一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

シンポジウムのご案内

2006年09月17日 | つながりコスモロジー
下記の要領で、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンにまなびつつ」の一般参加者の募集が始まりました。

 環境問題をぜひ解決したい、そのために自分にできることをしたいと真剣に考えておられる方々の参加を心からお待ちしております。


                    記


 本シンポジウムは、環境問題について一般的な知識をお伝えするというより、趣意書のような方向性について予め理解していただき、基本的に合意できそうだと思われる方にお集まりいただいて、その方向性を再確認し、可能ならばご一緒にその先の展開を考えていただくことを目指しております。

 そのため、シンポジウムの進行もスケジュールをきっちり決めるのではなく、ごく大まかに、開会から午前中、大井玄(元国立環境研究所所長・東京大学医学部名誉教授)、小澤徳太郎(環境問題スペシャリスト・元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)、西岡秀三(国立環境研究所理事)、岡野守也(サングラハ教育・心理研究所主幹)によるシンポジウムの趣意についての確認の発題、午後から4者の対談の後、出席者からのメッセージ、コメント、質問をいただく、というふうに考えております。

 また、討議内容をその場かぎりでない実りあるものにするため、ご参加のお申し込みをいただいた方には、シンポジウムの発題の内容のパンフレットを予めお送りしてお読みいただけるようにする予定です。

 皆様、それぞれに大変お忙しいことは十分承知しておりますが、なにとぞ趣旨をご理解いただいた上で、ぜひ、万障繰り合わせて、ご出席・ご参加いただけますようお願い申し上げます。

 また、意思はあるが都合で今回は参加できないという方には、ぜひ、メッセージをいただきたいと思っております。


日 時 2006年11月19日(日)午前10時~午後5時

会 場 龍宝寺 玉縄幼稚園講堂

住 所 247-0073 神奈川県鎌倉市植木129(JR大船駅より徒歩20分、バスの便あり) 
   
参加費 2000円(昼食のお弁当・お茶代を含む。お支払いは当日受付にて)


●お問い合わせ、お申し込みは、シンポジウム事務局宛にファックス(0466-86-1824)またはメール(greenwelfarestate@mail.goo.ne.jp)でお願い致します。お名前、お仕事、ご住所、お電話・ファックス番号、メールアドレスをご明記下さい。お申し込みいただいた方には後日、発題パンフレット、地図等、資料をお送りします。

 終了後、インフォーマルな二次会も行ないたいと思っております。併せてそちらへのご参加の有無もお知らせ下さい。

 申し込み締め切りは、9月30日とさせていたきます。

ふるってご参加ください。

では会場でお目にかかりましょう!


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10 コメント

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シンポジウム趣意書 (りょう)
2006-09-17 10:07:59
シンポジウム『日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!

                       ――スウェーデンに学びつつ』



                       趣意書





 多くの警告や専門機関、専門家、民間活動家も含めた多くの人々の努力にもかかわらず、この数十年、世界全体としての環境は悪化の一途をたどっています。

 例えば、地球温暖化―異常気象、オゾン層の破壊、森林の減少、耕地・土壌の減少、海洋資源の限界―減少、生物種の激減、生態系の崩壊、化学物質による大気・耕地・海洋の汚染、核廃棄物や産業廃棄物から生活ゴミまでの際限のない増加などなど、どれをとっても根本的に改善されているものはないのではないでしょうか。



 専門家が警告を発し、それを聞いて理解した人々が「できることをする」ことによって、こうした環境の悪化はやや減速されたかもしれませんが、止まってはいない、それどころかじわじわと深刻化していると思われます。環境問題は私たちが豊かになるという目的のために行ってきた経済活動の結果、必然的に「目的外の結果」が蓄積し続けているものだからです。このことは、改めて確認しておく必要があるでしょう。

 残念ながらこれまでの多くの努力は、まだ有効な結果を生み出しているとは言いにくいのです。「努力をしていれば、そのうちなんとかなる」という発想は、こと環境に関しては不適切です。たとえ心理的には不快であっても、出発点としてはそのことのきびしい認識が不可欠だと思われます。



 しかし悪化し続けている現状を認識するだけでは、私たちは危機感と不安が高まり、無力感と絶望に陥ってしまうだけでしょう。

 そういう意味で、本シンポジウムは、「環境の危機を訴える」ことだけを目的にしていません。それは、きわめて早い段階の『ローマクラブ・レポート(邦訳『成長の限界』ダイヤモンド社)』(1970年代初め)を典型とする、国連を初め国内外の信用できると思われる機関や専門家が示してきたデータに基づいた警告をごく素直に読むと、地球環境が非常な危機にあることはすでにあまりにも明らかだと思われるからです。



 私たちは本シンポジウムを通じて、むしろ環境の危機に対して「どういう対策が本当に有効かつ可能か」ということを、スウェーデンという一つの国家単位の実例をモデルとして検討します。そして、そこから大枠を学ぶことによって、もちろんそのままにではないにしても、日本のこれから進むべき方向性が見えてくるのではないか、という提案をしたいと思うのです。



