それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

NHKドラマ「LIVE! LOVE! SING!」:言葉に出来ないことを伝える

2015-03-11 12:46:44 | テレビとラジオ
NHKドラマ「LIVE! LOVE! SING!」が非常に印象深かった。大変な力作であり、非常に重要な作品だと私は感じた。

ストーリーをかいつまんで言うと、次のような感じ。



ある神戸の高校に通う朝海(石井杏奈)は、合唱部のお別れ会で歌うことになった「しあわせ運べるように」という歌に違和感を感じていた。

この歌は神戸の震災からの復興を願い生まれた歌で、幼い頃、震災を体験した教師の岡里(渡辺大知)が歌うことを提案したのだった。

朝海は福島の出身で、震災後、神戸に引っ越してきたのだった。

岡里と恋人の関係にある朝海は、この歌への違和感を岡里に上手く伝えられずケンカになり、部活にも出なくなった。

心配した岡里が街で朝海を見つけ尾行していくと、朝海は同郷の勝(柾木玲弥)とともに、電車に乗り、どこかへ向かっていった。

その後、やはり同郷の香雅里(木下百花)や本気(前田航基)と落ち合いながら、岡里と朝海は共に福島へと旅をする。

彼らは小学校のどこかに埋めたタイムカプセルを見つけるべく福島に向かったのだが、そこで色々な人や記憶に出会う。

彼らがそこで見たものは・・・。



震災をドラマにするのは非常に難しい。

第一に、被災した人々は生きていて、それぞれの記憶と痛みを持っており、そうやすやすと一つのストーリーに流し込めないためである。

第二次世界大戦と異なるのは、神戸の震災も東北の震災も「歴史」になっていないことで、それは今なおそこにある「現実」である。

その「現実」は無数にあり、どれもひとつずつ真実で、その複数性と多次元性が単一の物語という構造では十分に掬い取れない。

また、震災をテーマにしたドラマを作るのが難しいもうひとつの理由は、観察者と当事者の緊張関係をなかなか止揚できないことにある。

物語を作る側が当事者の痛みを勝手に語ることは、しばしば強烈な暴力に容易に変化しえる。だから、物語の視点やニュアンスの置き方をどう決めるべきなのか、そこには相当な配慮が必要になる。



この「LIVE! LOVE! SING!」では、福島で被災した子供たちの視点から、彼らがどういう痛みを抱えてきたのか、日本のなかで福島がどういう存在なのか、言葉少なに伝えようとする。

