飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム~草木、やなぎ

2010年04月08日 | 万葉アルバム(自然編)

春柳 葛城山に 立つ雲の
立ちても居ても 妹をしぞ思ふ
   =巻11-2453 柿本人麻呂歌集=


 葛城山に立つ雲のように立っても座ってもあなたのことが思われる。という意味。

万葉で詠われた葛城山は、奈良県と大阪府の県境にある葛城連山の総称で、南は金剛山、北へ葛城山、二上山に連なる。

「春柳」(はるやなぎ)は、春芽を出し始めた頃の柳のことをいう。
春柳の枝を髪に挿して葛(かずら)にすることから葛城山の枕詞としている。

この歌は、最も短い万葉歌として大変有名。万葉仮名字の原文で表すと、
「春柳 葛山 發雲 立座 妹思」 と、10字にしかならないからである。
いわゆる「略体歌」と呼ばれる初期万葉歌の形式で表現されている。

「やなぎ」は、一般的にはシダレヤナギが普通で、奈良時代に朝鮮を経て渡来したといわれる。
高さ10~20㍍になり、細い枝がしだれるのが特徴。
3~5月、葉より早くまたは同時に基部に3~5個の小さな葉をつけた尾状花序をだす。
『万葉集』に詠まれた「やなぎ」は三十六首にのぼる。

万葉アルバム~花、おみなえし

2010年04月01日 | 万葉アルバム(自然編)

手に取れば 袖さへにほふ をみなへし
この白露に 散らまく惜しも  
   =巻10-2115 作者未詳=


 袖までも黄色に染まるような美しい女郎花(おみなえし)が、この白露で散ってしまうのは惜しいことだ。という意味。

にほふ、とは「美しい色に染まる」とか「あざやかに色づく」といようなこと。

女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。美女のなかでもひときわ美しい姿であるとの意味でつけられた名。オミナエシ科の多年草。日当たりの良い山地や草原に生え、初秋に黄色い小さな花を咲かせる。粟花(あわばな)ともいい、原産地は、日本。

『万葉集』に詠まれた「をみなへし」は十四首ある。

万葉アルバム~花、さくら

2010年03月22日 | 万葉アルバム(自然編)

桜花 今ぞ盛りと 人は言へど
我れは寂しも 君としあらねば
  =巻18-4074 大伴池主=


 桜は今が盛りと人は言うけれど、私は寂しい。あなたと一緒ではないから。という意味。

古代では、山に咲くヤマザクラや、八重咲きの桜が一般的であった。有名な吉野の桜も、ヤマザクラである。ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸末期に品種改良されたものである。

『万葉集』に詠まれた「さくら」は四十四首と多いが、
名歌と思われるのは、万葉集以外に多く見られる。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  (在原業平 伊勢物語)
いにしへの奈良のみやこの八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな (伊勢大輔)
願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ (西行)
花見にと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにぞありける (西行)
敷島の 大和心を人問はば 朝日ににほふ山ざくら花  (本居宣長)
花の色はうつりにけりないたづらに 我が身よにふる ながめせしまに (小野小町)

万葉アルバム~花、つばき

2010年03月04日 | 万葉アルバム(自然編)

巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに
見つつ偲はな 巨勢の春野を
   =巻1-54 坂門人足(さかとのひとたり)=


 巨勢山の連なった椿の木々、そして点々と連なって咲く椿の花、つくづくと秋の椿の木々を見て、思い起こそうではありませんか。あの巨勢の春の野を。という意味。

「つらつら椿」は、直接的には、椿の並木を表すものだが、次の「つらつらに」で、さらに椿が点々と咲き乱れるさまを流れるようなリズムで情景描写している。

『万葉集』に詠まれた「つばき」は九首ある。

 巨勢は、大和から紀伊への通路にある土地で、ここから東南に、今木峠を越えると、吉野へ出ることができる。持統天皇の吉野行幸の際に、華やかさを演出するために詠まれたものと思う。

万葉アルバム~紅葉、かえるて(カエデ)

2010年02月18日 | 万葉アルバム(自然編)

