夕方本堂の戸締りをしていると、小ぎれいな身なりをした品のいいご夫人二人がやってきました。
おや、これはもしかして・・・
直感は当たりました。
「ものみの塔」、通称「エホバの証人」の方たちです。
どこそこで行われる大会の案内で来たとのこと。
彼らの信仰について否定をする気は全くありません。
しかし、どうして彼らがお寺にまで足を運んでくるか、その神経が分からないのです。
というのは彼らがきわめて原理主義的であり、彼らの信仰の根底に、自分たちの信仰だけが絶対に正しく他の神や他の信仰を認めないという考えがあるからです。
どうして、そういう方々がお寺に来て自分たちの布教活動をしなければならないのか、しかもこの私に向かって・・・。
私は彼女らに言いました。
「あなた方は、ご自分たちの教えが、自分たちの神が唯一絶対に正しいと思っているわけでしょう? 他の神や、他の教えは間違っていると・・・。私はそうは思っていない。キリスト教の教会に行けば、ちゃんとキリスト教のやり方でお祈りします。 じゃあ聴きますが、あなた方はいまここで、この寺のご本尊さまに手を合わせることができますか? もしそれができたら、お話も伺いますし、そのパンフレットも受け取りましょう。」
と聞いたら、案の定いいえできません・・・と答えました。
「そうですか。だったら、どうぞお引取りください。あなた方は失礼なことをしているとは思いませんか。」
それでも何か言おうとする彼女たちに、
「いや!聞く耳を持ちませんから、お引取りください!」と言ったら、やっとすごすごと帰っていきました。
原理主義的宗教は、必ず他の宗教を排斥しようとします。自分たちだけが唯一絶対に正しいと信じ込んでいるわけですから、当然と言えば当然ですけど。。。
しかし、そうした宗教のあり方が人類史においてさまざまな悲惨な争いを引き起こしてきたのは自明の事実です。
私は現代こそ、他宗教間の根底に流れている共通した霊性を通して、交流すべき時期だと考えています。
宇宙はひとつですから、どれが正しくてどれが間違っているということは究極には言えないし、各宗教はただ現れ方が異なるだけで本質は一緒なのだと考えています。
これについては、とてもここで一言では言えません・・・。
その点、「ものみの塔」は時代の流れに逆行しています。というか、宇宙の流れ、人類の進化に逆行しているように私には思えるのです。自分たちの信仰に誇りを持つことは素晴らしいことだと思います。しかし、それは他の信仰を認め、尊重するということが前提です。
異質な他者として、他の信仰を認めない宗教に賛同することはできません。もちろん存在することは認めますが・・・。
彼女たちには可哀想な気もしましたが・・・寺の住職が毅然とした態度を取ることは彼女たちのためにもなるでしょう。
おや、これはもしかして・・・
直感は当たりました。
「ものみの塔」、通称「エホバの証人」の方たちです。
どこそこで行われる大会の案内で来たとのこと。
彼らの信仰について否定をする気は全くありません。
しかし、どうして彼らがお寺にまで足を運んでくるか、その神経が分からないのです。
というのは彼らがきわめて原理主義的であり、彼らの信仰の根底に、自分たちの信仰だけが絶対に正しく他の神や他の信仰を認めないという考えがあるからです。
どうして、そういう方々がお寺に来て自分たちの布教活動をしなければならないのか、しかもこの私に向かって・・・。
私は彼女らに言いました。
「あなた方は、ご自分たちの教えが、自分たちの神が唯一絶対に正しいと思っているわけでしょう? 他の神や、他の教えは間違っていると・・・。私はそうは思っていない。キリスト教の教会に行けば、ちゃんとキリスト教のやり方でお祈りします。 じゃあ聴きますが、あなた方はいまここで、この寺のご本尊さまに手を合わせることができますか? もしそれができたら、お話も伺いますし、そのパンフレットも受け取りましょう。」
