goo blog サービス終了のお知らせ 

それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

テラスハウスというコント

2013-06-03 20:14:28 | 日記
「テラスハウス」という番組をたまに見ている。

男女6人が家を一軒と車二台をシェアして生活する。

見どころは、トヨタの車がどれほど高性能でおしゃれか、という点と、

ある程度同質的な日本人を一軒の家に住まわせても全然恋愛がうまくいかない、コントのような展開である。

一般的に言って、こういう類の番組は視聴率どうこうというより、「若者っぽさ」「流行っぽさ」という何だか曖昧で、人工的なフレーバーだけで出来ているお菓子のような甘ったるさが売りである。

テラスハウスをパロディにしたコントを幾つか見たが、全く趣味が悪い。

テラスハウスそれ自体がコントなのだから、パロディにする意味がないのである。

例えるなら、雑なサンプリングだけで出来た楽曲を元ネタに使うようなものだ。



そういう番組には、そういう番組にぴったりな音楽というものがある。

テイラー・スウィフトが歌う主題歌は素晴らしい。本当にポップで、甘ったるくて、舌にグロテスクな人口着色料が残るような鮮やかさだ。

残念だったのは、サカナクションの曲を部分的に使用したことだ。

サカナクションは確かにどういうわけか、やたらめったら流行し出してしまったのが、そういう流行によって消費するような軽い音楽ではない。と私は思っている。

だから、この番組にサカナクションの楽曲が使用されたことは、なんだか私をひどく不安にさせたし、何よりガッカリさせた。



この番組は、ただひたすら「軽薄」であるべきなのだ。

おしゃれなことを沢山やって、友達っぽいことを沢山こなして、夢を追っているという表象を流して、

友達から恋愛に至る煉獄をただひたすら、コントのように繰り返し見せてくれればいいのだ。

社会問題も国際問題も何もかも忘れて、麻薬のように、あるいは一度入ったら上がれないぬるま湯のように、日本の若者を心地よくさせてくれ。



たまった洗い物が見えない。

使いきれなくて腐った食べ物も、

置き場がない大量の本も、

リサイクルに出し逃した大量のペットボトルや新聞や、その他、ゴミの山も、

仕事に使うための資料も、

何も見えない。

当然のことながら、生活感を画面から徹底的な排除している。

だから実質的に言えば、(画面上では)テラスハウスとは「シェアハウス」ではなくて、「コントの舞台」のことである。

その結果、登場する人物が全員、とても軽い存在に見える。それが狙いだ。

この番組に伝えたい本質など無いのであり、人間の本質的な葛藤など雑音なのだ。

本当に素晴らしい。

見れば見るほど、空虚な気分になれる。

これは番組を批判しているのではない。

私はしばしば空虚な気分になりたいのだ。だから、全くもって需要にあっているのである。

巡礼

2013-06-02 14:41:32 | 日記
巡礼とは、宗教的に神聖な土地をめぐる行為、だそうである。

西洋的な巡礼においては、原罪というはじめから存在する「マイナス」を出来るだけ「ゼロ」に近付けることが目的とされる。

他方、東洋的な巡礼においては、宗教的な価値という意味では「ゼロ」からスタートする。

西洋と東洋。と分類したが、どの文化圏に属するとしても、どちらの巡礼も何らかのかたちで、われわれの社会のなかで形成されるのではないかと、私は思わざるを得なかった。

誰かの記憶をたどるために、その人の出会った人々や場所をめぐることは、それは決して「宗教的」というわけではないだろう。

しかし、もしもその記憶の「誰か」と、場や人をめぐる行為者としての「自分」の関係について問われたとき、おそらく多くの行為者は、その「誰か」を「自然を超えた何か」として捉えてはいないだろうか?

あるいは、自然という巨大な摂理から救い出そうとしてはいないだろうか?