我がやどに もみつかへるて 見るごとに
妹(いも)を懸(か)けつつ 恋ひぬ日はなし  
   =巻8-1623 大伴田村大嬢=


 家の庭の紅葉した楓(かえで)を見るたびに、あなたのことを思って、恋しくないなんて日はありませんよ。という意味。

妹(いもうと)の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌。

 大伴田村大嬢は大伴宿奈麻呂の娘。
妹の坂上大嬢は、いとこ大伴家持の妻となり、天平18-天平勝宝3年(746‐751)の夫の越中守在任中に任地におもむいている。遠く越中にいる妹を思って歌った歌9首のうちのひとつ。

「もみつかへるて」とは、もみじする楓のこと。
「かへるて」は蛙の手に似ていることに由来しており、「る」が省略されて「かえて」すなわち楓と呼ばれるようになったようだ。

『万葉集』に詠まれた「かへるて」はこの歌を含めて二首のみ。

 日本のカエデとして代表されるのは、イロハモミジである。最もよく見られるカエデ属の種で、紅葉の代表種である。

万葉アルバム~花、たちばな

2010年02月11日 | 万葉アルバム(自然編)

風に散る 花橘を 袖に受けて
君がみ跡と 偲ひつるかも    
   =巻10-1966 作者未詳=


 風に吹かれて橘の花がわが袖にこぼれ散ってきました。もうお会いできないあのお方、今頃はどうされているのでしょうか。という意味。

 かって通ってきてくれた人が疎遠になったか、あるいは亡くなったのだろうか、
二人して眺めた思い出の橘の木の下に佇む女性。そしてその上に花びらが
はらはらと散りかかる、という絵画的でかつ幻想的な歌。

 橘は、垂仁天皇の命を受けてタジマモリが常世(仙境)に赴き、持ち帰ったと伝えられている。
そのため、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えた。
初夏には五弁の白い花を咲かせ、芳しい香りを漂わせる。 

『万葉集』においても「たちばな」は愛詠され、なんと六十九首も詠まれている。

 平安時代になると、紫宸殿の前庭に左近の桜、右近の橘と並べて植えられ、
以来、橘は格別の品格を持つ花とされるようになる。

万葉アルバム~花、うのはな(ウツギ)

2010年01月23日 | 万葉アルバム(自然編)

ほととぎす 鳴く声聞くや 卯(う)の花の 
咲き散る岡に 葛(くず)引く娘子(おとめ)  
   =巻10-1942 作者未詳=


 ほととぎすの鳴く声を聞きましたか、卯の花が咲いては散る丘で葛を引いている娘さん。という意味。

 ウツギ(空木)、ユキノシタ科ウツギ属。ウノハナ(卯の花)とも呼ばれる。
茎が中空のため空木と呼ばれる。「卯の花」の名は空木の花の意、または卯月(旧暦4月)に咲く花の意ともいう。
5月下旬から7月にかけて、円錐花序を多数だし、直径1~1.5㌢の白い花が密に垂れ下がって咲く。
ウツギには、ヒメウツギ、マルバウツギ、サクラウツギ、ウラジロウツギ、バイカウツギなど種類が多く、ホトトギスも迷うくらいである。

 ウノハナは万葉集に24首も登場する。その多くが、霍公鳥(ほととぎす)とセットで詠まれている。唱歌「夏は来ぬ」の「卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて・・・」でもセットで詠まれていてお馴染みである。


こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉アルバム~花、すみれ

2010年01月14日 | 万葉アルバム(自然編)

春の野に すみれ採(つ)みにと 来しわれぞ
野をなつかしみ 一夜寝にける
   =巻8-1424 山部赤人=


 春の野にすみれを摘もうとやって来たが、野の美しさに心惹かれ、一晩過ごしてしまったよ。という意味。

 スミレを若い娘ととらえて、娘と一夜寝を共にする、といった解釈をする人もいるが、自然派の赤人が詠んだのだから、そのような思いで歌ったのではないと思う。

 古代ではスミレは薬草として使われていたようで、赤人のすみれ摘みは「薬草狩り」ではなかったかとの説があり、私もこの説に同感だ。薬草のためにはたくさん採集しなければならなかったので、「一夜寝にける」まで居たのであろう。このほうが自然派の赤人らしい歌になる。

 山部赤人は奈良時代の初期から中期にかけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)。『古今集』仮名序には、高く評価される赤人の代表作として、この歌が挙げられている。

 スミレはスミレ科スミレ属。和名の由来については、花を横から見ると大工道具の墨入れに似ているとの牧野富太郎が唱えた説がある。
万葉集にはスミレの歌は4首ある。


この写真の万葉歌碑は千葉県木更津市馬来田の武田川・妙泉寺下右岸畔に建てられている。
馬来田の里山の雰囲気はまだまだ万葉の頃の息吹が感じられるようだ。
山部赤人は千葉県上総山辺郡(現在の東金市と周辺)生まれであるという説があり、東金に赤人塚もある。

万葉アルバム~花、うめ

2010年01月01日 | 万葉アルバム(自然編)

わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れ来るかも
   =巻5-822 大伴旅人=


 わが家の庭に梅の花が散る。天空の果てから、雪が流れてくるよ。という意味。
梅花の落ちるさまを「天より雪の流れ来る」と表現したのは、スケールのとても大きな、すぐれた歌だと思う。
梅の散る様子を雪に例えていることから庭には、白い梅が咲いていたことが伺える。

天平2年正月、九州の大宰府にて作者が催した宴で作った歌。
宴で作られた梅花の歌三十二首があり、その中の一首である。

万葉人は梅の花を愛賞し、花の下で宴を開き、散る花を惜しみたびたび歌った。
万葉集には120首ほどの梅の歌がある。
万葉ではないが、菅原道真が詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌も有名である。

 私の地元松戸にある戸定亭の庭に緑額梅が見事な花をつける。
白い花びらの中央が薄黄色で、この万葉歌にぴったりのような気がする。

この万葉歌碑は名古屋の東山植物園の万葉の散歩道にあるもの(2010/12/24写す)。


こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。

万葉アルバム~花、いちし(ヒガンバナ)

2009年12月14日 | 万葉アルバム(自然編)

道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく
人皆知りぬ我(あ)が恋妻(こひづま)は  
   =巻11-2480 柿本人麻呂歌集=


 道ばたにある彼岸花のように、とても目立つ花。そのようにみんなに知られてしまった、私の恋妻は。という意味。

 「いちし(壱師)の花」には諸説あるが、彼岸花とするのが有力。
ヒガンバナ、ヒガンバナ科ヒガンバナ属。
群生する多年草。昔、中国から渡来したものが広がったという。
りん茎から30~50㌢の花茎をだし、赤色の花を輪状につける。花のあと、線形の葉を広げる。和名は彼岸のころ花が咲くのでつけられた。

ヒガンバナは非常に目立つ花である。「いちしろく」は顕著に。

 私がヒガンバナで一番印象に残る場所は、奈良県明日香村の真神原や稲淵の水田地帯、真っ赤に染まるヒガンバナと田園風景との調和がすばらしい。

万葉アルバム~花、あせび

2009年11月23日 | 万葉アルバム(自然編)

磯の上に 生ふる馬酔木(あせび)を 手折らめど 
見すべき君が 在りと言はなくに  
   =巻2-166 大伯皇女=


 岩のほとりの馬酔木の花を手折ろうと思うけれども、それを見せたい弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない。という意味。

 686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑された、大津皇子を葛城の二上山に葬った時に、姉の大迫皇女が作った歌。

アセビ(別名あしび)ツツジ科アセビ属。
やや乾燥した山地に生え、高さ2~9㍍になる。
3~5月、枝先に円錐形序をだし、スズランのようなつぼ形の花を房状にたくさん付け、満開時期は花穂が樹を覆うように咲き誇る。
花冠は長さ6~8㍉の壺形で先は浅く5裂する。有毒植物でもある。
漢字で「馬酔木(あせび)」と書くのはアセボトキシンという有毒成分をもち、馬が食べると神経が麻痺し酔ったような状態になるところに由来し、かつては葉を煮出して殺虫剤としても利用されていたようだ。
万葉集には馬酔木を詠んだ歌が10首ある。

「馬酔木はどこか犯し難い気品がある。それでいて手折ってみせたい、いじらしい風情の花」 (堀辰雄:大和路信濃路より) という記述が的確な表現であると思う。

 奈良公園にはアセビの古木がたくさんあって、万葉の花らしい風情を添えているが、名物の鹿もこのアセビを食べないし、母鹿は子鹿に食べないように教えるそうだ。

万葉アルバム~花、ぬばたま(ヒオウギ)