と聞いたら、案の定いいえできません・・・と答えました。
「そうですか。だったら、どうぞお引取りください。あなた方は失礼なことをしているとは思いませんか。」
それでも何か言おうとする彼女たちに、
「いや!聞く耳を持ちませんから、お引取りください!」と言ったら、やっとすごすごと帰っていきました。
原理主義的宗教は、必ず他の宗教を排斥しようとします。自分たちだけが唯一絶対に正しいと信じ込んでいるわけですから、当然と言えば当然ですけど。。。
しかし、そうした宗教のあり方が人類史においてさまざまな悲惨な争いを引き起こしてきたのは自明の事実です。
私は現代こそ、他宗教間の根底に流れている共通した霊性を通して、交流すべき時期だと考えています。
宇宙はひとつですから、どれが正しくてどれが間違っているということは究極には言えないし、各宗教はただ現れ方が異なるだけで本質は一緒なのだと考えています。
これについては、とてもここで一言では言えません・・・。
その点、「ものみの塔」は時代の流れに逆行しています。というか、宇宙の流れ、人類の進化に逆行しているように私には思えるのです。自分たちの信仰に誇りを持つことは素晴らしいことだと思います。しかし、それは他の信仰を認め、尊重するということが前提です。
異質な他者として、他の信仰を認めない宗教に賛同することはできません。もちろん存在することは認めますが・・・。
彼女たちには可哀想な気もしましたが・・・寺の住職が毅然とした態度を取ることは彼女たちのためにもなるでしょう。
私はいつもカトリックの信仰に招かれていることを話し、聖書のお話をお伺いし、15分ほどの時間を過ごしていました。全てに時があり今はその時ではないとお話をして、なにか感じるものがあったらこちらから連絡しますから待っててください、とお願いしています。同じ集会所からは二度と来ていませんし、他の集会所にも連絡してくれたようで、訪問は受けなくなりました。
彼女達のために、お祈りしましょう。
これについてはまったく同感です。
>ですから残念ですが、りょうさんの取った方法では「導かなければ」という思いを強めるだけで、訪問はなくならない気がします。
ん~言われていることもよく分かるのですが・・・しかし、これについては、私は自分なりにベターな対応をしたと思っています。
彼らが私の立場を理解するか否かにかかわらず、やはり私は自分の宗教的立場を表明することが、彼らへの誠意だと思うんです。
それに「忙しいので・・・」と断ったら、「じゃあ、忙しくなければいいのかしら?」ということにはなりませんか。
ともあれ、原理主義は何があっても聞く耳は持たないでしょう・・・。残念ながら。
また、時間があれば彼らの話も聞いてみようと思います。
どんな物語を話すことやら・・・。
でも、
> どんな物語を話すことやら・・・。
これはごめんなさい、揶揄する気持ちでしょうか?
彼女達はそれがすばらしいものであると信じているだけですし、記事を拝見する限り行事の案内で訪問しただけしか伝わってきません。それは、「叩け、さらば開かれん」を実践しているだけで、カトリック教会がバザーのお知らせや、コンサートの案内、クリスマスの行事の案内を個別に訪問して行うこととなんら変りありません。もちろん教会を訪れて欲しい根底には宣教する目的があるので、訪問先で聖書を持ち出したりはしませんが...(その前に、エホバの方々の聖書の読み方に比較したら、私ははずかしいくらい読んでません・汗)。
りょうさんに、エホバの証人という団体に対する嫌悪感がありありと見えたので、ちょっと意見申し上げました。
ちなみにカトリックでも、神社仏閣で合掌する行為はまだ厳密には否定されることをお伝えしておきます。
これについては、私は別に自分の立場を意識して発言したわけではありません。
この件について住職としての立場に縛られているとも思っていませんし。。。
>揶揄する気持ちでしょうか?
