表題は、道元禅師『正法眼蔵 行持巻』の言葉である。
<意訳>
「私たちの行持(行い保つこと)によって、諸仏の行持があらわれ、諸仏の成就せられた大道が実現するのである。」
では「行持」とは何か。
それは仏祖の行履そのもの、「只管打坐(しかんたざ)」にほかならない。
この只管打坐は、形象としての坐禅に留まらない。
行住坐臥、いついかなる時も工夫次第で只管打坐となる。
只管打坐とならない時はない。
この行持は尽十方世界、全宇宙を窮め尽くしあらわさずにはおれない。
そのとき私たちの行持は諸仏の行持であり、それ以外に諸仏の行持はあらわれないのだ。
行持とは、究極の意味体験。
言語を絶した「仏行」そのもの。
「仏行」を行持している自己に外部はない。
過去・現在・未来の間断なき道環である。
十方三世一切仏。
<追記>
「行持」とはかくも難しいのだ・・・
光陰矢の如し。
諸仏の行持をまねぶ努力を怠ってはならない。
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<意訳>
「私たちの行持(行い保つこと)によって、諸仏の行持があらわれ、諸仏の成就せられた大道が実現するのである。」
では「行持」とは何か。
それは仏祖の行履そのもの、「只管打坐(しかんたざ)」にほかならない。
この只管打坐は、形象としての坐禅に留まらない。
行住坐臥、いついかなる時も工夫次第で只管打坐となる。
只管打坐とならない時はない。
この行持は尽十方世界、全宇宙を窮め尽くしあらわさずにはおれない。
そのとき私たちの行持は諸仏の行持であり、それ以外に諸仏の行持はあらわれないのだ。
行持とは、究極の意味体験。
言語を絶した「仏行」そのもの。
「仏行」を行持している自己に外部はない。
過去・現在・未来の間断なき道環である。
十方三世一切仏。
<追記>
「行持」とはかくも難しいのだ・・・
光陰矢の如し。
諸仏の行持をまねぶ努力を怠ってはならない。
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中村宗一氏の訳、浅学なため知りませんでした。
私は、現代語訳では玉城康四郎訳を用いています。
と言っても、この記事は読経していてハッと浮かんだ直感のようなものを、言葉にしたものなので、学術的、思想的な裏付けは怪しいものです・・・。
曹洞宗の所依の経典、『修証義五章』に組み込まれているものですから、われわれにとっては馴染み深い言葉なんですよ。
水野弥穂子先生は、ここで示される「諸仏の行持見成」と「われらが行持見成」、「諸仏の大道通達」と「われらが行持通達」は同じ事実だとされています。
そして、それが証されるのは、発心・修行・菩提・涅槃の行持においてということなのでしょう。
その具体的実現となると・・・難しいものがありますが。
やはり坐禅に集約されているように思います。
いずれにしても、審細に参究していく必要がありますね・・・。
未熟者のブログですが、これからもよかったらいらしてください。