私は様々な人間関係があまり拡大しすぎないように、あるいは、縮小と拡大をまったくうまくない仕方で組み合わせてきた。

つまり、私の記憶を私の外部から巡るとすれば、それはとてもつまらないものであるか、あるいは途切れ途切れということになるのかなと思う。

つい最近も、私は過去のサークルの人間関係を一度凍結する儀式を終えたような気がしているのである。

「凍結」ということは決して否定的な意味ではなく、まったく考えている余裕がない現状に鑑みて、冷凍庫の奥に置いておこうという程度のものである。

私は公私の人間関係をどこか超然的にすべて、「ビジネス=アイデンティティ」(潜在的顧客=友人)という、食い合わせの悪い資本主義と自己実現の政治というセットに入れることが出来ない。

それを入れることが出来るのは、何と言うか、アングロサクソン的ビジネスマンくらい、という気がしているのである。

このセットはとても優れている。

仕事を成功させることで顧客は満足し、自己実現でき、潜在的顧客としての友人も増加し、友人の幸福度も上昇し、そして、さらに自己実現への階段を昇るのである。

けれど、こんなものは幻想だ。

英語を話すゼミ、はじめました。

2013-05-21 14:40:21 | 日記
今、日本でお世話になっている(働いている)大学で、「英語を話すためのゼミ」を立ち上げた。

今日はその第一回目で内容も上々だった。

1時間半から2時間、それぞれがニュース記事を選び、口頭で説明。ほかのメンバーは予備知識がない状態で、その説明から内容を理解する。そして、それぞれ論点を出して議論する。

質問はいつどのタイミングでもしてよい。ただし、メンバーが言いたいことがあるのにうまく言えないときは、必ず言えるまで待つ。

英語で話す際のポイントはまず長時間話すこと。スポーツと同じで、持久力が実践力につながる。

正直、1時間英語で話すのは容易い。問題はそのあとさらにどれくらい持続するかだ。3時間、4時間。さらには丸一日。

それと英語に詰まったときの対処法を覚えること。詰まった時ほど成長のチャンスである。

私は自分でもプレゼンテーションするが、基本的にはプレゼンターが言った内容を繰り返し、言いかえて理解を確認することが基本的な役割である。それによって、違う言い回しやよりシンプルな言い方を伝えられる(場合もある)。

何より嬉しいのは、メンバーがこのゼミの意義を理解し、効果がありそうだと感じたことである。

この大学では英語のまともな授業が全然取れない。まるで出島のような場所で行われている一部の英語の授業は大人気。しかし数が少なく、それでも話す機会は限られている。

この状況は憂うべき状況であるにもかかわらず、特に変化の兆しはない。だから自分たちで何とかしなければならない。というわけである。



TOEFLの必修化の動きや留学奨励の動きはよく理解できる。

しかし、不思議なのはTOEFLを奨励している政治家の多くがTOEFLを受けたこともないという事実である。

重要なのは、大学でどのようにTOEFLに対応できるぐらいの英語教育をできるかである。

そのためには、スピーキングだけではなく、ライティングを根本的に違うやり方で教えなければならない。

けれども、現役の大学の教授が一体どれほどライティングができるというのだろうか?

ちなみに私が教育を受けた偏差値まあまあの国立大学のライティングの授業は、残念ながら全くこれっぽっちも役に立たないレベルだった。

例えば、一体どの状況で使う英語なのか、はっきりしていなかった。仕事なのか大学なのか個人的な友人関係なのか。英語はその状況によって全く変わってくる。

それと英文を一行ずつ習っても、実践においてはほぼ無意味である。文章は前後の流れで変わってくるからだ。

さらに言えば、英語の基礎で一番大事なコロケーションをちゃんと教えていなかった。日本人が英語を本格的に始めると、まずここで大きく躓いている。ただ、そのことに気づいてもいない。

きりがないので、もうやめる。

要するに、現状では、TOEFLを含め、使える英語を見つけるために必要な要素が全く明らかになっていないし、教授法も謎だし、一体誰が効率的に教えられるのかも分からないということである。



それと、一体どのくらいの点数を取れば使える英語だと言えるのだろうか?