揶揄というよりも、自分たちの信じる物語を押し付けるやり方については批判的な見解を持っています。
実際、ここでは明記しませんでしたが「人類史を学べば分かることなんです」と言われましたし。
しかし、揶揄する気持ちも完全にないと言い切れないかもしれません。そのことについては弁解しません。
>ちなみにカトリックでも、神社仏閣で合掌する行為はまだ厳密には否定されることをお伝えしておきます
遺憾ですし、きわめて残念なことだと思います。
ご自身として毅然とした態度を取られたのですね。
これは私が本文を読み違えたのでしょう、失礼しました。
私はかつて部下をかの団体に拉致られましたが、
聖書に触れなければ実に優秀な部下でした。
彼女たちのマニュアルにないことがたくさんあります。
責めるようなことがないように願うばかりです。
申し訳ないです。
「寺の住職として」と本文にありますが、それは寺の住職としての、社会的立場、いわゆる世間的立場を指しているわけではありません。
うまくいえないのですが、「信仰者としての住職」と言ったほうがいいのかな・・・。
もちろん彼らには何度となくお寺に来ていただいて構わないんです。
ただし、お寺は、そもそも、礼拝をする場所というのが根本にあります。それは教会も同じだと思いますが。
もし、自分たちの宗教的な話を聴いてもらいたいのなら、はじめに相手の宗教を認めるのが先です。
お寺で宣教をするのなら、まず本堂で礼拝をしなければいけません。これは当然のことです。
「あなたたちの信仰は認めない、仏さまを礼拝する気もない(彼らの教義から言えば、邪教、邪神だからということになるでしょうが…)。だけど、私たちの宗教活動には理解を示して欲しい、私たちの信仰の正しさを認めて欲しい」というあり方は到底認められません。
それは、私たちの信仰に対する冒涜ではありませんか?
「礼拝できますか?」
「いいえ、できません」
と言われたときには、私はご本尊様を足蹴にされた気分でした。
>エホバの証人という団体に対する嫌悪感がありありと見えたので、ちょっと意見申し上げました
と言われますが、「おたくの本尊様は礼拝できない(邪教だから)、でも私たちの正しい教えの行事に参加して欲しい」というあり方に対して、嫌悪感を抱くことは間違っていることでしょうか・・・。
彼らが、彼らの中の善意で布教をしに来ていることは分かります。そして、彼らが彼ら自身の信仰に対して真摯なことも。
だから、嫌悪感は感じても、心底憎むわけではないです。
お寺に来るのはけっこう。
ただ自分たちの教えをお寺に広めに来るんだったら、まず本堂に礼拝してからです。それができないんだったら、お寺には来ないでもらいたい。
これが、信仰者としての寺住職の宗教的立場ということを伝えたかったのです。
言葉足らずで、誤解があったかもしれませんがおゆるしください。
なお、これ以上の議論は望みません。
もしまだ言い足りないことがあれば、メールでやり取りさせていただければ幸いです。
もちろん、今度お会いしたときでも、電話でも、構いませんけどね。
教会は、やっぱり集う場で拝むことは求めていませんのでそれをしなくても話は聴きます...いい加減なんでしょう(^^;
お騒がせご迷惑様でした。
もうこれで終わりますからご心配なく~
俺の方こそ昔から突発的に熱くなるところがあるんです・・・
気にしないでくださいね!
ではでは~
「他宗教間の根底に流れている共通した霊性を通して、交流すべき」とい考えに俺は凄く共感しています。
ただ今回のりょうの「文章だけ」を読むと、りょうは「他宗教間の根底に流れている共通した霊性を通して、交流すべき」という宗教を信仰していて「それ以外は認めない」という風にもとられちゃうと思います。
それだと「他の信仰を認め、尊重する」という理念から矛盾する様な気がします。
「自分を認めてくれたなら相手も認める」のではなく「自分を認めない相手でも自分は認められる」というのが無償の「愛」なんじゃないのかなぁって思います。
まあ俺なんかと比べ物にならないくらいにりょうは勉強してるだろうし、真剣に考えてると思うので本意はもっと深いとこにあんだろうとは思っています。
文章ではなく学生の時の様に酒でも交わしながら議論したいものです。
俺は基督教(といってもいろいろありますが)よりですが無宗教を通しています。
ただ「無宗教=何も信じていない」というのではなく「1つだけを信じない」「無国籍宗教」って感じなのかな。これはきっとりょうやacquaさんの考えに近いんだと自分では思っています。
ちなみにウチにもエホバの方が月1くらいできます。
話までは聞きませんが冊子は置いていってもらいます。
自分にとって参考になる部分は受け入れてます。
イイとこ取りです。
これを「邪」と思う人もいるかもしれませんが、それを否定はしません。それを否定する事は自分の「無宗教」の考えも否定する事になる様な気がして。
ちょっとと言いながらダラダラ長くなってしまいましたが、他宗教を認める事ができる住職はそうそういないと思うのでりょうの活躍にはとても期待をしています。
今後もより一層、懐の深いビッグな住職になって欲しいと祈願しています。アーメン