2009年11月09日 | 万葉アルバム(自然編)

居(ゐ)明かして君をば待たむぬばたまの
我が黒髪に霜は降るとも
   =巻2-89 磐姫皇后=


 このまま夜明けまで、あなたをお待ちします。私の黒髪にたとえ霜が降りようとも。という意味。

 磐姫(いわのひめ)皇后は仁徳天皇の皇后で、ひどく嫉妬深い女性として有名である。
 磐姫が旅行中に、天皇がかねてご執心の異母妹・八田皇女(やたのひめみこ)をこっそりと宮中に入れたのだ。それを知った磐姫は宮中に帰らず、山城国の帰化人の所に身を寄せてしまった。 
 慌てた天皇は再三磐姫を迎えに来たが、磐姫は天皇に会うこともなく、5年後にその地で生涯を終えたという。激しい気性だったが愛情も深かったようだ。

「ぬばたま」は、ヒオウギ(緋扇)の光沢のある黒色の種子のことを古代では言っていたようだ。
ヒオウギはアヤメ科ヒオウギ属。山地の草原に生える多年草。花は径4~6㌢で、黄赤色で内側に濃い暗紅点が多数ある。葉がひのきの薄板で作った扇状に展開するので桧扇とも呼ばれ、いけばなの花材に使われる。晩秋には光沢のある黒い実をつけ、これが「ぬばたま」とよばれていたのである。
このヒオウギの花そのものを詠った歌は一首もない。ぬばたまは枕詞として用いられ、夜・黒髪・黒馬などの黒を強調するための詞とされている。

万葉アルバム~草、あし

2009年10月29日 | 万葉アルバム(自然編)

葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 
寒き夕は 大和し思ほゆ  
   =巻1-64 志貴皇子=


 葦が生い茂る水面を行く鴨の羽がいに霜が降っている。このような寒い夕暮れは、大和のことがしみじみ思い出される。という意味。

 作者の志貴皇子は天智天皇の第七皇子。この歌は、706年、文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)にお供して、難波離宮へ旅した時の歌。政治の中心から離れて、あまり居心地のよいことではなかったと思う。だからこそ、冷静で淡々とした中に、繊細で柔らかな感性を感じる。

「羽がひ」は、たたんだ翼が背で交わるところ。

『万葉集』に詠まれた「アシ」は49首ある。

アシ(葦、芦、蘆、葭)またはヨシは、温帯から熱帯にかけての湿地帯に分布する背の高いイネ科の草の一種である。

万葉アルバム~花、あふち(センダン)

2009年10月13日 | 万葉アルバム(自然編)

妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし
我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに
   =巻5-798 山上憶良=


 妻の死を悲しみ、私の涙がまだ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭の楝(=栴檀)の花も散ってしまうのだろう。という意味。

妻を亡くした大伴旅人に奉った歌。作者の山上憶良(660~733年)は、百済からの渡来人であり、藤原京時代から奈良時代中期に活躍した。漢文学や仏教の豊かな教養をもとに、貧・老・病・死、人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしながら、下層階級へ温かいまなざしを向けた歌が収められている。

「楝の花」は古名で現在の栴檀(せんだん)の花のこと。センダン科センダン属の落葉高木。街路樹や公園などによく見かける。5~6月、新しくのびた枝の葉腋から長さ10~15㌢の複集散花序をだし、淡紫色の小さな花を多数開く。果実は薬用にし、核は数珠の玉に使う。
ちなみに、「栴檀は双葉より芳し」(せんだんはふたばよりかんばし)の諺はよく知られるが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)を指すらしい。
万葉集には「楝の花」の歌は4首ある。

私の息子が通っていた幼稚園が、松戸市千駄堀にある「栴檀幼稚園」。
当時はなんと変わった名前だろうと思っていたが、しばらくしてセンダンの木の名前だとわかった。栴檀の木をみると当時を思い出す。

 この万葉歌碑は名古屋の東山動植物園内の万葉の散歩道に置かれている(2010/12/24写す)。



こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。