それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

彼女の血脈から紛争の構造を学ぶ

2010-08-12 14:26:34 | 日記
今日は彼女の血脈をめぐる憎悪の歴史と戦った。

彼女も支える僕もかなり辛い。

彼女はもう少しで家を出ていかなくてはいけないかもしれない。



さて、彼女の血脈をめぐる憎悪の歴史は僕に多くの事を教えた。

まず憎悪についてだ。

憎悪はいつも小さく生まれる。

それはとても大したことがなかったり、あるいは大したことがあっても、個人間のものだったりする。

しかし、憎悪は他者の思考のなかで複製される。複製される過程で憎悪を基礎づけるストーリーは脚色されたり、純化されたりして、一層憎悪を高める。

憎悪は基本的にイメージや物語に巣を張る。これらがないと憎悪はすぐに消えてしまう。

しかし一度イメージや物語が作られ、複製され始めるともう人の手を離れ、大きくなっていく。

大きくなっていく過程で不思議なのは、この雪だるま式の過程の原動力が経済的な欲望のみならず、しばしば善意ですらあるということだ。

誰かを守りたい。正義を貫きたい。その思いが憎悪を雪だるま式に巨大にしていく。

僕はアジアの歴史も、彼女の周りのことも類似した構造を持っていると思う。




もうひとつは、人間のアイデンティティや理性についてだ。

アイデンティティがぐちゃぐちゃな人がいた。その人はしかも理性が感情の奴隷であった。

僕はいまだかつてこんなわけの分からない人を見たことがなかった。

いや、そうではないのだ。僕はそういう人たちを何度も見てきた。しかしこんなにつぶさに見ていなかっただけなのだ。

アイデンティティの分裂は、現在の自分の自己形成を欲求させ、自分の過去を書き換える。

そして経済的欲望が混ざり行動は混とんとし、また紛争が生じる。

そうした人間は新しく、分裂症的人間を生み出し、憎悪のイメージは新しいかたちで再生産されていく。



これが紛争の構造なのだ。

アイデンティティや言説、イメージという一群と、経済的利益の欲求とは、常に実際の社会では混ざり合っているのだ。

僕は平和について考えてきた。

その回答はまだ先になりそうだ。

しかし僕の思考は大事なところまで来ている。