それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

放送大学「錯覚の科学」:世界を見ている僕の脳みそが本当はすべて幻想を映し出しているのだとしたら

2017-04-14 10:45:28 | テレビとラジオ
 ライトノベルみたいな副題を付けてしまった。

 でも、ここで伝えたいこの番組の魅力はそこに凝縮されている。

 放送大学でやっている「錯覚の科学」というプログラムが面白いのである。

 主任講師は菊池聡さん(信州大学教授)。

 認知心理学がご専門とのこと。



 この番組にはハッとさせられる瞬間が沢山ある。

 例えば、左右の両手それぞれで人差し指だけを上に立てて、顔の前にもってきて欲しい。

 それで右手だけ前方にめいっぱい伸ばし、もう左手は肘を曲げて顔の前に。

 つまり、恋ダンスのポーズ。

 この状態で、両指の長さを比べてほしい。

 どうなっている?

 はい、普通に右手の人差し指が短く見えるはずだ。

 遠近法だから。



 では、両手の間隔をそのまま左右にちょっとだけ開いて。

 両方視界に入るギリギリまで。

 それで、もう一度、2本の指の長さを比べて。

 距離で言えば、左指が顔に近い。

 だから、本来ならさっきと同じように右手の人差し指が短く見えるはずなのだが、そうはなっていないはずだ。

 どうなっている?

 限りなく同じ長さに見えているのではないか。



 その理由は、人間が脳内で指の長さの認識を補正しているからだという。

 人間(ある程度生きてきた人間)は、指の長さを経験的に学び、よく知っている。

 遠くにあっても、どれくらいなのか知っている。

 だから、遠くに見えた時にも、近くで見た時の記憶がその映像を補正して認識している。

 2本の指が近い時は、両方を比較するので、遠近法の認識が強まり、長さの差が認識されるが、

 2本の指が遠い時は、長さの差が認識できなくなる、という。



 つまり、光の反射から見えてくる映像と、

 記憶によって構成されている映像が、

 人間の脳内では、常にミックスされ、編集されていることが分かる。

 この構造はややこしいので、もう少し詳しく考えてみよう。

 まず、人間は物体を「距離」という物差しで認識しようとする。

 小さく見えたら遠くにある。これは遠近法。

 ところが、遠くにあると認識すると、

 「遠くにあるから小さく見えるけど、本当はもっと大きい。なぜなら、以前に近く見たら大きかったから。」という補正が働く。

 本当はもっと大きいという記憶の認識が、脳内で映し出されている映像を補正して、少し大きく認識させるのである。


 小さく見える=遠い → 記憶の補正 → 本当は大きい=大きく補正


 ということなのだ。これを無意識に瞬間的にやっているのだ。

 怖い!!怖いよ!!

 僕が見ている世界は「本当の世界」なの?

 完全に『ソフィーの世界』だ!

 あの本に出会った結果、僕は社会科学の研究で身を立てることになったわけだが、

 それを認知心理学で考え直したら、またあの時のゾワゾワ感が!!

 先生!!!!

テレビ東京「勇者ああああ」:ゲームの記憶をめぐる最高にくだらなくハッピーなバラエティ

2017-04-14 10:23:38 | テレビとラジオ
 昔はゲーム関連番組がどこかで必ずやっていた。

 例えば、「大竹まことのただいま!PCランド」など、ゲームを紹介する番組が結構あった。

 子どもの頃、よく見ていた。

 ゲーム画面というのは、見ているだけで何かワクワクするものがある。

 今の子どもにとっても同じだろうか?



 それが徐々に消えて、いつの間にかゲーム番組というものについて考えなくなった。

 高校生になってからは、ゲーム自体もまったくやらなくなった。

 音楽に熱中するという、どこにでもいる高校生になっていた。

 

 ところが、私は留学を境にもう一度ゲームに目覚めた。
 
 寂しくなった時に、ニコニコ動画のゲーム実況にはまったのである。

 ゲームを買うお金もない、プレイする時間もない(ただし、共用のテレビだけはあった)。
 
 娯楽が奪われた孤独な博士課程の英生活のなかで、ゲーム実況は救いだった。

 「ゲームセンターCX」という番組を知ったのも、その流れからだった。

 よゐこの有野氏がレトロゲームをプレイしてクリアを目指す番組。

 ただそれだけなにに、すごいスポーツを見ているような、そんな感動があった。

 一時期、休載になってしまっていたマンガ『ハイスコアガール』も、レトロゲームへの注目を集める大きな役割を果たした。
 


 そんな流れのなかで、「勇者ああああ」である。

 今、ノリにノッている芸人アルコ&ピース(以下、アルピー)の冠番組だ。

 この番組の良さは、最高にくだらないということだ。

 ゲームにチャレンジするということよりも、ゲームをやって面白かった記憶や空間をもう一度面白がる番組だと言っていい。

 小学生の時にゲームが面白かったのは、ゲームそれ自体の内容だけでなく、ゲームを取り巻く空間や人間関係があったからだ。

 自分ひとりとゲームの空間。

 友人数人とゲームの空間。

 気になる異性とゲームの空間。

 くだらない時間だったけど、頭にこびりついている記憶がある。

 友人が常にとても少なかった私でも、ゲームをめぐる記憶はそれなりに楽しげだ。



 「ゲームああああ」は、学生の時のくだらないノリを大人が本気でやっている。

 そこは一流のテレビスタッフだから、企画は超くだらないが、しかしよく練られている。

 「射撃のプロふたり(クレーン射撃と猟師)がガンシューティングをやったら、どっちが勝つか?」
 
 「ストリートファイター2の波動拳を4人連続で出し続けて相手を倒せなかったら、電気ショック」

 「ゲームが趣味だというアイドルが本当にゲーム好きかどうかを確かめる」

 そこにいちいちアルピーの「ゲームあるある」や「ゲーム物まね」が入ってくる。それがとても懐かしくて、嬉しくなる。

 人間にとって、テレビゲームとは何なのか考えさせられるような、考えさせられないような、そんなくだらなくて最高の番組である。