自分の経験で言えば、TOEFLの場合、90点取れても英語のみの職場で仕事として使う最低限のレベルに達するか達しないかぐらいである。

アカデミックで言うと、英語で研究論文を書けるか書けないかギリギリのラインである。

ところが、日本人平均で言えば、このスコアはペラペラだと思われてしまう。

つまり、日本人一般にとっての「英語が出来る」はかなり低いレベルなのである。

だから、一体日本に住んでいる人の何人を、どれくらいのレベルにしたいのか、ということを明確にしないと、対して役に立たない英語力の涵養に時間を使ってしまうことになる可能性がある。



こういう一般的な議論は書いていて思うが、無意味だ。

留学してからの印象だが、日本のエリートは着実に英語の力を身につけようとしている。

政策が変わらなくても、間違いなく。

ただ英語のできるエリートが、また英語のできるエリート(子供)を再生産しているだけのことだ。

私のような周辺の人間は、そこにいかに抗うか(あるいは参入するか)が問題なのだ。

国の政策など、当てにしてはいけない。

打席に立ったら、スウィングする。見逃すのではない。

2013-05-01 20:58:24 | 日記
もうすぐ最終面接試験だ。上手く出来るかどうかは分からないが準備は真剣にしてきた。

うまくいかなかったとしても、それで全てが失敗というわけではない。チャンスはまだある。



なにより、ここまでよくやってきた。

それは自分が努力したというような単純なことではない。

あまりにも多くの偶然が重なってきた。

イギリスでPh.D課程に入ったことも、見切り発車だったけれど途中で辞めず済んだことも、何もかもよく分からないまま、全体像が見えないまま突き進んできた。

自分の力だけでどうにかなるものではなかった。

沢山の、沢山の力が僕のこの瞬間につながっている。



聖書の次の言葉は有名だ。

「求めよ、さらば与えられん」(マタイ福音書)

全く私のイギリス生活はこの言葉通りだった。

だが、チャンスは無限に与えられるわけではない。

たったの一度かもしれない。その期間も1年かもしれないし、1か月かもしれないし、もしかしたらたったの1日かもしれない。

だから、もしもチャンスが与えられたならば、そこでバットを振らなければならない。

そのためにしっかり練習しておかなければならない。

僕はちゃんとバットを振れているだろうか?

少なくとも試合はまだ続いている。途中で終わったり、コールド負けにはなっていない。

それに、この試合はひとりでやっているわけではない。

沢山の人の力を借りている。

人との出会いも一瞬かもしれない。それもまたチャンスだ。

そこで力を貸してもらい、こちらからも分け与える。

細かいチャンスの集積がひとつのチャンスにつながっていく。

バットを振れる瞬間にバットを振る。

それが僕がイギリスで学んだことだ。

僕はまた打席に立つ。そしてバットを振る。

Jにお返し

2013-04-21 21:04:38 | 日記
忙しい。何とかギリギリで課題をこなしている、という感じ。

そんななか、英語の校正をやってくれた友人Jが彼の博論の一部を送ってきてくれた。

ごくごく一部ではあるが、おそらく彼の議論の中核であると思われ、真剣に読ませてもらう。

彼はすでに日本語がかなり達者だが、書くのは大変だからということで、論文は英語で書いている。

彼はコメントを求めている(もちろん英語のチェックではないのだw)。

博論を書くうえで誰に見せるかはとてもセンシティブな問題である。

余計なことを言う人に見せると、変な影響を受けてしまうからだ。

コメントする側から言えば、博論に関するコメントは常に建設的でなければならない。

具体的に何を書くべきなのか、出来るだけコメンテーターのイメージを明確に伝える必要がある。

Jの議論は非常に面白い。あとは、これをどう伸ばしていくかである。

まず、彼の議論の骨子をはっきりさせ、それを立証するためにどれだけの議論がなされているか検討し、そのうえで幾つかコメントを書く。

彼のメッセージは十分に受け取ったつもりでいる。

直接会って議論するのが楽しみだ。