私が「中世ヨーロッパの大学」について調べていたとき、最初の専門教育は「神学」「法学」「医学」だけだった(あとは一般教養)と知って驚きました。今の日本の「大学」の教育は何なんだろう、と思えました。
日本の医学教育で有名なのは「適塾」です。これは「学校」ではなくて「塾」ですが、中世ヨーロッパの「大学」も「塾の集合体(だから「パリ大学」「ボローニャ大学」ではなくて「パリの大学」「ボローニャの大学」などと表記されます)」だったことを思うと、医学教育としては西洋の伝統に則ったやり方だった、と言うことも可能でしょう。ではそういった「(徒弟制度や一子相伝などではなくて)教育によって伝えられる医学」はどんなものだったのか、それについてまとめた分厚い本がありました。
【ただいま読書中】『医学教育の歴史 ──古今と東西』坂井建雄 編、法政大学出版局、2019年、6400円
「十九世紀」は西洋医学の“転換点"でした。フーコーは『臨床医学の誕生』で「病理解剖学が医学の“まなざし"を決定的に変化させた」と論じました。同時に臨床医学の“場"がそれまでの「自宅」から「病院」へと移動したのも十九世紀です。
教育内容は、十八世紀以前のヨーロッパは「古代ギリシア・ローマ医学」が引き継がれていました。一時失われていたのですが、イスラム世界で保存されていたものがルネサンスなどで“復活"したものです。カリキュラムは「理論」「実地」「解剖学/外科学」「薬剤学/植物学」が4本の柱でした。
「解剖学」を革新したのは『人体構造論(ファブリカ)』(ヴェサリウス(パドヴァ大学)、1543年)です。それまでの解剖学は古代ローマ時代のもので教科書はスコラ哲学的な難解なものでしたが、『ファブリカ』は「読んで理解可能な教科書」であり、しかも「現実の人体をベースにしている」点が「革新」だったのです。「正しい構造」をもとにしたら「各臓器の機能」についても考察することが可能になり、それによって近代医学は進歩を始めました。十九世紀には進歩した顕微鏡が解剖学にも取り入れられ、「生理学」も進歩します。そういった「正常な人体についての記述」が精密になって初めて「病気が人体に及ぼす影響」がわかるようになります。これがフーコーの「医学のまなざしの変化」です。さらに十九世紀には「細胞説(人体は細胞の集合体である)」が唱えられ、同時に生化学が発達します。それまでどちらかと言えば哲学的な存在だった医学は「科学」になっていったのです。
古い日本の医学教育といえば私は「医疾令(大宝律令に含まれている医学教育・医療制度の「令」)」を思いますが、これは詳しいことがわかっていないからでしょう、本書は江戸時代から話が始まっています。輸入された中国医学が「漢方」として独自の発達をしましたが、そこで重視されたのは「処方」でした。中世ヨーロッパでは医者以外に薬種商が一定の勢力を保っていたことを私は想起します。リクツはともかく「治してナンボ」の世界ですね。さらに、中国医学の理論から離れて日本独自の主張をする「古方派」が各地で栄えますが、そこに「蘭方」が登場します。『解體新書』で蘭方は大人気となりましたが、実際に治療成績の点では蘭方も漢方のどっこいどっこい(もしかしたら内科疾患では漢方の方が優勢だったのではないか、と私は想像しています)。しかし幕末期の種痘の実施によって蘭方が勝勢となり、明治政府は「西洋医学が正当な医学」とします。ただしそれが定着するまで、ずいぶん長い時間がかかりました。
二十一世紀の日本には「二十一世紀の日本の医学」が必要でしょう。しかし、それはその辺で買ってくるわけにはいきません。医学生をそのように育てる必要があります。ところが育てる側の医者や医学者は20世紀型です。さて、文部科学省と厚生労働省は、きちんとお仕事をしているのかな? おっと、官僚たちも20世紀型でしたね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます