は新しい局面に入りました。
 天才的なひらめきを見せるロンメルとどちらかといえば凡庸なオーキンレック将軍とは、どうも戦いが噛み合っていないような様子です。押したり引いたり隙を突いたり、大量の戦車がお互いに破壊し合い、砂漠は広大な墓場になり、両軍とも疲労困憊の極みで、「平穏な状態」が戦線にもたらされます。
 ここで著者は、情報当局の失態を告発します。戦いがまだ始まってもいない段階で彼らは「我が軍は敵を凌駕している」と楽観論を大衆に植え付けました。そのため、現場の兵士たちが命を賭けて勝ち取った勝利はその価値を減じて評価され、ちょっとした挫折も倍以上の打撃として受け取られるようになっていたのです。大衆は「事実を受け入れる力がない」と当局に過小評価され、現場の兵士たちにはひどい誤解が与えられました。だから、混乱の中からまた西に向かい始めた連合軍の前進は、本国では賞賛ではなくて冷笑と倦怠で迎えられました。
 撤退するドイツ軍を追う英軍に同行する著者は、退却の混乱の中で残された物資が、イタリア軍とドイツ軍で大きく違うことに驚きます。派手に飾り立てていたイタリア軍に比較して、ドイツ軍は地味だが実用的で優良なものに囲まれて生きていたのです。また、戦闘が終了してから掠奪に現れるベドウィン族のことを著者は否定的に描いていますが、ベドウィンから見たらどこか他の世界から突然やって来たよそ者同士が勝手に自分たちが平和に暮らしていた世界を武力で蹂躙しているわけで、それに対するお返しが掠奪くらいだったら我慢しろ、と言いたいのでないかな。
 そして、カイロとトリポリの中間点、キレナイカで英軍の補給線は限界に達し、また戦局は膠着状態に。するとまたロンメルが逆襲を企図します。アフリカ軍団の総攻撃です。
 ロンメルは「砂漠の狐」と呼ばれていましたが、イギリス軍の特殊部隊がジープ1台〜数台の規模で砂漠を自由に動き回って奇襲やゲリラ戦を繰り返すのもまた「砂漠の狐」の行動と呼んでも良いのではないか、と思えました。本物の砂漠の狐(砂漠の住民や生きものたち)には、大変な迷惑だったでしょうけれどね。
 そして「敗戦の責任」は現場の司令官に押しつけられ(実際の問題がどこにあったかは、著者が詳しく分析をしていますが、「司令官が劣悪だからイギリス軍はロンメルに翻弄された」という説は採っていません)、アメリカのモントゴメリーが最高司令官として赴任。大量の物資が投入され、最終決戦「エル・アラメーンの戦い」が始まります。おっと、「最終」ではありません。このあと連合軍は、チュニジアまでずっと戦い続けなければならないのですから。

 



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