それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ドラクエ10:大衆化する主人公

2015-03-09 23:08:34 | テレビとラジオ
ドラクエが第10弾で遂にオンライン化し、システムは爆発的に複雑になった。

メインのストーリーと数多のクエスト(頼まれごとを解決するゲーム)、土地を買い家を建てるなどのシミュレーション要素など、やれることが非常に増えた。

戦闘も立体的になり、アクションの要素が戦闘シーンにかなり多く入っている。

こうした方向性は、すでに海外のRPG(例えば、スカイリム)などですでに実現していて、内容はドラクエ以上に複雑である。



それはともかく、ドラクエ10の世界観が奇妙に歪んでおり、私はそのことに非常に興味を持っている。

オンライン化したため、ストーリーを進めていくと、フィールド上にはしばしば他のプレイヤーの姿が見える。

街で何やら活動し、屋外ではモンスターと戦っている。

プレイヤーは他のプレイヤーを時たま横目で見ながら、自分のストーリーを進める。

全員が全員、世界を救う勇者として闘っている。

それを誰もが知っている。

誰もがこの世界にたった一人の存在。唯一無二の存在。

だが、自分の隣には同じ宿命を負った、絶対にもうひとりいてはいけない勇者が何人も、何十人も、何万人もいるのである。



絶対に交わらない平行世界がいつでも見えてしまう、ドラクエ10。

主人公になって世界を救うことは、絶対に崩壊し得ないアイデンティティなのに、

なのに、ドラクエ10はそのアイデンティティを「フィクションだよ」と言わんばかりに、

オンラインのシステムによって相対化してみせる。



無限の主人公たちが、それぞれ家を買う。

オンラインだから、土地には所有権があり、住所がつく。

唯一無二の主人公が隣人になり、主人公だけが住む奇妙な共同体が出来上がる。

オンラインでつながっているようでいて、しかし、絶対につながらない関係。

「小さな物語でも自分の人生の中では、誰もがみな主人公」と歌ったのは、さだまさし(「主人公」)。

こうして、ドラクエの世界には、無限に増殖する唯一無二の勇者たちが出現し、

遂に大衆になったのである。

ファンタジーはオンライでリアリティに近づき、

フィクションとリアルの境界線で、奇妙に歪んだ世界を創りだした。



これは私が憧れたドラクエではもはやなかった。