劇中で「日本から捨てられた場所」として語られる福島は、存在しているのに、まるで存在しないかのようだ。

劇中では週刊誌の広告や新聞をモチーフに、福島が一方的に語られながら、現実には物理的に隔絶・閉鎖されている状況が対比される。

直接見たことのない福島が、二次的な情報と想像でもって、勝手に創られていく。

そして、誰もが福島の人々への共感を口にするが、それが子供たちの生き方に呪詛のようにのしかかる。

ただただ普通に生きたいだけなのに、いつの間にか共感や励ましの言葉は、彼らに強く正しく生きなければいけないかのように伝わり、よく分からない一方的な説教になる。

単純な共感に基づく善意が、積み重なって相当な暴力に変化していく。

こうした問題は、言葉で説明しても伝えられない。

思考停止の共感ではなく、もっと深く踏み込んだ当事者への移入がどうしても必要になる。

ただただ当事者の痛みがそこにあるだけで、それは風景や情景以外では伝えられない。

ドラマ「LIVE! LOVE! SING!」は、この言葉にし切れない痛みを何とか表現しようとしている。



ドキュメンタリーのような俳優たちの生々しい会話や動きや表情が、震災というそこにある現実を何とか「そこにある現実」として再構成しようとする方途になっている。

安直な物語化を拒絶する現実に対して、ひとつの誠実な表現の在り方ではないだろうか。

瑞々しい若手俳優たちの演技は、生きることを模索する劇中の子どもたちの姿を浮かび上がらせる。

また、大友良英とSachiko MによるBGMも素晴らしい。

ノイズの混じったギターの音色が、抑制の効いたコードとリズムのなかで、歪んだ構造を映し出すこの物語と見事に一体化している。

最もメッセージを全面に押し出しているのが、物語のちょうど中盤で登場する祭りのシーンだ。

福島をめぐる欺瞞の構造が皮肉の利いた歌で示唆される。



このドラマは安易な結論を拒絶する。

震災について簡単に復興を口にすることがしばしば欺瞞を孕むものだと指摘しながらもなお、

主人公は最後には復興を決意する。

様々な痛みを抱えながらもなお、なんとか生を模索する数多の人々がおり、

それに向かって、私は何を思うべきなのか。何を言葉に出来るのか。

簡単に答えを出せない。けれど、向き合う。

死者を一方的に語ることを避け、しかし悼み続ける。

葛藤した後の選択は、同じ選択でも葛藤抜きのそれとは、意味が異なる。

ドラマから敢えてひとつの結論を引き出そうとするなら、そうなるかもしれない。

ドラクエ10:大衆化する主人公

2015-03-09 23:08:34 | テレビとラジオ
ドラクエが第10弾で遂にオンライン化し、システムは爆発的に複雑になった。

メインのストーリーと数多のクエスト(頼まれごとを解決するゲーム)、土地を買い家を建てるなどのシミュレーション要素など、やれることが非常に増えた。

戦闘も立体的になり、アクションの要素が戦闘シーンにかなり多く入っている。

こうした方向性は、すでに海外のRPG(例えば、スカイリム)などですでに実現していて、内容はドラクエ以上に複雑である。



それはともかく、ドラクエ10の世界観が奇妙に歪んでおり、私はそのことに非常に興味を持っている。

オンライン化したため、ストーリーを進めていくと、フィールド上にはしばしば他のプレイヤーの姿が見える。

街で何やら活動し、屋外ではモンスターと戦っている。

プレイヤーは他のプレイヤーを時たま横目で見ながら、自分のストーリーを進める。

全員が全員、世界を救う勇者として闘っている。

それを誰もが知っている。

誰もがこの世界にたった一人の存在。唯一無二の存在。

だが、自分の隣には同じ宿命を負った、絶対にもうひとりいてはいけない勇者が何人も、何十人も、何万人もいるのである。



絶対に交わらない平行世界がいつでも見えてしまう、ドラクエ10。

主人公になって世界を救うことは、絶対に崩壊し得ないアイデンティティなのに、

なのに、ドラクエ10はそのアイデンティティを「フィクションだよ」と言わんばかりに、

オンラインのシステムによって相対化してみせる。



無限の主人公たちが、それぞれ家を買う。

オンラインだから、土地には所有権があり、住所がつく。

唯一無二の主人公が隣人になり、主人公だけが住む奇妙な共同体が出来上がる。

オンラインでつながっているようでいて、しかし、絶対につながらない関係。

「小さな物語でも自分の人生の中では、誰もがみな主人公」と歌ったのは、さだまさし(「主人公」)。

こうして、ドラクエの世界には、無限に増殖する唯一無二の勇者たちが出現し、

遂に大衆になったのである。

ファンタジーはオンライでリアリティに近づき、

フィクションとリアルの境界線で、奇妙に歪んだ世界を創りだした。



これは私が憧れたドラクエではもはやなかった。

公民権運動50周年に思う、黒人音楽について

2015-03-01 01:06:04 | テレビとラジオ
来たる3月7日で、アメリカの公民権運動の転機となった1965年の「セルマ大行進」(血の日曜日)から50年が経つ。

アカデミー賞授賞式では、それを題材とした映画「セルマ」がノミネートされ、ジョン・レジェンドとコモンによる主題歌が主題歌賞を受賞し、そこでのパフォーマンスが話題となった。

ふたりのスピーチも非常に政治的であり、かつ心を揺さぶる感動的なものだった。

すでに昨年、「それでも夜は明ける」という19世紀アメリカでの黒人奴隷を題材とした(史実に基づく)映画がアカデミー賞で作品賞を勝ち得て、話題となっていた。

権力に対してテロで戦い、それに対して強烈な暴力で応酬するという現在の世界情勢に鑑みて、非暴力を中心としたキング牧師の解放運動は、新たな意味を持ちつつある。

同時に、今なお世界中に存在する差別と抑圧の問題に、改めて関心を向ける契機にもなっている。



ブラックミュージックはもはや世界中のポップスに浸透しているが、こうした時代の節目に、私はどうしても改めてその意味を問うてしまうのである。

映画「それでも夜は明ける」では、奴隷となった黒人たちが畑での過酷な労働のなかで、ゴスペルを歌う場面が何度も出てくる。

ゴスペルのメロディは独特で、ピアノの鍵盤では上手く出せない音が使われている。それがいわゆる「ブルーノート」というものだ。

ブルーノートは今では単に格好良いものとして扱われているが、「それでも夜は明ける」を見れば、その本来的文脈が伝わる。

つまり、奴隷の人々が置かれた状況は、とてもじゃないけれど、普通の音階で表現できるような感情ではなかった、ということではないか、と私は思うのである。

それぞれの奴隷の人々の文化的背景など、色々な意味があるだろうが、最終的に私にはそうした環境と感情の相互作用こそが、ブルーノート、そして、ゴスペル、さらにブルースの意味ではないかと思える。

さらに言えば、ゴスペルの情念もまさに、人間が人間として扱われないという地獄、文字通りの地獄から天国を想う、そのとてつもなく巨大なエネルギーによって生み出されたのだろうと思うのである。



ここからは私自身の勝手な独白になってしまう。

学生時代にゴスペルを歌っていた私は今になって、間違いとは言えないまでも、薄っぺらさに気が付く。

私は当時、ゴスペルの意味をキリスト教の普遍主義に還元しすぎていた。

確かにゴスペルはまさに礼拝のための音楽であり、その解釈のためには必然的にキリスト教そのものの理解が不可欠だ。

だが、同時にゴスペル音楽は多くの辞書が示すように、やはり南部の黒人音楽を元々は意味していたのであって、それはきわめて特殊な文脈によって育まれたものだった。

それは分かっていたつもりだったが、分かっていなかった。分かるはずがなかった。

ブラックミュージックの文脈は、世界史で教わらない、全く別のオルタナティブな世界史である。

つまり、初めから国境を超えた人の移動を前提にし、それによって生じたきわめてグローバルな音楽だった。

それは知っていると多くのが人が言うだろう。

では、具体的にどこにどのくらいの奴隷が売られ、強制労働させられていただろうか。

奴隷制をめぐって、どのような論争が行われてきたのだろうか。

奴隷解放後、世界中で黒人の地位はどうなったのか。

植民地の独立によってどのような変化があったのか。

そうした世界史の複雑な動きとブラックミュージックの変化は結びついており、その意味はイギリス留学を経た今になって、ようやく少し見えてきたのである。

そのうえで私は繰り返す。ゴスペルを普遍主義に還元しすぎるべきではないのではないか、と。

私の想像力と知性の貧困を反省せずにはいられない。