ふと自分を見失うことがあったら、まずは、自らの身体の感触を確かめてください。
そして、頭だけの浮ついたものではなく、大地をしっかりと足の裏で感じてみてください。
前大本山総持寺貫首板橋禅師の言葉です。
板橋禅師の言葉は決して高みに立つことがありません。
つまり尊大さがない。
平易な言葉で、わたしたちの日常底の中にこそ真理があることを気づかせてくれます。
実際はこの真理に生きることが難しいのですが、頭の上でも分かっていたほうがマシと言うものです。
さて、板橋禅師は口癖のように「足の裏で歩め」ということを言われます。
足の裏で歩めとは、具体的には足裏の身体感覚を鋭敏にして、それを実感しながら歩めということだと思います。
私たちは確かに普通に歩いています。
でもなかなか“本当に”歩いているとは言えないのではないでしょうか。
私たちの頭の中はつねに次々と湧き上がる観念や空想にさらされています。
それはつまり言葉に支配されていると言うこと。
だから私たちの純粋な命の活動は言葉に染汚(ぜんな)されてしまうのです。
大地にしっかり足を付けて足裏で歩くことは、一瞬、一瞬を生命(いのち)で満たすということ。
その命は「ほとけの御命」そのもの。
「ダンマ」と言っても、「如来」と言ってもいいと思います。
それが“本当に”歩くということなのです。
板橋禅師は、「それが坐るための、さらには、宇宙と一つに生きていることを実感するための、大事な一歩であり、すべてでもある」と述べています。
「足裏で歩む」
ぜひ心がけたいものです。
『坐りませんか 板橋興宗』<PHP研究所>より
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応援ありがとうございました!
そして、頭だけの浮ついたものではなく、大地をしっかりと足の裏で感じてみてください。
前大本山総持寺貫首板橋禅師の言葉です。
板橋禅師の言葉は決して高みに立つことがありません。
つまり尊大さがない。
平易な言葉で、わたしたちの日常底の中にこそ真理があることを気づかせてくれます。
実際はこの真理に生きることが難しいのですが、頭の上でも分かっていたほうがマシと言うものです。
さて、板橋禅師は口癖のように「足の裏で歩め」ということを言われます。
足の裏で歩めとは、具体的には足裏の身体感覚を鋭敏にして、それを実感しながら歩めということだと思います。
私たちは確かに普通に歩いています。
でもなかなか“本当に”歩いているとは言えないのではないでしょうか。
私たちの頭の中はつねに次々と湧き上がる観念や空想にさらされています。
それはつまり言葉に支配されていると言うこと。
だから私たちの純粋な命の活動は言葉に染汚(ぜんな)されてしまうのです。
大地にしっかり足を付けて足裏で歩くことは、一瞬、一瞬を生命(いのち)で満たすということ。
その命は「ほとけの御命」そのもの。
「ダンマ」と言っても、「如来」と言ってもいいと思います。
それが“本当に”歩くということなのです。
板橋禅師は、「それが坐るための、さらには、宇宙と一つに生きていることを実感するための、大事な一歩であり、すべてでもある」と述べています。
「足裏で歩む」
ぜひ心がけたいものです。
『坐りませんか 板橋興宗』<PHP研究所>より
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