今日は釈尊涅槃会です。
お釈迦様は、今からおよそ2500年前に齢80歳にして入滅されました。
通称、※遺教(ゆいきょう)と呼ばれる、お釈迦さまが弟子たちに説かれた最後の教えとされる経典から一文を引用してご紹介したいと思います。
※(正式名称:「仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」)
「自今已後(じこんいご)、我が諸々の弟子、展転して之を行ぜば、即ち是れ如来の法身(ほっしん)常に在(いま)して滅せざるなり」
<私的意訳>
「私が死んだ後も、多くの弟子たちが行く先々で仏法を行じていくのであれば、私の仏法を体現している身体(真理)はつねにお前たちとともにあって、決して滅ぶことはないのである。」
つまりここでは、「私たちが仏法に随って生きていくかぎり、仏法そのものとしての釈尊は、いつまでも私たちの真っ只中で永遠に生き続ける」ということが説かれているのではないでしょうか。
遺経の中でも私が特に好きな箇所です。
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お釈迦様は、今からおよそ2500年前に齢80歳にして入滅されました。
通称、※遺教(ゆいきょう)と呼ばれる、お釈迦さまが弟子たちに説かれた最後の教えとされる経典から一文を引用してご紹介したいと思います。
※(正式名称:「仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」)
「自今已後(じこんいご)、我が諸々の弟子、展転して之を行ぜば、即ち是れ如来の法身(ほっしん)常に在(いま)して滅せざるなり」
<私的意訳>
「私が死んだ後も、多くの弟子たちが行く先々で仏法を行じていくのであれば、私の仏法を体現している身体(真理)はつねにお前たちとともにあって、決して滅ぶことはないのである。」
つまりここでは、「私たちが仏法に随って生きていくかぎり、仏法そのものとしての釈尊は、いつまでも私たちの真っ只中で永遠に生き続ける」ということが説かれているのではないでしょうか。
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先週訪れた高幡不動の、五重塔の下が無料休憩室になっているのですが、
そこに石膏で作られたお釈迦様の生涯のレリーフがあります。
ご誕生から全部で16の場面があり、興味深く拝見してきました。
カトリックにはイエスの受難を追想する「十字架の道行き」という祈りがあります。
主に聖堂の壁に15の場面が掲げられており、
復活祭の前の四旬節にイエスの受難を黙想する助けになっています。
高幡ではこれを連想したのですが、お釈迦様のご生涯とイエスの生涯、
似たような部分があることに気づきました。
●母マリアは天使のお告げを受けた
○お釈迦様の母は白い象の夢を見た
●少年イエスは学者の中で聖書について語った
○お釈迦様は幼くして(ご誕生のとき?)天井天下唯我独尊を説かれた
●イエスは40日間荒野で苦行し、悪魔の誘惑を受ける
○お釈迦様の厳しい苦行、魔性の誘惑を受ける
その後は公的な宣教に赴かれ、教えが広まっていきますね。
唯一違うのはお釈迦様は80歳で入滅されましたけれど、
イエスは推定33歳で磔刑に処される点です。
妙に納得して帰ってきました。
今日は高尾山に登ってきました。
お護摩は間に合わず...でも、読経と法螺貝は聞けました。
うらやましく思うこともあります。
隣の柴はなんとやら・・・ですが。。。
ところで、ご指摘の点、その通りというか同感ですね。
>イエスは40日間荒野で苦行し、悪魔の誘惑を受ける
お釈迦様の厳しい苦行、魔性の誘惑を受ける
私は中でも特に両者のこのできごとに接点を見出します。
こういう共通点を挙げると、「だからなに?」、とか言うシニカルな方がおられますが、私などは素直に嬉しく思います。
やはり両者とも稀代の宗教的天才(この言い方が適切かどうかは微妙ですが)ですから、どこかで相通ずるのがむしろ当たり前なのかもしれません。
高尾山ですか。
神聖な霊気を吸収されてきたことでしょうね。
イエスは
「私はいつもあなたと共にいる」とおっしゃいました。
二人以上で神を語るとき「臨在」すると言われています。
だからほら、「ここ」にも(笑)
その時代その時代で、必要なメッセージを伝えてくれる存在が与えられているのだと思います。派遣しているのはほかでもない「宇宙」なのでしょうね。
ビジュアルで訴えてくれるのは大変助かります、はい。
私は保育園時代からずっと、半跏思惟像の弥勒菩薩さまが大好きなのですが、解説はちょっと難しくて。
ちなみにカトリックは禁教令の時代み仏に助けていただいています。マリア観音というものが作られましたし、大日如来はそのままイエスでした。
この言葉と同時に想起されるのが、「この法は、人人の分上に、ゆたかにそなはりといえども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」『正法眼蔵 弁道話巻』です。
ぜんさんのブログでもとリあげておられましたね。勉強になりました。
これも私の好きな言葉です。仏教徒たるもの、つねに修して証をあらわにしていきたいものです。
証は如来の法身と言い替えても間違いではないのでしょう。
>「私はいつもあなたと共にいる」
何よりこころ強い言葉です。
>その時代その時代で、必要なメッセージを伝えてくれる存在が与えられているのだと思います。派遣しているのはほかでもない「宇宙」なのでしょうね。
まったく同感です。
私たちもある意味で派遣されているのでしょうけど(ちなみにハケンって言葉、今流行りみたいですね(笑))、冗談はさておき・・・汗、やはり桁外れのスケールですよね・・・。イエスや釈尊は・・・。
>半跏思惟像の弥勒菩薩さま・・・
深いですよね、あのお姿は。。。
弥勒菩薩は56億7000万年後に現れて衆生を救済するとされています。
遥かな未来まで、じっくりと考えておられる・・・私はそこに恐ろしいほどの思惟の深さ、底知れぬ沈黙の広がりを感じます。
>ちなみにカトリックは禁教令の時代み仏に助けていただいています。マリア観音というものが作られましたし、大日如来はそのままイエスでした。
おそらく、隠れキリシタンと呼ばれる人たちにとって、両者は峻別されていなかったように思います。だから、そのような信仰のあり方が可能だったのでしょう。それは美しいことだと私は思います。