一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

至福のひと時(acquaさん、C神父との坐禅と語らいのひととき)

2007年02月23日 | 哲学・思想・宗教
昨日はブログをきっかけに親しくさせていただいているacquaさんと、イタリア人のC神父が当寺にお越しくださいました。

はじめに、うららかな陽だまりが射し込む本堂でともに約30分間坐禅をしました。

清々しい気に身心が満たされた、あっという間の坐のひととき。

坐禅が充実しているときは決まって時間が経つのが早く感じられます。

その後で一緒にゆっくりとお話をさせていただきました。

なんと!C神父は駒澤大学仏教学部の大先輩(もっともC神父は大学院の修士課程ですが)。
(acquaさんから以前聞いたかもしれませんが・・・すっかり忘れていました。)

宗門人なら知らない者はいないであろう、宗門の碩学、鏡島元隆先生、河村孝道先生、酒井得元先生、奈良康明先生から親しく仏教学、正法眼蔵を学ばれたとのこと。

卒論は道元禅師と聖フランチェスコの比較研究。

日本に来る前から仏教に大きな関心があり、来日してからは禅に惹かれて、ついに駒澤大学の門を叩いたとのこと。

参禅経験も長いようでとても坐り慣れていらっしゃいました。

C神父とお話をしていて感じたのは、すでにC神父の中ではキリスト教と仏教の間に、根底における霊性の相違を認めていらっしゃらないということ。

穏やかに、しかし明瞭に「表現の違い」と仰っておられました。

なんということでしょうか・・・。

なんて素晴らしいのでしょうか・・・。

ここにも思いを共有する宗教者がいるとは・・・。

イエスさまとお釈迦さまが用意してくださった出会い。

仏縁とイエス縁の巡り会いとでもいいましょうか。

私たちの心が開いているからこそ招き寄せた出会い。


もう宗教は対立の時代ではなく、対話の時代に入っています。

もっと言えば、「共感の時代」かもしれません。

お互いがお互いを認め合い、お互いを好きになる。

そして、交流を通して底に流れる霊性を共有するということ。


カトリックのacquaさんとC神父には当寺に参拝いただき、ともに坐禅をさせていただいたことを何より誇りに思います。

まさに法喜充満の体験でした。


夜は岡野先生のコスモス・セラピーの講座。

終わってミーティングルームで一杯。

MさんとO町で一杯。

これほど学びが充実した日は久しぶりです。


acquaさんの真っ直ぐな瞳と、C神父の純朴な温かい眼差しを思い浮かべながらの記事。

BGMにはリヒター指揮のバッハ「マタイ受難曲」を聴きながら♪(宗教的感情の密度が極めて濃い。感動します。受難なのになぜか元気になる。)

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7 コメント

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キリスト教と佛教 (zazen256)
2007-02-24 04:12:41
 私は、最近の十数年間の某大国政治家の演説のなかで、キリスト教の教えであるかのような理由付けの言葉が入っていることに疑問を感じていました。
 りょう住職様のブログを拝見しておりまして、その根本に相違はないとは思っていましたが、今回のご体験記事のお陰で安心して佛教が学べます。
 やはりそれぞれの基盤は同じなのですね。
 互いに認め合う心を失わず、正義に随っていきたいと思います。
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ひゃぁ (acqua)
2007-02-24 09:37:57
焦点が合わないだけかもしれないまっすぐな瞳です(^^ゞ

冗談は置いて、私は不慣れな坐禅でしたがやはり30分がとても早く感じられました。お二人の真ん中に坐って、なにか気の交歓というのでしょうか、感じましたよ。

そしてなにより、zazen256さんのコメントがうれしくて、神やみ仏の「道具」になれたようでありがたく思いました。私自身実家が曹洞宗ですが、幼い頃から馴染みながらよくわからなかったお釈迦さまの教えが、カトリックの信仰によってわかった点も多々あるのです。そして仏教のおかげで、自分の信仰に深みがましていくのではないかと感じています。
余談ですがキリスト教にも原理主義信奉者が存在します。zazen256さんが感じられた疑問も、その可能性が否めません。

ところでマタイはあの書簡の数々を見てわかるように、エネルギーに溢れた使徒でした。元軍人でしたし、受難にそのエネルギーを感じ元気が出るのは「さもありなん」と思います(^^)
私たちにとって主の十字架はいのちの源、希望のしるし、心の拠り所でもあるのです。

ありがとうございました。
また是非、「コラボ」いたしましょう♪
返信する
真剣な雑談 (zazen256)
2007-02-25 03:32:36
 りょう住職様のお部屋で、訪問者同士のコメント交換をお許しください。

 私はacquaさんに理解していただきまして、とても嬉しいです。
私の表現力不足で未熟な文を理解していただいたことを何より感謝します。
 全ての人々は、心の底では、それぞれに個人の平和、世の中の平和、宇宙全体の平和を願っているのですね。このことを明確に自覚して、個人として一生懸命に努力精進して生きていきたいと思います。
 今後とも何とぞよろしくお願いします。
 