 かつてヨーロッパの北辺のきわめて貧しい農業国だったスウェーデンが、戦前から特に戦後にかけて、急速な近代化・工業化によって豊かな福祉国家に変貌してきたことは、よく知られているとおりです。単に「経済大国」になるのではなく、「生活大国」になったのです。

 しかし、70年代、そして90年代前半、スウェーデンが不況にみまわれた時、「それ見たことか、やりすぎの福祉のための高い税と財政の負担が経済の足を引っぱった。やはり『スウェーデン・モデル』には無理があったのだ」という印象批評がありました。

 ところが実際には、90年代前半の不況をわずか数年でみごとに克服し、国の財政収支はほぼバランスし、世界経済フォーラム(ダボス会議)の経済競争力調査では2005年までの過去3年間世界第3位にランクされています。いまや経済・財政と福祉、さらには環境とのみごとなバランスを確立しつつあるようです。



 しかもそれは、たまたまうまくいったのではありません。問題解決の手法として、目先の問題に対応するのをフォアキャスト、到達目標を掲げそれに向けて計画的に実行していくのをバックキャストといいますが、スウェーデンは、政治主導のバックキャスト手法によって、「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」という到達目標を掲げ、それに向けて着実に政策を実行し、目標の実現に近づいているということなのです。



 「日本も『循環型社会』というコンセプトで努力しているではないか」という反論もあるかもしれません。しかし、決定的な違いは、必然的に大量生産―大量消費―大量の廃棄物を生み出すというかたちの経済成長を続けることが前提になっていることです。これは原理からしても「持続可能」だとは思われません。



 それに対しスウェーデンは、政府レベルで、経済活動を自然の許容する範囲にとどめながらしかも高い福祉水準を維持できるような成長は続けるという、きわめて巧みなバランスを取ろうとしていますし、それは成功しつつあるようです。

 私たちは、もちろんスウェーデンを理想化・美化するつもりはありませんし、他の国からも学ぶ必要がないとは思っていませんが、国際自然保護連合の評価を信じるならば、現在のところ「エコロジカルに持続可能な社会」にもっとも近づきつつある国であるようです。そういう意味で、きわめて希望のもてる「学ぶべきモデル」だと考えているのです。



 しかも、政治アレルギーに陥っている日本の市民にとって重要なことは、スウェーデンの政治権力はみごとなまでの自己浄化能力・自己浄化システムを備えているということです。堕落しない民主的な政治権力というものが、現実に存在しえているのです。

 自浄能力のある真に民主的な政治権力の誘導によってこそ、経済・財政と福祉と環境のバランスのとれた、本当に「持続可能な社会=緑の福祉国家」を実現することが可能になるのではないか、それはこれからあらゆる国家が目指すべき近未来の目標であり、日本にとってもそうであることはほぼまちがいないのではないか、と私たちは考えています。



 私たち日本人が今スウェーデンから学ぶべきものは、なによりも国を挙げて「緑の福祉国家」を目指しうる国民の資質とその代表・指導者たちの英知と倫理性だと思います。



 きわめて残念ながら当面日本には、「緑の福祉国家」政策を強力に推進できるような国民の合意も政治勢力も見当たりませんし、すぐに形成することも難しいでしょうが、環境の危機の切迫性からすると早急に必要であることは確かだと思われます。



 本シンポジウムは、そうした状況の中でまずともかく、方向性に賛同していただける方、あるいは少なくとも肯定的な関心を持っていただける方にお集まりいただき、近未来の日本の方向指示のできる、ゆるやかではあるが確実な方向性を共有するオピニオン・グループを創出したい、という願いをもって開催致します。



 趣旨にご賛同いただける方、次の世代のためにぜひご参加・ご協力いただけますようお願い致します。



      2006年8月28日



                         シンポジウム呼び掛け人



                         元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー

                         環境問題スペシャリスト       小澤徳太郎

                         サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也

                         元国立環境研究所所長       大井 玄



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はじめまして! (Aya)
2006-09-17 13:11:46
偶然たどり着きました。

御寺の芍薬のお花畑が大好きで、

初夏は特によく散策させて頂いています。

そのお寺の住職さんが同世代の方だとは、

とっても驚いてしまいました。

こちらのシンポジウムも意義深い活動ですね。

とても興味深いです。

これからゆっくり、過去の記事なども

拝見させて頂きます!
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焼酎の意味がわかりました(^^) (acqua_cielo)
2006-09-17 21:01:43
親しい宣教師は鎌倉で禅を学び接心にも臨んだそうです。



と、余談でした...シンポジウムですが、まだ次月の予定が確定していません(教会の財務奉仕しているのでメンバーが足りないと休めない..)。

とりあえず関心があることをお伝えしておきます。
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仏教入門 (晴兵衛)
2006-09-18 12:01:20
始めまして。晴兵衛ともうします。



先日、父が亡くなりまして葬儀を行いました。宗派は浄土宗ですが、姉の嫁ぎ先は、浄土真宗です。何も知らないままに、言うがままにしているしかありませんが、幾つか疑問がわいてきまして、一度仏教について勉強しようかと思います。



