もちろん飛脚が飛ばすのは「脚」ですが、もしかしたら飛脚が運んでいるものも「飛んで」いるのかもしれません。たとえば「檄を飛ばす」と言いますが、昔の日本人にとって「手紙」は「飛ぶ」ものだったのかもしれません。実際に飛ぶのは、紙ではなくてそこに込められた思いの方かもしれませんが。
【ただいま読書中】『日本郵便創業の歴史』藪内吉彦 著、 明石書店、2013年、4800円(税別)
江戸時代に街道が整備されると、飛脚による文書急送も盛んになりました。最初は幕府の公文書を運ぶ継飛脚、ついで大名飛脚、そして町人も利用できる町飛脚の制度も整えられ、継飛脚は町飛脚に吸収されていきます。日本各地(東海道だけではなくて、日光街道、奥州、甲州など)に飛脚宿取次所が作られ、飛脚の全国ネットワークを機能させました。『江戸参府紀行』(シーボルト)にも飛脚が登場しますが、「飛脚とは支那語のHikeo(翼のある足)から来ている」とあるそうです。江戸や大坂には近距離専門の飛脚もいました。今のバイク便や自転車便のようなものかな?
ただ、こういった飛脚を使うのは、大名や大商人で、庶民には高嶺の花でした。
明治政府が直面したのもこの「高嶺」ではなくて「高値」の問題でした。幕府から与えられた特権にあぐらをかいていた定飛脚問屋は、信頼性とコストと速度の点で問題を抱えていたのです。かくして明治3年に前島密が「郵便制度創設の建議」を行うことになります。その直後前島は渡英し、彼が明治5年に帰国するまでに東京~京都~大阪に郵便役所と郵便制度が創設されることになりました。ここでも「江戸時代」はばっさりと切り捨てられたわけです。飛脚問屋の方では生き残りのために“抵抗”をおこなっていますが。
それにしてもすごい料金です。最初の頃の郵便では明治四年七月の横浜ー甲府間の「急便」が二十一貫六百文(銭四貫文で1両)なんですから。ちなみに江戸末期の飛脚の急便(20時間)は30両だったそうです。これまたすごい値段ですが。
郵便制度は「国が推進するもの」でした。西欧列強がすでに帝国主義に入っているときに日本はやっと資本主義を始めるわけで、追いつき追い越す、最低、列強に食われないためには中央集権をまず徹底する必要があります。そのための情報インフラとして郵便が重要だと認識されていたのです(認識していない政府高官もいたようですが)。しかしそのインフラを支えるのは「郵便脚夫」でした。要するに飛脚です。各駅に8人が待機し、三貫目(11キログラム余)の行李を担いで2時間で5里走ることがノルマで求められていました。それで東京・大阪間を78時間で郵便を届けています。文字通りの「駅伝」ですね。東京・長崎は90時間でしたが、これは長崎にヨーロッパからの海底電信線が上陸していて、情報を少しでも早く政府に伝えるためにルートが早くから整備されました。
明治政府は、安く全国に「郵便制度」を構築するため、各地の名主・地主を「郵便局長」として権力構造の末端に組み込みその代わり自宅を郵便局として提供させるシステムを始めました。特定郵便局の始まりです。
1839年にイギリスでは「重量1オンス以下は距離に関係なく全国一律1ペニー」の均一料金が採用されました。イギリスでそれを知った前島は帰国後にそれを日本に導入、明治六年には郵便料均一制施行により、市内一銭市外二銭となります。その2年前には、最低料金が百文、距離が一里増すごとに200文追加だったのですから、庶民はとても使いやすくなりました。「中央集権の国」を運営するためには、こういった(当時としては非常識な)手法が必要だったのでしょう。
私が子供の頃には「葉書は5円、封書は10円」でした。それが今では「葉書は52円、定形郵便は82円」ですか。すごく上がったような気もしますが、よくよく見たらすごく安い気もします。できたらこの制度はなくなったり利益重視のために変な形になって欲しくはないものです。
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