雑宝蔵経という経典の中に「無財の七施」という教えがあります。
「無財の七施」とは、お金はなくとも私たちが日頃から心がけて実践できる七つの布施行と言えます。
布施行とは、無私の心で施し与える行を言いますが、それは何も金品に限ったことではありません。
<無財の七施>
一、眼施(げんせ) やさしい眼で人と接すること。
二、和顔施(わげんせ) にこやかな顔で人と接すること。
三、言辞施(ごんじせ) やさしい言葉を人にかけること。
四、身施(しんせ) 自分の身体で人の幸せのためできることをすること。
五、心施(しんせ) 相手を思いやり相手の幸せを思うこと。
六、床座施(しょうざせ) 席をゆずること。
七、房舎施(ぼうしゃせ) 自分の家を提供すること。
α、 傾耳施(けいじせ) 相手の話に耳を傾け相手の気持ちに寄り添うこと。
経典では七施までですが、さらに+αとして「傾耳施」という布施行を、岡野守也先生※が提示されています。
今回は、一、眼施について。
まず経典の引用をします。
一名眼施。
常以好眼。
視父母師長沙門婆羅門。
不意悪眼。
名為眼施。
捨身受身。
得清浄眼。
未来成仏。
得天眼仏眼。
是名第一果報。
では、あえて、この経のベースになっている素朴な因果応報の輪廻思想には囚われずに所感を述べてみましょう。
と言うのは、現代人にとって、こうした善因善果的な表現は、かえって胡散臭く感じられてしまうからです。
かくいう私もその一人。
大切なのはやはり、いま・ここの自己のあり方と、行の不断の継続にあります。
前置きが長くなりました・・・。
さて、私たちは人と接するときどんな目で人を見ているでしょうか。
「常に好眼を以って」、つまり、いつもやさしい眼差しで人と接しているでしょうか。
疑いの目。
憎しみの目。
妬みの目。
怒りの目。
貪りの目。
淫らな目。
蔑みの目。
謗りの目。
果たしてこれらの目で人を見ていないと言えるでしょうか。
自省してみれば思い当たるはずですが、眼差しひとつとっても、私達はともするとそこに邪悪な思いを込めてしまいます。
そうした思いは目を通して相手に伝わり、さらに増幅して自分の心に返ってくる。
私はそんなふうにイメージします。
それは、相手にとってはもちろんのこと、この私の「まごころ」を汚し滅ぼすものです。
相手の心を思いやれば、自然にやさしい眼差しになってきます。
もし、なかなかやさしい心になれなければ、無理してでもやさしい眼差しをする練習だと思って人に接してみる。
そのように無理してでもやってみると、不思議と心が付いてくるものです。
幼稚園の子どもたちは、私の眼差しを敏感に察知します。
語らずとも、目は常に多くを語っているようです。
「目は口ほどに物を言う」。
私が何かにイライラしていたり、心が晴れないときは、自然に目もキツクなっているのか、あまり子どもたちが寄ってきません。
ですが、そんなときにも、少し無理してやさしい眼差しを心がけていると、モヤモヤした心が晴れてきます。
すると、子どもたちもだんだん近寄ってきます。
もしかしたら、子どもは大人以上に、表情に現れる情報を読み取ることに長けているのかもしれません。
またやさしい目で人と接するということには、現象的なものに限らず、人の長所を見ることを心がけ、人の欠点をおおらかにゆるすと言うこともあるでしょう。
それは取りも直さず、自分自身にも当てはまります。
自分の長所にしっかりと目を向け、自分の短所はおおらかにゆるすということ(状況、限度にもよりますが)。
あ、これは、サングラハ※でおなじみの10円玉のワークのようですね(このワークについては別の機会に述べたいと思います)。
他者を(本当に)ゆるすことのできる人は、自分を(本当に)ゆるすことのできる人。
また、自分を(本当に)ゆるすことのできる人は、他者を(本当に)ゆるすことのできる人である、というのが私の考えです。
やさしい目で人(自他)と接する。
いつも明るいほうへ
どこでも明るいほうへ
やさしい眼差しを向けていきたいものです。