説法で、「南無阿弥陀仏」を10回唱えると皆(誰でも)極楽浄土へいける都合の良い宗教だと教えてくれました。一方の浄土真宗は、極めて現実的な説法を聞かせてくれます。私 個人的には、浄土真宗の方が理にかなっているように思います。清めの塩の存在も、浄土宗と浄土真宗では真っ向から相反しています。実は、今回 住職の方に「なぜ、清めの塩なのか」と聞きました。相撲でも塩を撒きます。飲食店でも、塩盛りをしてます。なんと、答えは「神道」から由来していると言うのです。そうすると、どこかの時代に神道と仏教が融合したものということになります。

益々、興味をもち、勉強しようかと思っていた矢先に、このブログへ辿りつきました。
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Ayaさんへ (りょう)
2006-09-18 21:36:45
こんばんは。はじめまして。

ようこそいらっしゃいました。

Ayaさんは、ご近所にお住まいでらっしゃるんですね。

当寺にも芍薬の時期にお越しとのこと、ビックリしました・・・

メインはやはり芍薬ですが、それ以外にも、四季を通していろんな花が咲きますのでどうぞお参りください。

過去記事、読んでくだされば嬉しく思います。

シンポジウムもご都合がつけば、ぜひお越しください。

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期間限定 (りょう)
2006-09-18 21:42:35
このブログは原則匿名なんですが、シンポジウムの宣伝もしたいので、今回だけは期間限定で公表することにしました。

焼酎の名前の意味、ばれちゃいましたね・・・(笑)

協会の責任のあるお役につかれているんですね。

シンポジウム、ご都合がつくようでしたら、ぜひお越しください。

日本の未来のためにきわめて有意義なシンポジウムになると思います。

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晴兵衛さんへ (りょう中尉)
2006-09-18 22:09:02
はじめまして。こんばんは。

ようこそいらっしゃいました。

お父様をお亡くしになって、仏教への関心をお持ちになったのですね。



私は曹洞宗の僧侶なので、浄土系の宗旨についてはあまり詳しくありませんが、伝記を読んだりなどして、法然上人、親鸞聖人、どちらの開祖様も敬慕しております。

浄土宗、浄土真宗、どちらが優れているということはないかと思いますが、よく学ばれた上でご自身の信仰の道を見つけてください。

「清めの塩」については、私自身は必要性を感じていませんので行いません。

ですが、曹洞宗侶の中にも、お清めをなさる方もいるようです。

清めの塩は、確かに神道の、死を「穢れ」と捉える考え方によるもので、元来仏教にはない発想ですが、日本仏教は、神道・儒教などとも習合しながら発展してきた側面は否定できません。

「清めの塩」は日本の古来の習俗のひとつですから、強いて檀信徒のみなさんに禁止する必要はないと考えています。

ただ聞かれたときには、こういうわけで自分は清めの塩はしないのだとお答えし、仏教徒である以上は、さりげなく清めないことをお勧めしています。

それでも、塩を撒きたいという人は、そうすることに何も問題はないと思います。



「こうしてはいけない」という教えは窮屈ですからね。



本来宗教は、人を自由にするためにあると思っています。



以上、清めの塩に対する私見を述べてみました。



私は禅宗(曹洞宗)ですが、これからも良かったらお越しください。
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acqua_cieloさんへ (りょう)
2006-09-18 22:14:32
上記、「期間限定」という題のコメントは、acqua_cieloさんにあてたものです。

うっかり、お名前入れるの忘れていました。。。
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風味の変わらぬうちに(^^) (acqua_cielo)
2006-09-18 23:27:02
私はやや鮮度落ち、秋に向かい乾燥肉になりそうなウワサも(笑)



清めの塩は会葬御礼に必ず入っていますね。

宅の実家も曹洞宗ですが、父は葬儀から帰宅すると塩を求めます。自営業なので神棚も祀っている、その関係かもしれません。



ところで昨年、知人のお父様が亡くなり無宗教だったので、遺志を尊重し枕飾りはしないつもりが、ご近所のお世話役が整えてしまったそうです。なんでもお別れに来る方が戸惑うからだとの理由だったらしく、彼女はこれが非常に辛かったようです。

清めの塩といい、宗旨より慣例的になっている部分があると感じていますが、折に触れて本来の意味を知ることもまた趣があると思います。
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acqua_cieloさんへ (りょう)
2006-09-19 18:57:03
いやいや女性は、年齢ではありません!

やっぱり内面から滲み出るものではないでしょうか。

ちなみに周囲には面食いと言われますが、年齢的なストライクゾーンは広い方だと思います。

高木美保さんとか、栗原はるみさん、宮尾登美子とか好きです。。。あ、なんの脈絡もありませんね・・・



冗談はこのくらいにして、、、

何よりも故人の遺志を一番に尊重することが大切ですよね。

と同時に、日本的な慣習や伝統も、その本来的な意味を知った上で共感できるのであれば、なるべく取り入れていった方がいいと思います。

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