放射能汚染水は「処理水」と名前を変えられ、海底パイプを通じて誰にも目撃されないように量の測定もされないようにして海に垂れ流しをされるのだそうです。なるほど、かつて「アンダーコントロール」されていた汚染水は「アンダー・ザ・シー」で放出されるんですね。しかし「地中凍土壁」で汚染水の量はもう増えない、という宣伝が盛んにされていませんでしたっけ? 東京電力は、海の下でも地面の下でも変なことをいろいろやりたい企業のようです。
【ただいま読書中】『イギリス工場法の歴史』B・L・ハチンズ、A・ハリソン 著、大前朔郎・石畑良太郎・高島道枝・安保則夫 訳、新評論、1976年
1802年イギリスで制定された「工場法」は「過度労働や不健康な労働条件による危害から年少の虚弱な労働者の健康を保護する」ことが目的として明文化されていました。著者はそのルーツを1601年の「エリザベスの救貧法」と考えています。この法律では「救貧児童と孤児はなんらかの職業に徒弟奉公をしなければならない」と定められていました。1784年マンチェスターの綿工場で伝染性の熱病が発生したとき、事態を調査した医師パーシヴァル博士は「児童の過重労働」を「病気の原因の一つ」として指摘しました。その結果「救貧法の新しい規則」として「14歳未満の児童の1日10時間以上の労働禁止」が定められます。18世紀の思慮深い人たちは「社会問題」に気づき始めていたのです。そういえば「啓蒙時代」でしたね。
児童が1日に13時間半も働いているのを10時間に短縮するだけですったもんだがありましたが、ともかく法律で規定されます。しかし「いかにそれを守らせるか」が次の問題として登場。また、「徒弟制度ではない(自由に就職している)児童」をいかに守るかや「工場」の定義の拡張などをめぐっても、「政局」として実にややこしいすったもんだが継続します。トーリー党とホイッグ党の政権交代があるたびに法律が小突き回されているのは、ちょっと気の毒。
現場の行政官は「二つの階級」の板挟みになります。彼らには実質的な権限がないことも問題でした。さらに「子供の年齢」の証明も困難でした(出生証明書が制度になったのは1837年からです)。
1847年には「10時間労働日法」が施行されます。ちょうど大不況の年で、工場主側の反対は弱かった様子です(工場を一時閉鎖したいくらいですから)。労働時間に続いて、労働安全、婦人の権利などに「工場法」は踏み込んでいきます。常に同じ人たちが頑強に反対運動を繰り広げます(労働環境を安全にして事故を減らすとイギリス経済が衰退する、という主張には呆れます)が、工場法に賛成する勢力は少しずつ力を増し、前進を続けます。そしてこれが、日本の「工場法」の“先達”となるのでした。
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