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「無財の七施」とは、お金はなくとも私たちが日頃から心がけて実践できる七つの布施行と言えます。
布施行とは、無私の心で施し与える行を言いますが、それは何も金品に限ったことではありません。
<無財の七施>
一、眼施(げんせ) やさしい眼で人と接すること。
二、和顔施(わげんせ) にこやかな顔で人と接すること。
三、言辞施(ごんじせ) やさしい言葉を人にかけること。
四、身施(しんせ) 自分の身体で人の幸せのためできることをすること。
五、心施(しんせ) 相手を思いやり相手の幸せを思うこと。
六、床座施(しょうざせ) 席をゆずること。
七、房舎施(ぼうしゃせ) 自分の家を提供すること。
α、 傾耳施(けいじせ) 相手の話に耳を傾け相手の気持ちに寄り添うこと。
経典では七施までですが、さらに+αとして「傾耳施」という布施行を、岡野守也先生※が提示されています。
今回は、一、眼施について。
まず経典の引用をします。
一名眼施。
常以好眼。
視父母師長沙門婆羅門。
不意悪眼。
名為眼施。
捨身受身。
得清浄眼。
未来成仏。
得天眼仏眼。
是名第一果報。
では、あえて、この経のベースになっている素朴な因果応報の輪廻思想には囚われずに所感を述べてみましょう。
と言うのは、現代人にとって、こうした善因善果的な表現は、かえって胡散臭く感じられてしまうからです。
かくいう私もその一人。
大切なのはやはり、いま・ここの自己のあり方と、行の不断の継続にあります。
前置きが長くなりました・・・。
さて、私たちは人と接するときどんな目で人を見ているでしょうか。
「常に好眼を以って」、つまり、いつもやさしい眼差しで人と接しているでしょうか。
疑いの目。
憎しみの目。
妬みの目。
怒りの目。
貪りの目。
淫らな目。
蔑みの目。
謗りの目。
果たしてこれらの目で人を見ていないと言えるでしょうか。
自省してみれば思い当たるはずですが、眼差しひとつとっても、私達はともするとそこに邪悪な思いを込めてしまいます。
そうした思いは目を通して相手に伝わり、さらに増幅して自分の心に返ってくる。
私はそんなふうにイメージします。
それは、相手にとってはもちろんのこと、この私の「まごころ」を汚し滅ぼすものです。
相手の心を思いやれば、自然にやさしい眼差しになってきます。
もし、なかなかやさしい心になれなければ、無理してでもやさしい眼差しをする練習だと思って人に接してみる。
そのように無理してでもやってみると、不思議と心が付いてくるものです。
幼稚園の子どもたちは、私の眼差しを敏感に察知します。
語らずとも、目は常に多くを語っているようです。
「目は口ほどに物を言う」。
私が何かにイライラしていたり、心が晴れないときは、自然に目もキツクなっているのか、あまり子どもたちが寄ってきません。
ですが、そんなときにも、少し無理してやさしい眼差しを心がけていると、モヤモヤした心が晴れてきます。
すると、子どもたちもだんだん近寄ってきます。
もしかしたら、子どもは大人以上に、表情に現れる情報を読み取ることに長けているのかもしれません。
またやさしい目で人と接するということには、現象的なものに限らず、人の長所を見ることを心がけ、人の欠点をおおらかにゆるすと言うこともあるでしょう。
それは取りも直さず、自分自身にも当てはまります。
自分の長所にしっかりと目を向け、自分の短所はおおらかにゆるすということ(状況、限度にもよりますが)。
あ、これは、サングラハ※でおなじみの10円玉のワークのようですね(このワークについては別の機会に述べたいと思います)。
他者を(本当に)ゆるすことのできる人は、自分を(本当に)ゆるすことのできる人。
また、自分を(本当に)ゆるすことのできる人は、他者を(本当に)ゆるすことのできる人である、というのが私の考えです。
やさしい目で人(自他)と接する。
いつも明るいほうへ
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