 りょう住職様の生き方、考え方は、今日の投稿文からも充分に伝わってきますが、何時も、感服しております。
返信する
zazen256さん (acqua)
2007-02-25 12:27:06
私のような若輩者に過分なお言葉をありがとうございます。
元々日本人はグレーゾーンの多い民族だと思いますが、
昨今の情緒には白・黒ハッキリするほうが楽なのか、
微妙な感覚を味わうことが不得手になっているようですね。
何でもどちらかにカテゴライズしたがる傾向が多くなったように思います。
しかし同じ方向を見ているのであれば、
歩む道や歩く速度が違っても、
道草食ってもいいと思うのですね。
組織化してしまうと、きまりやおきてにはめ込むほうが
統制しやすいこともわかるのですが。

人の感性や想いというのは誰一人同じではありませんから、
共有できる部分を模索して関わるほうが、
相互に得るものも提供できるものも豊かになると思っています。
仏教もキリスト教も、一人の「人」が説いた教えなのですから。

こちらこそ、今後共よろしくお願い申し上げます。


りょうさん、この場をありがとうございます
返信する
zazen256さん、acquaさんへ (りょう)
2007-02-25 21:31:42
>お二人へ
もちろん遠慮なさらずに、自由に交流していただいて構いません。
ブログの上でも、思いが通じ合うということは素晴らしいことですね☆
拙ブログがその一助となれば幸甚です。


>zazen256さんへ
どんな宗教であれ、原理主義的信仰の立場からは、外部であるわれわれは救われない異教徒として憐れまれるか、彼らの意に添わない行動を取った場合には突如として排除される対象になるかのどちらですね。
表面的には、他宗教に理解のある風を装う人もいますが、一皮むけば分かりません。
注意しなければならないと思います。
現代に至るまで、そうしたタイプの信仰が宗教間の対立を生じさせ、血で血を洗う争いの原因となってきたように思います。
「表現の違い」
底流にある真理は等しい。
この信念を持ってさえいれば、私たち人類は言葉や教えに過度に囚われることなく、全世界、全宇宙を愛せるようになっていくでしょうね。


>acquaさんへ
改めてたくさんのお土産ありがとうございました♪
チヂミをさっそく試してみました。
美味しかったです☆
あとキョンファ先生のレシピでキムムッチムも。
これがまたうまいのなんの。
ご飯が進みすぎて危険です(笑)

>お二人の真ん中に坐って、なにか気の交歓というのでしょうか、感じましたよ。
私もなんとも居心地のいい柔らかな気が身心に充満するのを感じました。
私の心がゆったりと開いていたのと、acquaさんと、C神父のまごころが感応したのかもしれませんね。
と言うと、スピリチュアル系に聞こえるかもしれませんが・・・汗
ともあれ、交歓とはまさにいい得てますね。

>幼い頃から馴染みながらよくわからなかったお釈迦さまの教えが、カトリックの信仰によってわかった点も多々あるのです。そして仏教のおかげで、自分の信仰に深みがましていくのではないかと感じています。

実は幼い頃、わけあって、私の部屋にキリスト教の児童向け小冊子が数冊ありました。
つくづく自分でも不思議な子だと思うんですが、その小冊子が大好きだったんです。
だから幼心にもイエスさまは親しい存在でした。
しかし、ここ数年来、イエスから遠ざかっていました。
坊さんとして、イエスの生き方に惹かれてしまう自分に少しの後ろめたさも感じていましたし・・・。
でも岡野先生のイエスの学びで、開眼したというか(笑)
肌にふれるようにイエスが迫ってきまして。
「イエスってなんて素晴らしいんだ・・・」
「イエスのこと大好きでいいんだ!」
根底にある霊性に気付いたとき、もう、仏教だのキリスト教だのって、分け隔てる気持ちで揺れ動かなくてすむようになった。
これは、私にとっては大きな転換でした。

私もイエスとの出会いを通して、自分の信仰がいっそう深くなったような気がしています。

なるほど、マタイは軍人だったのですね。
バッハがここまで、情熱的になれたのもマタイから何かの啓示を得たのかもしれません。

十字架はキリスト教徒の方には特別な意味があるのでしょう。
それは時に生の原動力にもなるものだと思います。

ぜひ、またやりましょう!
返信する
補足 (acqua)
2007-02-25 22:39:32
イエスは、完全なる神でありながら完全なる人でもあります。
神性と人性を兼ね備えたお方ですから、
「イエス大好き」もごく自然なことだと思います。
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Unknown (りょう)
2007-02-26 22:17:31
acquaさんへ
補足ありがとうございます。
一生を熱いイエスファンとして送ろうと思います。
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